本当にほしいもの

2005年1月21日(金)梅花中学校創立記念礼拝奨励

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 7章7−12節(新共同訳)

  求めなさい。そうすれば、与えられる。
  探しなさい。そうすれば、見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
  だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
  あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
  魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
  このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
  だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

同信の友

  こんにちは。同志社香里から来ました、富田です。よろしく。
  ぼくは、実は梅花学園に来たのは初めてなんです。昨日、高校3年生の礼拝に来て、そして今日来てるんですが。昨日が初めてです。
  でも、梅花学園のことは、ふだんからよくお話に聞いていますし、青木先生、高橋先生や、他の先生方とも仲良くしていただいています。キリスト教の学校というのはあちこちの先生方が、お互い相談したり、協力したりしながら、お仕事をしてゆくつながりがあるんですね。
  実は、梅花の創立者である澤山保羅(さわやま・ぽーろ)先生と、ぼくのところの同志社の創立者である新島襄先生も、やっぱりお友だちなんです。澤山、新島、そして他のアメリカ人の宣教師たちもいっしょに、この関西地方でキリスト教の教えを広めるために、いろんな方面で協力していました。
  この学校や国籍や人種の違いを超えた友だちのネットワークは、同じものを信じ、同じものを自分たちの生き方の中心にしよう、という気持ちで結ばれていました。
  みなさんは、同じ「何」を梅花の創立者や同志社の創立者が信じていたか、知ってますよね?
  ……そうやね。神さまであり、キリストであり、聖書なわけです。
  でも、特に「神さま」とか「キリスト」というのは、日本人の多くの人にとっては、わかりにくい。それは目に見えへん存在やからね。目に見えへんものを人に説明するのは、たいへん難しい。
  それに対して、聖書は目に見える。読めばわかる。読んでわからない言葉があっても、辞書を引くなり、よく知ってる人に解説してもらえば、書いてあることはわかる。書いてあることがわかれば、あとは自分で考えていけるでしょう。
  だから、学校を創った最初の人たちはみんな、この同じ聖書を使って、協力しあいながら、まだキリスト教の教えを知らないたくさんの人と、人の生き方というものを「いっしょに考えようやないか」と呼びかけてきました。
  だから、梅花と同志社というのは、一見関係のない別の学校のように見えますが、実は学校の始まりから同じ聖書の精神の上に立って、ひとつの目的にために別々の場所で手分けして働いてきているわけです。
  そういうわけですから、こうしてぼくのような同志社から来た者でも、梅花の創立者が大好きだった聖書の言葉をめぐってお話ができるわけですね。

あなたは何を求めるか

  さて、澤山保羅先生が愛した聖書の言葉、マタイによる福音書7章12節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
  さっき司会者の方には、その前のところ、7章の7節から始まって、この12節までのひとまとまりを読んでいただきました。
  
7節「求めなさい。そうすれば与えられる」というのは、うちの同志社香里ではけっこう好きな人が多い聖句です。
  この始めの7節の「求めなさい」と、結びの12節の澤山先生の好きな言葉、この最初と最後でまとめてしまうと、
  
「あんたが神さまに求めるもんは、神さまがちゃんと与えてくださるんやから、あんたが人に求めることも、あんたから人にもしたりや」。
  ……と要約することができます。
  ところが、要約してみて、「なんかヘンやな」とぼく思ったんです。
  なんかヘンやと思いません?
  もう一度言いますよ。
  「
あんたが神さまに求めるものは、神さまが与えてくださるはずやから、あんたが人に求めることは、人にしてあげなさい……」。
  フツウやったらね、こういう言い方になるんちゃうんかな、と思うんです。
  「
あんたが神さまに求めるものは、神さまが与えてくださるはずやから、あんたが人に求めるものは、人も与えてくれるやろう……」
  あるいは、
  「
あんたが神さまに求めるものは、神さまが与えてくださるんやから、人があんたに求めるものは、あんたも与えてあげなさいよ」
  このほうが、つながりが自然でしょ?
  でも、聖書に書いてあるのは違うんですよ。
  「あんたが神さまに求めるものは、神さまがくださる。でも、
あんたが他人に求めていることは、他人にしてもらうより先に、自分から他人にしてあげなさいよ」言うてるわけです。
  よく考えたら、人に何かを求めても、その人が自分の求めたとおりのものを与えてくれるかなんて、わかんないじゃないですか。だから「人に何かを求めたら、人は与えてくれる」なんて、非現実的ですやん。
  また、「人があんたに欲しがるもんは何でもあげや」って言う話やったら、これは「人の言いなりになれ」と言うてるのと同じですね。
  でもそうじゃない。「自分が欲しいと思うものを、人にあげなさい」、「自分がしてもらいたいと思っていることを、人にしてあげなさい」というわけです。
  すると、ここで、問題になってくるのは、「自分の欲しいものが、はたして本当に人にとってもいいものなのか」ということですよね。
  また、ひっくり返して考えると、「君は人にあげてもいいような、本当にいいものを、自分のためにも求めていますか?」ということも問題になってきます。
  あなたは、人にあげてもいいような、本当にいいものを、いまの自分のために、また将来の、未来の自分のために、求めていますか?
  あるいは、自分がもらって本当にうれしいものを、人にあげていますか?

