「よく調べてから信じなさい/希望の証拠」

2000年11月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約30分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書11章1〜3節(信仰)(新共同訳・新約・p.414)

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

信仰は希望の土台である

  本日の聖書の箇所、ヘブライ人への手紙11章1節は、誤解を受けやすい聖句、と言えるでしょう。
  
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである……」。
  一見、信仰とは、自分の願いがかなえられることを確信することです、神さまが見えなくても、よくわからなくても、まずはとにかく信じなさい、というようなことを言っているようにも思われます。
  しかし、この聖句を少し丁寧に調べてみますと、実は全然逆の事を言っているのだということがわかります。
  この聖句の日本語訳は、大幅に意訳されております。ひどい言い方かもしれませんが、信じられないほど乱暴な読み替えと言っていいほどの意訳です。そこで、これから少し読み直してみたいと思います。ちょっとややこしい話になるかも知れませんが、何とか最後までよろしくお付き合いいただければと思います。
  まず、「望んでいる事柄を確信する」ですが、この「望んでいる」は日本語ではわかりにくいのですが、本当は受身の複数形です。つまり、自分の個人的な願望ではなく、「(複数の人によって)望まれている」事柄であるということになります。複数の人が希望として抱いているようなこと。つまり、これは自分の主観的、個人的な希望ではなく、自分を含めた教会に集う人びとみんなが、共通に抱いている望みのことを指します。さらには、「望んでいる」ではなく「望まれている」なので、主観的なものというよりは、客観的に確認できるようなみんなの希望、というニュアンスもあります。
  次に「確信し」ですが、ここは「確信する」という動詞ではなく、名詞です。それも「確信」と訳すことはできるのですが、むしろ「本質」とか「基盤」とか、「基礎」「土台」「下に横たわっているもの」という意味があります。つまり、建物の土台、基礎工事にあたる部分、ということになります。
  したがって、「信仰とは、望んでいる事柄を確信することである」という1節前半の言葉は、実は
「信仰とは、キリスト者の希望の土台である」/「基盤である」と訳したほうがよかろうかと思われるのであります。

信仰は神のご計画を調べることである

  さて、続いて後半、「見えない事実を確認すること」とあります。
  「見えない事実」とは一体なんでしょうか?
  この「事実」という言葉も、単なる事実というよりは「出来事」という意味を持ちます。それも、「なされなければならなかった行動」とか「計画されていた企て」、またはその結果としての「出来事」というニュアンスがあります。そして、聖書の中では多くの場合この言葉は、神さまの御意志がこの世に表されるような出来事という意味で用いられているということも併せて考えると、「見えない出来事」とは、「今は『見えない』けれども、やがて明らかにされる神の計画の出来事」というニュアンスが浮かび上がってくるのであり、またそのように理解すれば、この11章1節前半の「望んでいる事柄」、訳し方によっては先ほど申し上げましたように、「幾人ものキリスト者によって望まれている希望」という言葉とも意味がつながってくるのであります。今は見えない神さまのご計画は、キリスト者の希望と密接なつながりがある。「望んでいる事柄」と「見えない事実」は密接に関連しているというわけです。
  そして「見えない事実を確認する」の「確認する」ですが、この「確認する」は、元来は「責める」「戒める」「罰する」「指摘する」「明るみに出す」「罪を明らかにする」、つまりもともとは裁判などの場面で、容疑者を取り調べるような厳しさをもって事実を確認する、納得がいくまで客観的証拠をあげて厳しく吟味して確かめる、といった意味を持つ言葉であります。
  ついでに申しますと、続く2節の「昔の人たちは」――この「昔の人たち」とは、「先祖たち」とも「先立つ人たち」とも読める言葉ですが、この信仰の先達たちは、「この信仰のゆえに神に認められました」。「神に認められました」というのも法廷用語で「よい証言を得た」、つまり「神さまが法廷でこの人たちにとって有利な証言をしてくださったのだ」と訳すこともできます。
  ですから、ちょっと信仰とは何かを説明する言葉としては一見ふさわしくないように感じられるかもしれませんが、ここでは
「法廷のような厳しさをもってでも、証拠を調べて吟味しなさい。先達たちは、そのような信仰によって神さまからよい証言を得たのですよ」と言われているわけです。
  これは「ただ信ぜよ」という信仰態度とはまったく逆の態度と言えるでしょう。誤解を招く言い方かもしれませんが、信じるためにまず疑って調べてみるということもあり得るのであります。
  というわけで、1節全体をもう一度、その意味を解釈しながら、いろいろ言葉を付け加えて下世話な訳し方をいたしますと、こんな風になります。
  
