「神の赦しを乞い、人の赦しを乞い」

2000年4月18日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励

奨励時間:約30分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書 23章13〜25節(イエス、死刑の判決を受ける)(新共同訳・新p.157-158)

 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。 「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。 わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、 この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 しかし、人びとは一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 そのバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。 その声はますます強くなった。 そこで、ピラトは彼らの要求を入れる決定を下した。 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、 好きなようにさせた。

罪を本当に感じる時

 本日、私はキリスト者の罪深さについて語ってみたいと思います。
 私が受難節にいつも感じる事でありますが、本当に「自分には罪がある」「私は罪深い人間だ」と心底感じ、今この瞬間にも自分を責めている人間は、教会にはおそらく来られないのではないか……そんな風に思います。
 これは私自身が、「本当に自分はある人に悪い事をしてしまった」と心底自分を責めている時には、教会に行って「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架におかかりになりました」なんて、とても真顔で言える気分になれないから、そういう風に感じるのですね。
 本当に罪悪感を持っている人というのは、「『私の罪は赦されました』なんて、どの面下げて言えるだろうか」と感じるくらいが当たり前ではないかと思うのです。
 私はそういう感覚を持っておりますので、キリスト者が「主の死によって私たちの罪は贖われました」と真顔で言う時、まことに説得力が無いといいますか、むしろ傲慢さというか、独特のイヤミを感じる時さえあります。

キリスト者の罪

 「人間は皆、罪人である」という言葉もよくキリスト者の間では聞かれます。残念ながら、この言葉を口にする事で、「人間は罪を犯しても仕方が無い」と、罪を正当化するキリスト者は多く存在します。こういう発言は例えば、差別問題の学習会などでよく見られます。
 また、「私たちの罪は赦されている」からと、自分の愚かさや無神経さを反省することを忘れてしまっているキリスト者もたくさんいます。そして、自分が良識を欠いた言動をしたり、迷惑をかけた場合でも、素直に謝ればすむところを、先程の「人間は罪を犯す存在です」と開き直ってみたり、「そういう『この世的』な事はキリスト教で言う罪ではない」とか言ってみたりして、逆に「キリスト教の信者はろくな奴がいない」と思われたりすることは、実はよく起こっているのです。
 キリスト教において何が罪であるのか、一応自分なりの持論を持っている人もいます。「罪とは何か?」。この問題に対する一番安直な答は「神の御意志に反する事が罪である」という答です。あるいは「神さまから離れることが罪である」とか、こういうのが一番安易で簡単な答です。
 ここで「神さまの御意志に従う」ということが、信仰の問題であると解釈されると、罪の問題は信仰のあるなしの問題にすり返られてしまいます。そして、信仰のある者は、信仰の無い人を「罪人」であると見なしながらも、そんな事言っても信仰の無い人には分かるわけが無いので、ひそかに信仰を持たない人を見下しながらも、「神さまは彼らをも赦して下さっているのだ」と傲慢な自己満足に浸ります。
 また、「神様の御意志に従う」と言っても、その「神さまの御意志」というものを、自分勝手に「こうだ」と思い込み、決めつけるキリスト者もいます。さすがに「神の御意志はこうです」とまで言う人にはお目にかかったことはありませんが、その代わり教団での論争や教団新報の投書等でもよく使われるのが「聖書的に見て」という言葉です。「聖書的に見て、あなたは間違っている」とか「聖書から見て、彼らは罪人である」とか、だいたい最近の教団では「聖書的」という言葉は攻撃に使われることが多いようです。もちろん、聖書の読み方、その解釈、神さまが与えられる啓示の解釈というものは、人によりさまざまなのが現実であり、聖書や神の御意志に反していると言って他者の罪を裁く、その基準は、結局そのキリスト者個人の頑なな思い込みであることがほとんどです。
 さて、結局何が罪であるのか、人間には決められないではないかと、「だから互いに裁くことをやめよう」と考えるキリスト者もいます。しかしここにも落とし穴があります。「人間が人間を裁いてはならない」話を大きくして、罪に関して考えることをやめてしまうのです。これでは自分や他者に対する健全な批判精神さえ失ってしまいます。そして「何が罪であるかは、神のみがご存知である」といったような事を言って、またまた世の人の失笑を買ってしまうのであります。

