二振りの剣

2006年8月6日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 平和聖日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書 22章35〜38節 (新共同訳・新約)

  それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」
  彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。
  「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれてあることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
  そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

剣二振り

  さきほど、「財布と袋と剣」という小見出しがついている聖書の箇所をお読みいただきました。
  このエピソードはルカによる福音書にしか収められていません。この場面は、最後の晩餐を終えて、オリーブ山で逮捕されるまでの短い時間に起こったこととされています。
  イエスは
「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」(ルカによる福音書22章36節)と勧め、弟子たちが「主よ、剣なら、このとおり二振りあります」と言うと、イエスが「それでよい」と応じる場面です(38節)
  イエス受難の直前にあたっての、剣についてのやりとりは、
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)という言葉のほうが有名です。これはマタイによる福音書26章の後半に収められている会話で、イエスを逮捕する者たちが襲いかかってきた時に、イエスの弟子のひとり(12人の弟子ではなく、その他に何人もついてきていたものと思われます)が、大祭司の手下に剣で切りつけ、片耳を切り落としたときに、イエスが「剣をさやにおさめなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)と言ったという場面です。この言葉が記録されているのはマタイによる福音書だけです。
  もっともマタイも、この「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉のあとに、
「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と書いていますので、イエスの敵対する者に対する復讐心が全くないとは言えず、絶対平和主義というわけでもなさそうです。しかし、少なくとも、人間が人間に向かって手をあげるということはするな、と。復讐は神のすることだ、とは言っているわけです。
  しかし、今回読みましたルカによる福音書の場合は、イエスが受難する直前に、剣を持つことを肯定しており、しかも、弟子の一人が「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、本当に剣で大祭司の手下に切りつけて、右の耳を切り落とすと、イエスは
「やめなさい。もうそれでよい」(ルカによる福音書22章51節)と言っています。「もうそれでよい」ということは、「もうそれでやめておけ。もうじゅうぶんだ」というニュアンスに取れますが、とにかくここで描かれたイエスは、徹底抗戦はしないけれども、限定的な自衛のための暴力や兵器の保持は肯定しているように見えます。
  そういう意味で、このルカによる福音書の剣のエピソードは、武力を捨てて平和への道を求める人びとにとっては、問題をはらんだ箇所であるといえるでしょう。

イエスの言葉かルカの言葉か:ルカ苦渋の選択

  今日の聖書の箇所で、剣を買い求めなさいと言う前に、イエスはこのように12人の弟子たちに問うています。
  
「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足したものがあったか」。これは、ルカによる福音書9章1節からのところを指しています。
  ルカによる福音書の9章でイエスは、神の国を宣べ伝えるために12人を派遣するにあたって、このように言っています。
  
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(ルカによる福音書9章3−4節)
  そのようにかつてイエスは12使徒に命令したのですね。しかし、本日のテクストであるルカ22章35節以降では、「あの時は何も持たせずに行かせた。『しかし今は』財布も袋も剣も持ってゆけ」という風に、最初の命令とは180度違った命令を下しています。
  福音書の言葉を研究するときの基本原則にしたがえば、理解しやすい言葉というのは曲者です。同じようなテーマについて、福音書にこちらに書いてあることと、あちらに書いてあることが食い違っていたならば、どちらが人間にとって受け入れやすいか、あるいは受け入れにくいかを考えます。そして、受け入れやすいほうが、後になって福音書作家が書き加えたり、書き直したりしたものではないかと推測されるわけです。私たちにとって理解しにくいほうがイエス自身の言葉に近くて、後の時代になるほど、そういう人々に受け入れやすいように書き換えてゆくということが起こっているとされています。
  たとえば、「山上の説教」で有名なマタイによる福音書の言葉、「心の貧しい者は幸いである」という言葉は、ルカによる福音書では「貧しい者は幸いである」となっています。「貧しい者は幸せだ」と言うのと「心の貧しい者が幸せだ」と言うのとでは、どちらが難しいか。それは「貧しい者は幸せだ」と言い切るほうがはるかに難しいのではないでしょうか。それなら、おそらくその難しいほうをイエスは言ったのであって、マタイはこれを受け入れやすいように改ざんしたのだ、と推測することができるわけです。(もちろん「心の……」については、他の翻訳の可能性も存在しているのですが)
  同じように、今日の聖書の言葉においても、同じルカによる福音書の中に、「何も持たないで行け」という命令と、「財布も袋も剣も持ってゆけ」という命令とでは、どちらが我々に受け入れやすいか。当然、「財布も袋も剣も備えてゆけ」という命令のほうが現実的で受け入れやすいはずです。
  そして、「現実的で」といえば、福音書のなかで最も現実主義的な特徴が現れているのがルカであろうと私は思います。お金に関するエピソードが一番多いのもルカで、彼は
「塔を建てようとするとき、造り上げるに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者があるだろうか」(ルカによる福音書14章28節)という風に、非常に現実的な視点を主張する福音書作家であります。
  だからこそ、本日の聖書の箇所も、ルカによる福音書にしか書かれていないという理由もあって、ここは現実主義のルカが書き加えた部分であろうと考えられるわけです。
  そういうわけで、ルカは、「しかし今は」財布も袋も剣も持って行け、とイエスに言わせているわけですが、これはイエスの時代にイエス自身が言った言葉ではなく、福音書作家ルカが、彼の時代の教会が置かれていた状況を踏まえて、「しかし今は、最低限の武力として剣を用意しておけ」と書いたのではないかと思われます。
  激しい迫害の中にあって、完全無抵抗ではなく、いくらか応戦できるだけの装備を用意しておけ。しかし、それを積極的に使う必要はない、ただ自衛の場合のみそれを用いよ、という現実的な教えを盛り込んだのかもしれない。それがルカの教会が置かれていた現実だったのかもしれません。
  もちろんそれは、
「敵も愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39節)と命じたイエスの言葉とは、違う道を歩むことになります。しかし、そんなイエスの言葉を重々承知していながらも、ルカは、そしてルカの所属していた教会は、現実的な対処としては、最低限の武器を持つという苦渋の選択を強いられたのではないかと読めるのであります。