「信仰とは、幾人ものキリスト者によって望まれているその希望の土台である。そして、今は見えないけれども、やがて明らかにされる神さまのご計画を、証拠をあげてしっかりと吟味することである」
  証拠をあげて、納得するまで検証してみてくれと、この「ヘブライ人への手紙」の著者は勧めているわけで、そうやって自分の納得したことだけを基礎に据えてゆけば、その人の希望の土台、すなわち信仰はしっかりしたものとなるのだ、と勧められているのであります。
  そして、続く3節では、「このような検証作業を伴う信仰によってこそ、私たちは『見える世界』つまりこの世の歴史が、いま『目に見えているもの』だけでなく、見えない神のご計画に向かっている、ということが分かるのですよ」と、述べられているのであります。

希望の証人

  さて、それでは、キリスト者の希望、神さまのご計画の、検証すべき「証拠とは、どこにあるのでしょうか。
  それについて、ヘブライ人への手紙の著者は、4節以降でその証拠を列挙してまいります。聖書をごらん下さい――。
  4節においてアベル、5節からエノク、7節でノア、8節からアブラハム、11節からサラ、20節でイサク、21節でヤコブ、22節でヨセフ、23節からモーセ……こうして著者は次々に証人をあげてゆきます。
  32節に及んでは、この著者は「これ以上、何を話そう」と記しています。これ以上語るなら「時間が足りない」。証拠、証人はいくらでもあげることができるというのであります。
  これらの証言を読み進むうち、あることに気づきます。
  ここにあげられている証拠には、いずれも「死」の匂いがするということです。13節にも「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」と記されています。13節――
  
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
  地上ではよそ者で、仮住まいであり、約束されたもの――おそらく先ほど申し上げた、信仰者の希望、まだ見えない神のご計画と関係があるのでしょうが――それを手に入れずに死んだ、その死に様。
  さらには、35節の後半より――
  
「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました、また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです」
  ……一体これは誰のことを話しているのでしょうか。
  ここで私たちは、このヘブライ人への手紙の著者が置かれていた状況、また彼が宛て先として考えていた教会の人びとが経験してきた状況が、ここに映し出されているのではないか、と考えることができます。
  普通ならば、希望を抱きながらも迫害によってあまりにも多くの仲間の命を奪われれば、希望は絶望に変わり、信仰を続けるに足るべき証拠など失われたと考えても不思議はありません。
  しかしそうではなく、この手紙は、これらの死に様こそが、希望の証拠だと言うのです。なぜならば、39節以降――
  
「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので――」とあるように、この「更にまさったもの」がこれまであげられてきた証拠を総括する決定的な証拠となるからです。
  その決定的証拠とは――もうみなさんお気づきだと思いますが――イエスの十字架の死に様であります。

