出て行ったひと

2003年11月26日(水)同志社女子高等学校・同志社創立記念礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:創世記 3章20−21節(新共同訳・旧約・p.5)

  アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

なにがしたいの?

  同志社香里高等学校1年生のあるクラスの授業で、「この中で大学に行きたい人は何人ぐらいいる?」と聞きました。
  うちは一部女子が入ってきたとはいえ、高校のほうはまだ8クラスのうちの2クラスだけが共学ですから、ほとんどが男子クラスです。その男子クラスの授業でのことです。
  「大学に行きたい奴は何人おるねん」と聞いたらば、パラパラーッと元気なく、しかし教室のほとんどの子の手が挙がりました。
  「よし、そんじゃ、大学に心底から行きたいわけではないけど、行かなしゃーないか、と思ってる人」と聞くと、パラパラーッと、さっきとあんまり変わらない人数くらい手が挙がりました。つまり、かなり多くの人が大学に心底行きたいと思っているわけではない。
  かわいそうやなーと思いました。それと同時に、いま大学受験目指してがんばって勉強している受験生諸君が聞いたら、怒り狂うでしょう。
  みなさんはどうですか? 女子と男子では違うのもしれませんね。なんだかんだ言って今の世の中でも、男子のほうが就職は有利だから、男子は甘えているんだ、と思う人もいるかも知れません。
  そのクラスの子らといろいろ話してみると、「やっぱり大学には行きたい。そのためにこの学校に来たんだから」という子もいる反面、「別に本心から行きたいわけじゃないけど、大学出ておかないと不利だから」という子も、何人もいました。
  「そしたら君は、不利になったら困るからという理由で、おもしろくない高校生活を、ただじっと過ぎてゆくのを待ってるんか?」と聞くと、「そうです」って答える人もいました。
  つまんない10代の過ごし方ですよね、そういうのは。

夢のサイズ

  中・高・大とレールが敷かれたこのような学校で、「みなさんは受験勉強から解放されているのですから、本当に自分の興味・関心のあることを学び、進むべき道を求めなさい」と言われます。
  「ここには自由がありまーす」
  「同志社は自由の学校でーす」
  「自由とは自己決定、自己責任が原則でーす」。
  ところが、この「自由」ほど恐ろしいものはないんですね、これが。
  どんな学校でも、すべての人に満足のいくように対応できる可能性とチャンスを与えてくれる学校なんてないです。
  でも自分の夢はこの学校でできることではないな、と思ったときに、「学校や親が自分の自由を奪っている」という風には考えないほうがいいです。
  人間は基本的に自由ですよね。
  ただ、その自由のサイズが、学校や家庭の中にうまくフィットする人と、フィットしない人がいるんです。
  学校が用意してくれているチャンスや施設と、自分の自由に描いた夢が一致できる人は、幸せです。
  ところが、自分の夢がこの学校、あるいはこの大学では実現できないな、と思う人も時々は出てきます。当たり前のことですね。
  そして、そういう夢を持っている人が「それでも、私は自由なのだから」と貫くのは怖いことですよね。だって、この中学に入り、高校に進学し、大学あるいは女子大に進学して……という、それは自分が小学生のときから受験勉強をさせていた親の華麗なる長期計画ですからね。その長期計画を裏切らなくてはならない。しかも、このような学校に入って、楽で安全な環境に慣れてしまった分、確実に外に出て生きていく力は衰えている。友達とも別れないといけないしね……。
  とことん夢を貫くというのは、怖いことかも知れません。
  だから、おそらくほとんどの人は、自分の夢が自分のいる学校のサイズを超えそうだと感じる寸前で、夢を描くのをやめてしまうんじゃないですかね。怖いから。
  そして、「つまんね」とか言って、ほんとにつまんない毎日が過ぎてゆくのを待っている。
  でも、逆に厳しいことを言うと、そういう人は自分がとことん自由に生きることができない理由を、学校や親など、自分以外の人のせいにして甘えているとも言えるんですよね。

はみ出し者「新島襄」

  同志社の創立者、新島襄という人をぼくが好きなのは、この人はどうも「人間の自由は、同志社の自由よりも大きい」と思っていたらしいところです。
  この人は、自分の造った学校からはみ出してゆく人を認めるんですね。
  新島は、必ずしも自分の夢のためというわけではない理由で学校を辞めていく人にも、メッセージを書き添えた記念品を渡したり、当面困らないようにお金を渡したり、食事をさせたりして送り出していました。また後になって退学した学生を心配し、励ましの手紙を送ったりもしていました。
  今日読んでいただきました聖書の箇所は、アダムとエバが楽園から出て行かないといけなくなったときに、神さまが「そのままじゃ寒かろう」と上着を着せてあげた場面ですが、新島も、学校を出て行く人を送り出すときは、そういう心持だったんじゃないでしょうかね。
  そもそも新島自身が「出て行った人」ですよね。
  サムライの仕事をサボり、親を見捨て、鎖国にも係わらず外国に脱出してしまう。ルール破りも甚だしい、親不孝、はみ出し者の極地ですね。校則違反なんて目じゃない。自分の夢と信念のためには、国の命令であっても破って行く。
  そんな人が後になって学校を作ってしまったというのだから、これはすごいことだと言えるかも知れない。
  そんな人だからこそ、自分の作った学校に一人一人の人間の人生を押し込めたいなんて思わなかったに違いない。この学校で本当に学んでほしいことは、人間の本当の自由というのは学校よりも大きいんだ、ということなんです。
  だからぼくは、同志社という学校が好きなんですよね。

出て行ったひと

  先々週、かつてやめていったある生徒が、学校に遊びに来てくれました。ぼくが担任をした生徒でした。北海道のある牧場に就職が決まったそうで、本当にうれしそうでした。
  在学中、馬の世話をしたい、馬に関わる仕事をしたいという彼と、意地でも同志社に払った高い学費の元を取りたかった親との対決は、それはそれはすさまじいものでした。
  しかし、最終的には親御さんが折れてくれたおかげで、彼は学校をやめて、自分の夢を実現する事ができた。
  収入は多くはないけれど、幸せだと彼は笑います。
  彼は同志社が嫌いだったわけじゃない。ただ自分の道を見つけたというだけのことです。だから里帰りするたびに学校を訪ねてきてくれます。そして、苦しかった時代のことを笑って話します。今でも彼が学校のことを好きでいてくれるのが、ものすごくうれしいです。
  学校の創立記念の礼拝で、学校をやめた人の話をするなんて変かも知れないけど……みんなには、自分が10年後、20年後、30年後に幸せになっているかどうかをしっかり考えて、この学校で自分の道を探って欲しいと思っています。
  そして、最終的には型にはまろうが、はみ出そうが、あなたが確信を持ってその道を歩んでいるのなら、同志社の教師はうれしい。同志社はそういう学校のはずです。
  神さまが与えてくれた人間の自由は、学校よりも大きい。そう思います。

  最後にお祈りをさせてください。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日の礼拝を感謝します。
  ここに集うひとりひとりが、あなたに与えられた一度限りの命を、悔いのない人生として、しっかりと引き受けて生きてゆくことができますように、どうか守り導いてください。
  また、この人たちとこの人たちが生きる社会のために、同志社に働く者たちが充分な奉仕をなすことができますように、どうか支えてくださいませ。
  貧しき感謝と願いを、愛する主イエス・キリストの御名によってお聞きください。
  アーメン。

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