エヴァー・グリーン

2005年1月9日(火) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 新年祈祷会奨励

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:詩編90編1〜6節 (新共同訳・旧約)

  主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
  山々が生まれる前から
  大地が、人の世が、生み出される前から
  世々とこしえに、あなたは神。

  あなたは人を塵に返し
  「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
  千年といえども御目には
  昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
  あなたは眠りの中に人を漂わせ
  朝が来れば、人は草のように移ろいます。
  朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
  夕べにはしおれ、枯れて行きます。

冬枯れの景色

  冬枯れの景色は、私たちに、時の流れとともに確実に変化してゆくものを思い起こさせてくれます。春に育った若葉は、夏に盛りを迎え、秋が訪れるとともに色に深みを増し、やがて冬になると一つの命のサイクルを終え、枯れて落ちてゆきます。
  しかし冬は、一つの命の終わりと共に、新しい命の始まりともされてきました。
  もともとクリスマスが冬にお祝いされるようになったのも、ヨーロッパに古くから伝わる冬至の祭をキリスト教会が取り入れていったことから定着した習慣です。冬至というのは、それまで短くなる一方だった日照時間が、その日を境にだんだんと長くなりはじめる、命をはぐくむ太陽の力が盛り返してくる日なんですね。ですから、命の勝利の始まりということで、イエス・キリストの命がこの世に生まれたことの祝いと重ね合わされ、またこの時を新しい年の始まりとしたわけです。
  冬はひとつの命の終わりを思わせますが、同時に新しい命の始まりの準備がすでに始まっている季節です。ですから私たちは、この季節の移り変わりのなかに、この世は終わりと始まりの無限の繰り返しであり、何事も常ならぬものである、ということを学ぶことができます。

常緑樹の命

  さて、その一方で、私たちはこの冬枯れの季節にも、緑を失わない樹があることにも目を留めることができます。
  さきほどクリスマスのお話を少ししましたが、私たちがクリスマス・ツリーとして飾っているモミの樹は常緑樹、つまり一年中緑を絶やすことのない樹木です。終わり、始まり、また終わる命のサイクルとは異なり、常緑樹は、いつまでも変わらない命があることを私たちに思い起こさせてくれます。
  クリスマス・ツリーも、もともとは古来から伝わるヨーロッパの樹木信仰からキリスト教に取り入れられたものだと言われていますが、いつまでも変わらない緑を保ちつづける常緑樹、それも、自分が生まれる前からそこに生えており、自分が死んだ後にもおそらく残りつづけるであろう森の姿を見て、昔の人びとは「永遠」というものを思い浮かべていたのかも知れません。
  それは所変わって砂漠の民であるユダヤ人が、書物というものに「永遠」を見ていたのと同じような心持であったのではないでしょうか。ユダヤ人は聖書をよりどころにし、その姿勢がキリスト教にもイスラームにも受け継がれ、それらは「書物の宗教」と呼ばれてきたわけですが、聖書もまた、人が何世代にも渡って受け渡し、伝えてゆくものであり、それは自分が生まれるはるか以前からの物語を伝え、自分が世を去ったあとにもまた伝えられてゆくものです。ですから、聖書の言葉を耳にするとき、人は「永遠」というものを思うことができたのですね。