いいもの

  今日読んだ聖書のなかで、イエスさまは……
  
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイによる福音書7章9−10節)
  ……という話をしてくれています。
  これ、今から2000年ほど前の話ですけど、イエスさまも、それからイエスさまのまわりでお話を聞いていた人たちも、貧しい人たちが多かったんやなぁと思いますよね。だって、食べ物の話ばかりでしょう、パンとか、魚とか。
  イエスさまが生活しておられたのは、魚の取れる湖の近くだから、主食のパンと、おかずの魚は、いちばん基本的な食事です。まぁ日本で言うたら、ゴハンと味噌汁みたいな感じかな。
  それは、生きていくために最低限必要なものです。生きるために最低限必要なものを求める人に対して、神さまはいいものを下さるはずや、というお話ですね。
  イエスという人は、ときどき、結構キツイものの言い方することがありましてね。ここでも、当時の人が聞いたらドキッとするような言い方をしています。
  「あんたら、子どもがパンを欲しがってるのに、石なんかやるか?」
  「あんたら、子どもが魚を欲しがってるのに、蛇なんかやるか?」
  「石」は、当時イエスさまが住んでいた地方の風習では、処刑の道具です。犯罪者を死刑にするときに、みんなで人の頭くらいの大きさの石を、その死刑囚に投げつけて、ボコボコにします。そうして倒れた死刑囚に、最後は大人2人で抱えるような大きな石をその人の上にドーンと落として、とどめをさします。
  「蛇」はどうでしょうか? 「蛇」もやはり当時の人たちの間では、恐ろしいイメージです。なんと言っても、蛇は悪魔の使いの動物だと思われていましたから。旧約聖書の一番初めに、最初の人間アダムとエバを積みに誘った悪いヤツだ、ということで、すごい当時の人には嫌われてたんですね。
  だから、イエスさまはこう言ってるわけです。
  「あんたらは、子どもが『ごはんや味噌汁をくれ』言うてるのに、人殺しの道具や、人を罪に誘う悪魔の化身を子どもに与えるんかい? そんなことはないやろう。やっぱり子どもにはいいものをあげたい。神さまかて、同じやで」と。
  でも、残念ながら、世界の国々のなかには、子どもに人殺しの道具を与えて、大人の戦争の手伝いや、あるいは身代わりをさせられているような、そんな国もあります。
  あるいは、去年の年末に、東南アジアやインドを襲った大きな津波の被害の話、聞いたことあるでしょう?
  あれ、親を亡くした子どもらがいっぱいいますけど、そんな子どもらをだまして連れて行って、売り飛ばして、売春をさせたり、麻薬の売人にさせたり、というようなことをやる組織も出てきています。
  子どもに人殺しの道具を与えたり、子ども自身を悪魔の手先にするようなことを、やる人間は実際にはこの世にいるわけです。
  神さまがどんなにいいものを下さろうと思っていても、おとなが悪いものを子どもに与えてしまう、という事件は、他にも世界中でたくさん起こっています。