わたしたちの現実

  現代のわたしたちが囲まれている現実を見ても、自分から攻撃はしないまでも、抑止力としての武器を持つほうが現実的だと考えたくなるような事態に囲まれています。ですから、このルカの書いた物語は、私たちにとって、他人事ではすまされない状況を示しています。
  誰だって、武装するのがよいことだとは思っていません。しかし、もし責められたら、攻撃されたら、たとえば自分の家に強盗が押し入ってきたら、あなたは戦わないのか。
  私がもし自分の子どもをさらわれたり、殺されたりしたら、「敵を愛しなさい」という聖書の言葉にしたがって、何もせずにがまんしているでしょうか。私にはそんな勇気はありません。押し入ってこられた時点で、最大限の力をふりしぼって戦うことになるでしょうし、もし、本当に自分の防御力がいたらず、子どもが殺されてしまったりなどしたら、おそらく犯人を殺してやりたい、あるいはその犯人が一番大事にしている人を殺して苦しみを与えたいと思うでしょう。
  あるいは、もしすぐ近くにある国がミサイルをわれわれの国土に撃ち込んできたら、そしてその結果何万人と言う死傷者が現実に出てしまったら、そういう可能性もじゅうぶん考えられたにも関わらず、それに対する備えがなされていなかったというのでは、かえって無責任だということになりはしないでしょうか。
  だから、積極的に攻撃するものではなくても、自衛のために少なくとも迎撃ミサイルくらいは準備しておくべきではないのか。あるいは相手の国のミサイル基地を破壊しに行く程度の巡航ミサイルは用意しておいたほうがよいのではないだろうか。そのようなことは現実に政府のなかで話し合われていることです。それが現実的対応というものではないのか……。
  このルカの言葉は、「最低限の軍備なら持っておくほうが現実的な対応なのだ」と考えたい私たちを、安心させてくれる言葉だと言えます。
  しかし、イエスの元来の言葉は、「何も持たないでゆけ」つまり「丸腰で行け」ということです。これをわたしたちは実行できるでしょうか。それともルカのように現実主義でゆくべきなのでしょうか。聖書の中には両方の視点があります。わたしたちはいずれの道を選択すべきなのでしょうか。
  かなり以前に、私はある知人から、こんなことを言われました。
  「非武装中立とは死ぬことと見つけたり」。
  しかし、平和を求めるということは、こんなに自己破壊的、あるいは自爆するような気持ちでしなければならないものなんでしょうか。