この人を見よ

  実はヘブライ人への手紙全体を読み返すと、実は最初から最後までイエスの死に様について書かれていることがお分かりになると思います。
  この著者は、ユダヤ教の礼拝でふりまかれるいけにえの羊になぞらえながら、イエスがどれだけ痛ましく血を流されたかを克明に描写しています。そしてその描写は、これを読む当時の読者自身がやがて経験するかも知れない迫害による死をも連想させるだけにリアルなのであります。
  5章7節には
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」たと書かれてあります。たいへん生々しい。そこまでしてイエスが自ら十字架での死に向かっていったのはなぜか。
  毎日、毎週、毎年、同じようにささげられる牛や山羊のいけにえの儀式をいくら続けたところで、動物の血をどんなに激しく降りかけたところで、人間の罪が取り除かれるわけがない。そうではなく、人間がその命をいけにえとして献げる。そのことによって、この意味のない繰り返しの儀式を終わらせる。ひとりの人間があえていけにえとなって血を流すことによって、もう決して人間が罰せられなくても済むように。そしてもう決して故意に罪を犯す人がなくなるように。そのために、イエスは命を捨てられたのだ、と。このイエスの血を流された様を見て、それでもなお自らの良心を裏切ろうとする者がいるだろうか、と。
  だから、このイエスの生涯こそが証拠である。このイエスの生き様と死に様を見てくれ。この人こそ「本物」だ。真の人であり、真の神だ……。そのように、ヘブライ人の手紙の著者は訴えているのであります。
  このイエスの死という事実に対するリアルな検証と確認がない限り、信仰は本当の意味で私たちの人生の土台とはなりえません。

この人にならえ

  イエスはなぜ自らの血を流す道を選んだのでしょうか。
  人間としての心情を優先するならば、避けようと思えば避けることができました。イエスは、ゲッセマネの園で
「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコによる福音書14章34節)と嘆き、ひとたびは「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈ったわけで、その後ゲッセマネから闇夜に姿をくらますこともできたはずです。
  しかし、最終的には
「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(36節)と運命を神のご計画にゆだねることができたのは、イエスご自身の中に、神のご計画への確信があったからでしょう。
  そのイエスご自身の確信こそが証拠であると信じて、私たちもイエスに続いて、イエスにならって、迫害する者がいたとしても、神のご計画を信じながら死んでゆこうではないか! そうこの手紙を著者は呼びかけるのであります。
  13章の13節にはこう書いてあります。
  
「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と。
  実は、ヘブライ人への手紙の著者がこのような呼びかけをしたのは、彼の手紙の宛て先の教会が、この世の有様にひるんでしまって、腰砕けになってしまっていたからではないか、と言われております。
  例えば、もう一度本日の聖書の箇所、11章1節のあるあたりに戻ってみますと、その一つ前の10章39節には
「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく」とあります。他にも「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(12章12節)という言葉や、「あなたがたは罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)という厳しい言葉も見られます。
  そしてこの著者は、腰が引けてしまっている教会に対し、主が彼らを鍛える鍛錬として迫害を忍耐せよ(12章5−10節)と勧めているのであります。

いまは鍛錬の時代か

  さて、現代の日本の教会の多くもまた、このヘブライ人への手紙の宛て先のように、この世に対して腰が引けてしまっているかも知れません。
  確かにいまは迫害の世の中でありません。しかし、世代に関わらず日本人は「他人と同じ」「みんなと同じ」であることに安心感を覚える傾向が強いですから、迫害はなくても、自分がクリスチャンだと人に教える事で「変わった人だ」と見られるだけでも、結構つらいものがあるという人は、たくさんいます。
  いや、実はじっさいには、私たちは一歩踏み出れば迫害される立場なのかも知れません。昨今のカルト宗教に対するマスコミの扱い方の影響で、日本人の宗教嫌い、宗教への偏見は非常に強められ、カルト以外の「まとも」な宗教の信者たちでさえ、極力目立たぬように、攻撃されぬように、自分で自分を縛り付けるようになってきています。
  その上、教会は次第に世の中から必要とされなくなってきています。教会から始まったあらゆるよいものは、教会の手を離れ、教会なしで一人歩きをしています。人権運動も、ボランティアも、カウンセリングも、ホスピスも、クリスマスも、チャペルでの結婚式も、もとはキリスト教会が起源であったものが、いまはもう教会から独り立ちしています。いくら「本家はこっちだ」と言ってみたところで、「ああそう」と言われるだけです。
  イエスでさえもが、教会を出て、自由に世の中を歩いておられます。町の本屋をのぞくだけでも、結構イエス関係の本が多くなったことに気づかされます。でたらめなものも確かにありますが、最近は本格的なものや良心的なものが本当に多く出るようになりました。ということは、教会に行かなくても、イエス・キリストの福音に触れることはできるということです。本だけでなく、今後、教会の手を離れたイエス・キリストのついての情報、それも最新の研究に基づく情報が、テレビ、ビデオ、インターネットにも流されてゆく事でしょう。
  しかし、それはひょっとしたら、お年をめした方や、病気を「障がい」を抱えた方、仕事や家事、あるいはその他の都合で自由に外出することのできないあらゆる事情を抱えた人びとにとっては、よいことなのかも知れません。そして、ハンディを抱えた人や、不便さに悩む人にとっていいものは、それ以外の人にとってもいいものであるはずなのであって、今後ますます教会に足を運ぶ必要性というものは薄れてゆくでしょう。
  イエスの福音とそれに基づく愛の思想や行動は教会を離れて世の中に広まり、教会自身はマスコミや政府から叩かれることを恐れて息を潜めているうちに、役に立たない集団として次第に世の中から相手にされなくなってゆく。露骨な言い方ですが、じっさい私たちの教会は、そのような非常に行き詰まった状態にあると言えるのではないかと思います。

