「メシアの死/対峙する生き方」

2000年10月12日(木)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖書研究祈祷会奨励

説教時間:約20分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書16章21〜28節(イエス、死と復活を予告する)(新共同訳聖書・新約・p.32)

  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

救い主が殺される

それでは、ひと時、聖書のみ言葉をひもといてみたいと思います。
  本日のテクストは、マタイによる福音書16章の21節からです。
  ここでマタイは「このときから、イエスは……」という言葉遣いをしていますが、これはマタイでは物語が新しい展開を見せるときに用いられる言い回しであり、前には4章17節で使われ、ガリラヤでの宣教の旅がそこから始まっていました。
  ここからは、マタイは、エルサレムでイエスが受けなければならない受難の使命について物語ってゆきます。
  ここにおいて、初めてイエス自身の口から、彼の死について語られるわけですが、折りしも物語は、シモン・ペトロが「イエスはメシアである」と信仰を告白し、イエスもペトロを祝福して天の国の鍵を授け、彼の上に教会の基礎を建てるというクライマックスの場面の直後。
  では、その教会が頭と仰ぐメシアは
の後どうなるのかというと、実はエルサレムでユダヤ教の上層部に逮捕されて殺されることになっているのだよ、という意外な展開、どんでん返しの場面であります。
  これを聞いた途端、ペトロはイエスに「そんなことがあってはなりません」と、イエスをいさめたとあります。そして、さっき「イエスよ、あなたはメシアです」と告白してほめられたばかりのペトロは、かわいそうに「サタンよ、引き下がれ」と、悪魔呼ばわりされて叱責されてしまいます。

裏切りのメシア

  さて、当時のユダヤ教の基本的な考え方では、宗教は現実世界の政治と、常に具体的に結びついていて当たり前でした。
  そもそも旧約聖書に収められている律法も、これは、神さまによって生かされている恵みに対して応答するために、どのようにすれば神さまのご意志を日常生活のすみずみにまで生かして生活する事ができるか、という趣旨からできてきたものでした。この律法に従うことでユダヤ人は、個人の日常生活から法律・政治・経済にいたるすべてを通して、神に恵みに対する応答をしめそうとしていました。
  したがって、旧約聖書の精神から言えば、宗教と社会生活は切っても切れない関係であり、そういう点は私たちも大いに学ぶべき点があろうかと思います。
  このような考え方から、メシアが政治的・社会的な存在であるとされたのは、ごく自然なことといえるでしょう。当時、多くのユダヤ人が期待していたメシアは、ローマ帝国に抑圧されているユダヤ民族を政治的に解放し、民族の独立と幸福な暮らしをもたらしてくれるリーダーでした。そのリーダーは、ダビデ・ソロモン時代のような栄光を再び取り戻してくれる、民族主義的なメシア=救い主でした。
  そしてじっさい、当時多くの「自称メシア」がローマ総督へのクーデターやテロを画策しては失敗し、投獄されたり処刑されたりしていました。イエスと引き換えに釈放されたという、皆さんもご存知でしょうが、バラバという男がおりますが、これもその手の政治犯であっただろうと言われます。彼が群衆の人気が高いのは当然で、彼もまたローマの圧政を転覆してくれるだろうという期待をかけられていたわけです。
  当時、ユダヤ最高法院はローマ当局と手を結んでユダヤ人の独立運動を押さえつける方向にまわっていましたが、イエスがそんなユダヤ上層部にあっけなくつかまって殺される、という事は、いま申し上げたようなユダヤ教徒のメシアへの期待を裏切ることになります。
  というわけで、ペトロが、
  「そんなことがあってはなりません」
  「そんな、メシアたるあなたが、そんな死に方をするはずがありません」
と言ったということは、ペトロも、ユダヤの一般大衆の期待と同じような思いをもってイエスを見ていたということです。
  そんなペトロに、イエスは「サタン、引き下がれ」と激しく叱責しますが、つまりイエスは、ペトロの言動の中にサタンと同じものを見出してしまったというわけです。
  かつてイエスはサタンに荒野で修行中に誘惑を受けたことがありました(マタイによる福音書4章1−11節)。ここでメシアとしての権威と力を、食物や自分の威力を示すための奇跡や、財産や栄誉や権力のために用いることを、イエスは退けてきました。
  いままたイエスは、ペトロの言葉の中に、かつて闘ったサタンのささやきを聞いたわけなのですが、それはつまり、荒野での苦難と同様に今また苦しみを味わおうとするイエスが、
  「メシアとして立つならば、そんな自虐的・悲劇的な方法よりも、もっと他の、理にかなったやり方があるではないか」
という誘惑を感じていたということです。