国民を操作する情報戦

  私たちは確かに、いま恐怖を少しずつ増し加えられているような状況にあるわけですが、しかし、自分たちが置かれている状況を、もう少し大局的に、大きなところから捉える必要があるのかも知れません。
  私たちは、海の向こうのすぐ近くの国に、ミサイルで脅されているように感じるかも知れません。しかし、私たち自身の国の軍隊は、もっと広範囲に活動を展開しています。海の向こうから見れば、私たちのほうが世界最強の米軍と共に行動する、恐ろしい国に見えるのかもしれません。
  また、私たちは今また新しい冷戦の構造のなかに放り込まれているのではないかとも思います。北朝鮮とそれを支援する中国とロシア、韓国と結びついている日本やアメリカ、といった具合に、対立のストーリーをマスコミによってすりこまれているのかも知れません。
  そんな対立のシナリオの中で、一番苦しんでいるのは、南北朝鮮に分断されてしまったままの朝鮮半島の人びとであるのかも知れないとも思うのです。
  本当は、朝鮮半島の統一と民主化をしっかりと支援してあげることで、この対立のストーリーは破ることができるのではないか、と私は素人なりに考えたりもいたします。
  朝鮮が南北に分断されていることを利用して、軍事的な対立のストーリーを盛り上げ、軍備の拡張や先制攻撃の必要性などを話題にして、それが当たり前のような世の中に変えてゆこうとたくらんでいる人たちがいるのではないでしょうか。
  そのような人たちが煽り立てた恐怖と戦うことが、私たちにとっての課題の一つなのかも知れません。

ルカの恐怖とイエスの問い

  ルカは「剣二振りを持て。それでよい」とイエスが言ったと伝えます。それはルカの教会が置かれた恐怖の体験によって書き加えられた一文である可能性があります。
  「無抵抗でいいのか?!」、「最低限の自衛手段を!」、と考えざるをえなくなったルカの教会の追い詰められた悲鳴が聞こえるようです。
  しかし、イエス自身は、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39節)と言ったのです。
  これらの言葉を私たちが実行するのは、たいへん難しい。私たちはイエスに、実行不可能なことを要求されているのでしょうか。
  自分の生活の周辺に平和が保たれているうちは、
「平和を実現する人々は幸いである」(同9節)ということを口にするのは簡単です。しかし、平和が破られようとするとき、それでも世に対する挑戦として「平和を実現しよう」と呼びかけるのは、本当に難しいことです。特に自分から攻撃をかけたわけでもなく、相手から先に攻撃をかけられてしまった場合、「それでも相手を赦して、自分からは一切の攻撃をしないでおこう」と考えることは大変難しいことです。そのような主張は、周囲の人びとから非国民呼ばわり、無責任呼ばわりをされることを覚悟の上でするものかもしれません。
  
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイによる福音書5章11−12節)ともイエスは言っています。
  イエスに忠実についてゆくということは、この世ではののしられ、迫害され、あらゆる悪口を浴びせられる可能性があるということです。私たちには、そこまで自分の平和主義を徹底する信仰があるでしょうか。
  私は、現実主義的に剣を用意せよと説くルカが正しいと、ルカの肩を持つつもりはありません。ただ、これまで私たちが「平和は大事だ、平和を守ろう」と言ってきた背景に、たまたまこの数十年間自分の国は直接的な戦闘にかかわらずにすんでいたという偶然があっただけで、それにあぐらをかいて「平和はすばらしい」と平和のありがたみを享受するのみであったとしたならば、これからの時代には通用しなくなるのではないかと思うのです。
  これからの時代は、日本も積極的に軍備を整え、自衛のためとはいえ武力行使も辞さないという構えに入って行く時代だと思います。そのような世の中で、イエスの言う「敵を愛する」愛。「右の頬を打たれても、左の頬を差し出す」勇気を、どこまで実践のなかに活かせるのか。どこまで私たちはイエスのあとについてゆくことができるのか。最終的にはこの世の体制のなかで殺されていかざるをえなかったイエスに、どこまでついてゆく気があるのか。
  重い問いかけを私たちはイエスから受け取っているのであろうと思います。今日の説教で、私には結論を出す力量はないと思っています。みんながイエスに問われているのだ、ということだけを示させていただいて、説教を終わりたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  私たちの造り主なる御神さま。
  今朝も守られて、こうしてあなたに礼拝をささげることができます恵みを感謝いたします。
  私たちはいま、平和を貫くために大きな試練を迎えようとしています。
  あなたの御子イエスがわたしたちに教えてくださった平和を、いかにして守るべきか苦しみ悩む時代がやってこようとしています。
  神さま、どうか私たちにイエスが示した非暴力の道を歩むべき力を与えてください。個人であれ、国家であれ、一切の武力・暴力を排することができますように、どうか神さま私たちを強めてください。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

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