every ONE

2005年2月21日(月)同志社香里中学校ショート礼拝奨励

説教時間:約10分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 18章10−14節(新共同訳)

  「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。
  言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
  あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
  そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

「一人も軽んじないように気をつけなさい」

  今日読んだ聖書の物語は、有名なお話です。
  ある羊飼いが100匹の羊を飼っていて、そのうちの1匹が迷い出てしまった。そこで羊飼いは、「まぁ、ここに99匹もいるから、1匹くらいいなくなっても、どうってことないか」と言ってあきらめたかというと、そうではなくて、この羊飼いは、「たった1匹でも大切な羊だ」と言って探しに行き、そして見つけることができたら喜ぶだろう、というお話ですね
  99匹が大事じゃない、と言ってるんじゃないんです。だいたい羊飼いというのは、家族で羊の面倒を見ますからね、親父が探しに行くから「おい息子、ちょっと羊見ておけ」と任せることができるわけです。ですから、ちゃんとね、99匹のことは守った上で、それでなお1匹のために出かけてゆくわけです。
  ここで言われているのは、羊のたとえを使いながらも、人間のことなのであって、「神さまは、この羊飼いと同じように、わたしたち人間も一人ひとり大事にしてくださって、けっして見捨てたりはしないんだよ」ということなんですね。
  そして神さまだけではなく、われわれにも「あなたがたも、一人も軽んじないようにしなさいよ」と勧めているわけです。

「みんな」という言葉

  ぼくが最近、君たちが話している言葉を聞いていて、「あんまり好きじゃないなぁ、その言葉」と思う言葉があります。
  それは
「みんな」という言葉です。
  「みんな」という言葉じたいは、悪い言葉ではないんです。ただ、使い方に問題があるんですね。たとえば……
  「
みんな、こう言ってますよ」とか。
  「
みんな、そうしたいはずですよ」とか。
  あるいは、「
みんなで決めたのに、なんでおまえはみんなと違うことを言うんや」とか。
  違う考え方の人がいるということは、すでにそれは
「みんな」ではないのです。でも、「みんなが言うてるんやから」と言って、少数の違う考えの人を否定することがあります。
  つまり、この場合の
「みんな」というのは、本当の意味の、一人残らず全員という意味の「みんな」ではなくて、多数派のことを指しているのです。
  あるいは、多数派ではなくても、少数であったとしても、こういうことがあります。
  ぼくは今日ハイネックのセーターにスーツを着ています。が、こうして見渡すと、あそこにおられるT先生もハイネックのセーターを着ています。それから、今ここにはおられませんが、今朝、生活指導部主任のM先生がやはりハイネックのセーターを着ておられました。
  ハイネックのセーターを着た3人が集まって、
  「やあ、
みんなハイネック着てるなぁ、今日は」
  ……そういう言い方をする時って、あるでしょう?
  「うわー、今日は
みんな白いマフラーやん!」
  どこが
「みんな」やねん、たった3人だけやんけ。そういうこと、あるでしょう。
  そういう時、われわれの眼には、自分と同じ人、自分と似ている人しか入っていないわけです。
  この場合、
「みんな」という言葉は、自分と同じ人、自分と似ている人、自分と合う人、という意味になってしまっています。それ以外の人が何人いても、何十人、何百人、何千人いても、そういう他の人たちのことは、目に入らなくなってしまうのです。
  自分の目に入っている人たちだけで
「みんな」と言ってしまい、それ以外の人は無視してしまうような傾向が、私たちにはある。そんな自分たちの傾向にちょっと気づいてもらえたら、と思います。

「だれも」という言葉

  それとは全く違う場面で使われる言葉ですが、同じようなわたしたちの傾向に基づく物の言い方があります。これも、ぼくはあまり好きではありません。
  たとえば、こんな場面です。ある部屋に入ってきて――たとえば補講のある教室でいいです――その教室に入ってきて、そこには5〜6人くらい先に来ている人がいる。しかし、そこには自分の知り合いや友だちがいなかったとする。するとつい大きな声で言ってしまう。
  「なんや、
誰も来てないなぁ」
  いやいや、本当は
誰も来てないんじゃないんです。ちゃんとそこに何人も人がいるんです。でも、自分の知り合いじゃなかったら、あるいは自分が会いたい人じゃなかったら、  それは「人間」ではないのですね。だから「誰もおらんわ」と言ってしまう。
  しかし、これは聞いた人にとっては、けっこう傷つく言葉なんですよね。「
誰もおらんわ」。「おる」って。ここにわしがおるよ、と。たとえ1人しかいなくても、そこで「誰もおらん」と言ってしまうのは、そこに確かに存在している人間を、無視することになるのです。これはとても失礼なことです。

"everyone"という言葉

  「みんな」という言葉を英語に直すとどうなるでしょうか?
  
"everyone"ですね。これ、言葉どおりに訳すと、"every""one"で、「それぞれの一人」、「どの一人も」と言うことになりますよね。「みんな」というに日本語より、意味がはっきりわかりやすいです。「どの一人も」「一人の残さず、すべての人を含んで」、それで初めて「みんな」ということになるんだよ、というわけです。
  まぁですね、じっさいにはアメリカでもほとんどの人は、別にそういうことをきちんと考えてるわけじゃないです。留学帰りのぼくの友だちが言ってましたが、アメリカ人の"everyone"の使い方は、日本人の「みんな」の使い方とあんまり変わりません。
  「あのオモチャ買って〜!!」とダダをこねる子どもの言いわけはこれです。
  "
Everyone has that toy!"(だって、みんな持ってるんだもん)
  そして、そういうことを言うと、おかーちゃんに怒られてしまうわけですね。
  "Who is
'everyone' ?"(「みんな」って誰のことやねん? その「みんな」をここに連れて来てみぃ、おら)
  だけどね、やっぱりこうして文字にして書いてみると、
"everyone"というのは、意味がわかりやすい。われわれが「みんな」という言葉を使うとき、どういうことを考えて言うべきなのか。それは"every one"、どの一人をも無視しないで大切にしてこそ、初めて「みんな」と言えるんじゃないかな。

一人ひとりを大切に

  かつて、この同志社のいう学校をつくった新島襄先生も、「人ひとりは大切。ひとりは大切です」という言葉を残されました。
  今日、読んだ聖書の物語のなかでも、イエスは、「たった1匹の羊を追いかけるように、神さまにとっては、たった一人の人も大切なのだ」と言いました。
  「人ひとりが大切」と聴くと、ついわれわれは、自分のことが大事だということばかりに気をとられます。しかし、自分も大切ですが、同じように、自分以外のすべての人も大切なのだ、ということを、ちょっと考えてみてほしいんです。
  祈りましょう。目を閉じてください。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日もこうしてわたしたちが命を与えられて、いっしょに生きるチャンスが与えられていることを感謝します。
  わたしたちが、互いに自分のことも、自分以外の人のことも大切にすることができますように。
  一人ひとりのことを本当に大切にして、「みんな」でよい学校を造ってゆくことができますように、どうか私たちの心を導いてください。
  この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお聴きください。
  アーメン。

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