受難節の欺瞞

 こういったキリスト者にありがちなミステイクは、「罪」というものを観念的に理解しようとするキリスト教自体が持っている傾向に由来しているのではないかと、私は思います。
 罪の問題を観念的にした最たるものが「原罪」という思想です。「原罪」という言葉は聖書にはありません。イエスも言っていません。これはずっとあとのキリスト教会で考え出された概念で、カトリック教会で定着するのは4世紀になってからの事です。
 罪の問題に限らず、キリスト教は、何でも抽象化したり、観念的にしたり精神化したりしてゆく傾向がありました。例えば「貧困」の問題。
 イエスが「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる」(ルカ6章20−21節)と言った時、明らかに「貧しい人」というのは「物乞いするほど赤貧」だという状態をさしています。次いでイエスは「富んでいるあなたがたは、不幸である」(同24節)とまで言い切っています。このあたりを、ルカは割に忠実に残していますが、マタイでは「心の貧しい者」であるとか「義に飢え渇く人」と言った具合に、言葉が精神の問題にすりかえられます。「乞食は幸いだ、神の国は乞食のものだ」と言われたのと、「乞食の心を持つ者は幸いだ」と言われるのと、どちらが楽か。もちろん「乞食の心を持つ者」と言われた方が楽です。おそらくマタイが属していた教会には、現実に貧しいわけでもなく、世間的にも有力な人びとが信徒として教会を支えはじめていた現実が既にあり、あからさまに「天国は乞食のものだ。富んでいる者は災いだ」とは言いにくい事情があったと考えられていますが、マタイは「貧困」の問題を観念論化することで、より受け入れられやすい方向へと変えてしまったと言うことができます。
 「罪」の問題もそうです。「罪」の問題が観念的になってゆく傾向と、「十字架」や「復活」の理解が観念的になって傾向は、表裏一体です。
 一番最初に十字架の出来事を見た人は、その刑罰の残虐さ、イエスがこれに処せられたという理不尽さに、言葉にあらわすことのできないほどのショックを受けたでしょう。「あの、私たちを愛しぬいてくれたラビ、イエスがなぜ」と理解に苦しんだでしょう。
 やがて、復活のイエスが使徒たちに現れ、教会の歴史が始まってからも、最初のうちはペトロもパウロも、イエスは神さまによって「起こされた」(Tコリント15章4節の直訳、また使徒言行録3章15節)、つまり復活させられたと述べていましたが、これが後の時代に下るにしたがって次第に、イエスは神の御子であって、神によってこの世に送られ、十字架にかかって復活したのも全部神のご計画であったと理解されるようになり、さらに、三位一体論が教会の中で政治的に有力な立場を占めるようになると、キリストは神ご自身でもあるのであるから、神はご自身を十字架につけたのである、といった風に、限りない言葉遊びの世界に迷い込んでゆきます。
 このような教会の中で、考え出されたのが「原罪」というとても観念的な考えです。「原罪」というのは、天地創造の時代より、アダム以来受け継がれた、神から離れる・神に反逆する罪のことであると説明されます。そして、その原罪の「贖い」つまり「賠償」をするために、神ご自身が自分を十字架につけて罰を身に負い、人間を赦されたのである、と説明されます。そうする事で、キリスト教は、罪の問題を神と人間の関係の問題に絞ってしまい、私たちが日々人を傷つけたり、踏みにじったりする具体的な罪の問題については、全く目をつぶってしまいます。
 そして、キリスト者は教会に集い、最初から予定されていた赦しがイースターの日に確認できることをわかっていながら、年中行事として年に一回受難節に「悔い改めましょう」などと言ってみる。
 しかし、赦される事が分かっていて、いったいどこに真剣な罪の自覚などあるでしょうか。そういうのは八百長というのではないでしょうか。そして、このような観念的な罪の理解が果たして本当の罪理解なのでしょうか。マタイが「貧しさ」を精神化して骨抜きにしたように、私たちも「罪」を精神化する事で、自分たちの受け入れやすい考えに都合よくすりかえてしまっているのではないでしょうか。
 私たちにとって「神に対して罪を犯している」と言うのと「人に対して罪を犯している」と言うのと、どちらがたやすいでしょうか。
 実は「神さまに対して罪を犯している」と言う方が、簡単なのではないでしょうか。私たちのうちの誰が、「だれそれに対して罪を犯しました」と、具体的にその相手の名前まで口に出して人前で告白できるでしょうか。