保ちつづけるもの

  私たちは、短いこの世での生涯の間にも、何度となく始まりと終わりを繰り返します。誕生、入学、卒業、自立、就職、結婚、出産、肉親の死、退職、第二の人生、などなど、人生の場面はさまざまに移り変わっていきますけれども、それらはすべて、始まりと終わりの繰り返しです。私たちはいつも、自分の人生が新しい局面を迎えるたびに、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に生まれ変わって生きてゆかなくてはなりません。
  そのような一人の人間の人生の、何度も繰り返す始まりと終わりの中にあっても、変わらないものは何だろう、あるいは変わらずに保ちつづけるべきものは何だろう、変わってゆく自分のなかで、常緑樹のように保ちつづけるべきものは何だろう、と私は考えてみました。
  きっと人によって出す答は違うのでしょうけれど、私の心に浮かんだのは「祈り」ということでした。
  うれしいときには感謝をささげ、悲しいときには嘆きをぶつけ、怒りのときには鎮められることを願い、罪をおぼえたときには悔い改め、そしてまた、そうやって日々を生きていることに素直に感謝する、そんな祈りが、人生の激しい移り変わりの中にあっても、変わらず保たれているべきなのだろう、と思うのです。
  なぜそう思うのかというと、私自身が日々のあまりの忙しさや、ストレスのために、すっかり祈る心を失ってしまい、結局そのことでますます心が潤いを失って、さらにひどい状態に陥る、ということをここ数年、何度も経験しているからです。
  祈りを忘れたら、自分は孤立しているのではないか、自分の悩みは誰も理解してくれないことで、誰にも受け止めてもらえないのではないか、という恐れが強くなります。そして、自分を客観的に見ることができなくなります。また、自分だけではなく人のことも、自分の悩みや怒り、悲しみの色のついた眼鏡でしか見ることができなくなり、人との信頼関係も破壊してしまいます。そのことがさらに孤立感を深め、自分を苦しみに追い込んでゆきます。
  いや、それ以前に、祈りを忘れると、自分のなかにつのる思いがたまっていく一方で、とても不健康な、よくない精神状態になるのですね。
  そうは言っても、祈るのを忘れてしまっている時には、忘れていて頭の中にないわけですから、どうしようもないのですけれど、そのようなことのないように、「絶えず祈れ」ということを思い出せるように、何かに書いて部屋のどこかに貼っておくなど、工夫が必要なのだろうと思います。
  祈ることで、人は自分を見つめなおすことができるのではないでしょうか。祈る時間をちゃんと持つことで、人は自分の苦しみや悩みが何であるのか、自分が本当に願っていることは何なのかを、改めて見つめることができるようになります。そして、祈る習慣を続けることで、誰にもわかってもらえそうにない自分の悩みでも、ただひとり耳を傾けてくださる方がおられる、ということを思うことができるようになり、そのことが自分に次第に安心感を与えてくれます。
  見えない目に見守られている、見えない手に支えられている、ということを、祈りは私たちに思い起こさせてくれます。そのことによって私たちは、心の余裕や潤いを取り戻すことができるのではないでしょうか。
  祈りを忘れたら、私たちは魂のみずみずしさや心の温かさを忘れてしまうのではないかと思います。

変わらず祈りつづけること

  そういうわけで私は、祈りというのは、春の芽吹きのときにも、夏の華やぎのときにも、秋の枯れ葉舞うときにも、冬の雪に静まるときにも、変わらずに緑を保ちつづけるモミの樹のように、常に変わらず保ちつづけるものであり、そのことによって私たちの心は命の源につながっていることができるのではないかと思います。
  古い年は過ぎ去り、新しい年が始まり、古いものは脱ぎ捨てられ、すべては新しい時の中に生まれ変わって生きてゆきます。私たちはそうやって、いつも気持ちを新たにして生きなおすことができます。新年を迎えるというのは、そのような生きなおしにとてもよい気持ちの入れ換えのときだと思います。
  しかし同時に、冬枯れの季節にも緑を絶やさない常緑樹のように、日々変わらず祈りをささげつづける信仰が私たちの暮らしを支えることも、覚えておきたいと思います。そして実際に日々祈りつつ生きてゆく、そのような生活をしてゆきたいと願うものです。
  一言お祈りさせてください。

祈り

  天地の創り主なる御神さま。
  今日、こうして敬愛する同信の先輩方と、新年の祈りのときを合わせる事ができます恵みを、心から感謝いたします。
  私たち、こうして新しい年、2007年を迎えることができました。ありがとうございます。
  この新しい年も、祈りによってあなたにつながり、あなたから豊かな愛を受けつつ、感謝と共に奉仕してゆく、そんな生活を送れますよう、どうか私たちをお導きください。
  主の御名によって願います。
  アーメン。

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