世は我々にふさわしくないのだから

  あるいはこれは、教会が「この世的なもの」という言葉で「この世」を軽蔑し、しっかりと「この世」と向き合って、関わってゆこうとする姿勢を怠って、「この世」から一歩引き下がってきた報いかも知れません。今まで「この世的なもの」を軽視してきた教会は、いまは逆に「この世」から軽視されはじめているだけなのかも知れません。
  これからの教会は、これまでこの世を軽視してきたことを悔い改め、改めてこの世に仕え、この世になくてはならない存在にならなければ、存続することはできないでしょう。
  それはこの世にこびると言う意味ではありません。この世のありさまは私たちの希望、私たちが神のご計画と信ずるこの世の完成のイメージとは程遠いものがあります。
  もちろん、神の支配の完成が具体的にどのようなものであるのか、そんな事はどのキリスト者にも予想はできません。しかし、愛の神の支配があまねく満ちる世界という理想に、この世が一歩でも近づいているだろうかと周囲を見回してみたとき、どうもそのようにも思われない。むしろ、混乱と破局の終末に向かっているのではないかという気さえします。
「世は彼らにふさわしくなかったのです」(11章38節)と先ほどもお読みしました聖句の中にありましたが、それは今もまさにそういう世の中だと言えるのではないでしょうか。
  そのような世の中にこびてゆくことが、教会がこの世に必要とされるということではないと、私は思います。むしろ、当座は世の中の多数派には喜ばしく思われなかったとしても、そんな世の中に「本当に必要なもの」とは何かを示し、具体的に提供することのできる人たちの集まりとなるならば。また、たとえ少数派であったとしても、そんな世の中で傷ついたり孤立したりした者が本当に頼ることのできる場所として教会が赦しと癒しと救いをはっきりと伝えることができるならば、教会はこの世になくてはならぬものとなってゆけるのではないでしょうか。
  まずは、私たちはイエスの十字架の死を具体的・現実的なものとして受けとめなおし、それが本当に自分にとって意義ある出来事なのかをしっかりと検証しなおすこと。そしてイエスが、ご自身が死ななければ指し示すことができない、と悟っておられた人類の希望の未来、イエスの悲願についてのビジョンを描くこと。そしてそのビジョンに従いつつ、決してこの世とは妥協せず、しかし逃げずに立ち向かうこと……。
  それが私たちの信仰であると、ヘブライ人への手紙は私たちに教えてくれるのであります。

祈り

  祈ります。
  天地を創り、私たち一人一人に命を与えてくださっている神さま。
  あなたがこの世をお創りくださった御意志が成就し、世があなたの御心どおりに完成されますように、切に祈り求めます。あなたの見えないご計画に、どうぞ私たちの教会を参与させてください。私たちにできるわざをどうか示してください。
  この祈りを、イエス・キリストの名によってお献げいたします。
  アーメン。



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