イエスを殺したのは誰か

 私たちは、イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と神に祈った時、どこでイエスがそれを祈ったのかをよく思い起こさないといけないのではないかと思います。そして、なぜイエスがそんな目に合わなければならなかったのか、誰がどのように彼をそこまで追い込んだのか、よく問い返さないといけないのではないか、と。
 十字架刑というのは、ローマ帝国の刑罰の中でも、当時最も残虐とされた処刑法でした。西洋の多くの絵画や彫刻では、イエスの手足が釘で打ち抜かれてありますが、あれを本当にやったら、体重で裂けて落ちてしまうそうです。それで「あれは本当は手首の骨の間に打ったのだ」という説もあります。『キリスト最後の誘惑』という映画では、手のひらに釘を打った上に、落ちないように縄で十字架に固定していたように記憶していますが、とにかく、この釘にかかる体重の痛みと、脱水症状と出血多量で、長時間言語に絶する苦痛を味わい尽くした末に死ぬ、という残虐極まりない刑罰です。普通、この刑罰で、犯罪者が放置されたまま死を迎えるのに、まる一日を要したといわれていますが、イエスの場合は、すでに衰弱していたためか、午前9時に十字架につけられ、午後3時には絶叫と共に息絶えています。この壮絶な死に様を見て、イエスの弟子でもなかったあるローマの兵士が、「本当に、この人は神の子だった」と思わず言ったといいます(マルコ15章33−39節)。
 そこまでイエスを追い込んだのは誰でしょうか。
 既得権益にしがみつき、さっそうと登場して人気を集めるイエスという新進のラビを妬み、この異分子を排除しようとした宗教家たちの陰謀は、確かに罪だと言えるでしょう。
 また、そんな宗教家たちの見え見えの策略を見抜きながらも、この一人の愛に満ちた癒し人を救えなかった政治家・裁判官の事なかれ主義も罪と言えるでしょう。
 さらには、この一人の有名人が処刑されるのを、好奇心たっぷりに見殺しにした群集一人一人にも罪が無かったとは言えません。
 そして、イエスの直弟子たちでさえも、自分たちの人生を変え、寝食を共にした先生でさえも見捨てて、逃げました。
 それはイエスという一人の人間に対して犯された罪です。彼らは一人の人間を妬み、排除し、おとしいれ、虐待し、見殺しにしました。それは全て、人間として生きたイエス、イエスという一人の人物に対して犯された罪です。
 そして、忘れてはならないのは、そのような罪は、いまも私たちが私たちの社会で規模の大小こそあれ、犯しつづけている罪と同じものなのだという事であります。今、たとえばイエスのような人物が私たちの社会に現れたら、否、教会に現れたとしても、私たちの教会はイエスを抹殺してしまうのではないでしょうか。そして、イエスでなかったとしても、私たちはふだんから、数限りなく、自分以外の人を傷つけ、苦しみを与えながら生きているのではないでしょうか。

人に赦しを乞い、神に赦しを乞う

 私たちにできることは、私たちが日常生活や教会生活の中で、傷つけたり、踏みにじったり、憎んだり、妬んだり、その痛みや孤独や病や死を発見できないでいたり、無視し黙殺していたり……。同じ神さまの作品であるにもかかわらず私たちが損なっている、あの人この人に、赦しを乞うことしかできないのではないでしょうか。
 そして、自分の人生が終わるときには、イエスとともに十字架でつけられた犯罪者の一人のように、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23章42節)と言う以上のことはできないのではないでしょうか。
 私は、自らの罪により傷つけたあの人この人、そして自分がまだ自覚していない、しかし傷つけられた人にとってはとても具体的な罪があるにも関わらず、それでも生きていたいとあさましく願う者です。神さまにも、人にも、赦していただかなくては生きてはいられない存在です。赦しがなければ、生きてはゆけない気になります。しかし、人は赦してくれるとは限りません。そう思うとやりきれません。ですから、今は神の赦しを信じて生きています。信じないと生きていられません。しかしそれは決して「神さまに赦されているから、もういい」と開き直れるような類のものではありません。
 イエスが十字架の上で、私の罪を「赦してあげてください」と神さまに執り成してくれている。もうそれで充分だ。そこがギリギリ。そこで、自分は日々の自分の生活に戻って、自らの罪を悔い改めつつ、赦しを乞いながら、自分を律してゆくしかない。ゆめゆめ、「赦していただいています」などと赦しを先取りするべきものではないのではないかと、そんな風に私は思います。
 何の励ましにもならないお話になったかもしれませんが、私なりの悔い改めに対する思いの一端を語らせていただきました。お祈りさせていただきます。

祈り

 神さま、本日、招かれまして、受難節の早朝祈祷会にて、こうして同信の方々と祈りをあわせることができます恵みを感謝いたします。神さま、日々私たちが犯しつづける罪を赦してくださいませ。私たちが気付かないでいる罪に気付かせてくださいませ。そして気づかせていただきましたならば、その人に謝罪し、その人の前で悔い改める勇気を与えてください。できうれば、どうか私たちが傷つけた人が私たちを赦してくださいますように、執り成してくださいませ。どうか私たちを教会の中はもちろんのこと、私たちが生きるこの日常の世界においても、平和を作り出す者にしてください。
 つたなき祈りを十字架の主イエス・キリストの名によってお聞きください。アーメン。

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