苦渋の選択

  この誘惑は、先ほども申し上げましたように、一面ではユダヤ民衆の悲願ともいうべき民族独立運動への期待そのものでもありました。そのため、これを拒絶することは、単につらいと言うより、人々の願いを裏切る良心の呵責を伴わずにはおれないような選択ではなかったかと私は思っています。
  それは、よく言われるような「地上の栄光を求めるのはやめましょう」とかいったような話ではなく、抑えつけられ虐げられた貧しい多くのユダヤ人が願い求めているものを裏切るという事です。
  当時のユダヤ人がそれまで諸外国の征服や支配、抑圧・差別を受けつづけてきた長い歴史を通して見れば、その期待は決して不当なものだとは言えません。彼らの期待には暮らしがかかっています。
  にもかかわらず、
  「メシアは苦しみを受け、殺されなければならない」
  この神の与えた皮肉な使命に従うイエスの決断は、人々の期待を裏切る痛みなしにはなされなかったのではないでしょうか。
  「サタン」と呼ばれたペトロも、ついさっきまでほめられていたのに、ここでは悪魔呼ばわりされて、たいへんですが、ここでの「引き下がれ」は「向こうへ行け」と言うよりは、「下がりなさい」と言うか「後ろについてきなさい」「ついて来なさい」というニュアンスが強い言葉であり、結局「サタン」呼ばわりは、激しい感情のあまり出た言葉で、全体的には「人間の期待ではなく、神の計画を思って、私について来なさい」というペトロへの指導の言葉となっているわけです。

弟子の覚悟

  さて、本日のテクスト、後半の場面は、イエス自身がそう語ったというよりは、マタイの時代の教会におけるクリスチャンの覚悟が宣言されていると言ったほうがよかろうと思います。そもそも、この箇所はもとより、福音書に収められたイエスの受難についての記事は、だいたい、迫害状況下の初期のキリスト者の思いが投影されて書かれたものであると読んで差し支えないようです。
  
「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(24節)
とありますが、「自分の十字架を背負って、イエスに従う」とは、「殉教を覚悟でイエスに従う、イエスの後を追う」ということです。この点でも、私たちは観念的に「自分の十字架を背負う」という言葉をなんとなく「罪意識を持って生きる」という程度に理解しがちなのですが、これは全然違います。
  この点は、マルコによる福音書ではもっとはっきりしており、同じ出来事を記録している並行記事では、
  
「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ8章38節)
という一節が記してあります。
  これは、キリスト者がどのように世の中と対峙してゆくべきなのか。特にキリスト教に対して風当たりが強い時にどのような態度をとるべきなのか、という問題についての教えです。
  そして、ここでは、イエスの福音のために命を奪われることがあるならば、イエスに続いて命を捨てよ、と教えられているのであります。

真に「生きる」とは

  マタイは続いてこう記しています。
  
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25節)
  「それを得る」と書いてあると、後から復活という形でそれを手に入れるのだ、とわかりやすく読むこともできますが、マタイがこの言葉を引用したであろう出典元のマルコによる福音書では、
  
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8章35節)
と記されてあります。
  命を「得る」のではなく、
「救う」と書いてある。
自分の命を「救おう」とする者は「失う」。しかし「失う」者は「救う」。「失う」の反対が「得る」ではなく「救う」になっています。マタイは「(復活の命を)得る」という言葉に修正して、わかりやすくしたわけですが、マルコが書いた元来の「命を失う者は、命を救う」という言葉の意味も、私たちは無視しないで、頭の片隅に加えておきたいと思います。
  先ほどもマルコには「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた…〔中略〕…その者を恥じる」(マルコ8章38節)という一節が含まれている、と申し上げましたが、「罪深い時代にあっても、イエスとイエスの言葉を恥じない生き方をする」、ということは、この世と妥協せず、イエスと共に歩むという事に他なりません。
  その結果命を失ったとしても、その人生は救われているのだ。それこそが本当の「命」なのだ。真に生きるとはそう言うことだ、という主張が、この「命を失う者は、それを救う」という言葉にこめられているのであります。
  これは、「命」とは何か、何が「本当に生きる」ことになるのか、という根源的な問いかけです。

対峙する生き方

  確かに、今はキリスト教が表立って迫害されている時代ではありません。しかし、決して福音が歓迎されている時代でもありません。日本の教会は人畜無害である限り、生き残ってゆけるでしょう。とくに昨今のような、オウム真理教や統一教会などカルト集団と呼ばれる宗教団体の影響と、マスコミの過剰なまでの宣伝効果で、日本人の「宗教嫌い」は最近拍車がかかっています。キリスト教には殊に(とりわけキリスト教に好意的な態度を装う人々から)人畜無害でいつでもなんでも笑って現状追認するような姿勢が求められているような感を受けます。
  迫害がないということは、政治的に脅威を抱くほど強い存在ではない、ということでもあります。有力な存在であるならば、政治権力はこれを利用しようとするか、迫害するかどちらかでしょう。しかし、どちらでもないという事は、つまりどうでもよい存在と見なされているということなのではないでしょうか。
  しかし、この問題だらけの日本社会において、妥協し迎合しておとなしく生きてゆくのが、はたして本当に『生きる』ということなのか。
  むしろ、この世で損をしても、痛めつけられても、恐れずに福音の観点からこの世に対峙してゆくということが、本当に『生きる』ということではないのか……。
  イエスご自身は、世の期待よりも神からの使命を選びました。
  それでは、私たちの教会は、どこに向かってゆくのでしょうか。
  そのことを、本日のテクストは私たちに問いかけているのであります。
  戦時中、私たちの教団が圧力を受けた時、私たちの教団なりの選択をしたから、今日の教会があるのだということは、私はわかっています。また、私自身がその苦しい時代をキリスト者として乗り越えてきた世代に属しているわけではありません。ですから、いまこの生ぬるい時代に大きな口を叩く資格は本当は私にはないのかもしれません。
  しかし、少なくとも、本日私たち読んだこの聖書の言葉によって、私たちに「世に対峙する生き方」を問われている。問いつづけられているのだと思うのです。



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