いらないもの

  じゃあ、我々のね、この日本はそんなことはないかな、と思っていたら、そういうわけでもないんですよ。
  麻薬とかね、そういう事件は確かにありますけど、例えば、何気なく平和に暮らしているようでも、じわじわとね、みなさんは基本的ないいもの以外の不必要なもので、だんだんとダメになっていってます。
  コンビニのサンドイッチとか、おにぎりとか、裏側に貼ってある、食品添加物のリストを読んでごらん? すごいよ。
  いま、ここにも一つサンドイッチを持ってきたけれども、「ソルビン酸カリウム」、「ソルビット」、「増粘多糖類」、「亜硝酸塩ナトリウム」……これ、全部クスリです、クスリ。みんなクスリを食べている。これ表示を義務付けられているだけのものしか表示してないですけど、義務付けられてない種類のクスリもありますから、他にも知らないようなクスリがいっぱい入っているわけです。)
  あるいは、イエスさまはパンの話をしたけれども、たとえばスーパーでふつうに買ってきた食パン。ぼくらが子どものころは、食パンなんか3日も置いてたら、アオカビが生えて、緑色のまだら模様になって、よくそんなカビのついた部分をちぎって残った白いところを食べてた。
  今は、食パンなんか、何日テーブルの上に置いてたって、カビなんか生えへん。腐りもせえへん。なんでか言うたら、それは、防腐剤がたっぷり入ってるからやね。やっぱりクスリです。薬品。
  これはつらい状況です。というのは、イエスさまがパンの話をしたのは、それが生きていくのに最低必要なもので、「いいもの」だからでしょう? ところが、今の日本では、「いいもの」を食べたいと思ってても、その「いいもの」の中に「悪いもの」が混じりこんでしまっていて、しかも「悪いもの」だけ取り除くということができにくくなってるんですよ。
  学校の先生なんかしてるとですね、毎年、君ら若い人たちの体が、年下になるほど壊れていってるのが、よくわかるんです。修学旅行とかで、みんなの健康診断の結果リストみたいなものを見る。毎年見てると、年々病気やアレルギーを持っている人が増えてるのがわかるんですよ。何年か前に真っ白だったリストが、毎年だんだん、「こういうものを食べると体中に湿疹ができる。こういうものに触れると血が出る。こういうものを吸うと息ができなくなる」みたいな書き込みが増えて、リストが真っ黒になってきている。
国全体、あるいは国じゅうの会社の中でね。本当に「いいもの」を売ってるところは少ないし、「いいもの」はたいてい値段が高いです。
いまは、「いいもの」が手に入りにくいし、何が「いいもの」で、何が「よくないもの」かもわからなくなっているから、「いいもの」を求めているつもりで、実は「悪いもの」を求めてしまっているような、そんな時代です。

本当にほしいもの

  どうして世の中がこんな風になってしまったのかな、と思う。
  結局、「人には本当にいいものをあげたい」という気持ちよりも、「いいものであろうが、悪いものであろうが、たくさん売れてもうかったほうがいい」という考え方の人が、多くなってしまったからやと思います。
  食べ物を作っている農家や、工場で働いている人たちの多くが、「自分のところで作ったものは、自分では食べたくない」と言っているような、そんな時代です。
  全く聖書に書いてあることと反対です。「人にしてもらいたくないことを、人にしながら商売している」。
  でも、こんなことをしていたら、日本も世界も滅亡してしまいます。
  逆に、こんな状況になってしまったからこそ、聖書に書いてあること、この澤山保羅先生が大切にした言葉の正しさが証明されたようなもんやないかな、と思います。
  今からでも、ここに書いてあることを、ちゃんと行なえる人が一人でも増えてきたらね、世の中は少しずつでも、まともになっていきますよ。
  ていうか、そうしないとね、君ら自身の未来も、君らの子どもの世代の未来もないです。だから本当に真剣に考えないとダメです。
  そして、実はね、本当にまじりけのない、無農薬のパンや野菜というのは、ほんまは「おいしい」のです。
  全国に「よくないもの」が出回っている、こんな社会に生きてたんじゃ、どうしようもない、と思いそうになります。でも、たとえば、自分の住んでいるところの片隅の、日の当たる場所にプランターを置いて、トマトの苗を植えてみるだけでも、状況は変わってくる。おいしい、元気な無農薬のトマトをあなたは食べることはできます。たった一人でもできることはあるんですよ。

  聖書には「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい」と書いてある。
  人が欲しいと言う物を、「それは本当はよくないものなんやけどな」と思いながらも、与えてしまうような大人にならないでほしい。
  自分にとっても人にとっても、本当に「いいもの」を人に提供し、本当に「いいこと」を人にしてあげる、「いい仕事」をする、そういうことができる大人になっていってください。
  お祈りします。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日、ここに集まり、梅花中学校のみんなといっしょに礼拝ができましたことを感謝いたします。
  ここにいる一人ひとりが、自分にとって本当によいものを求め、よいものを身につけ、そして、よいものを人にも与えることのできる人として、大きくなっていってくれますように、神さまどうか導いてください。
  また、あなたに託された教育の業にたずさわる、教員、職員をもいたわり、励ましてくださいませ。
  いつもわたしたちとともにいてください。
  この祈りを、主イエス・キリストの名によってお聞きください。
  アーメン。

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