もらうより、あげるほうが幸せ

2008年11月16日(日) 日本キリスト教団 枚方くずは教会 伝道礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:使徒言行録20章33~35節 (新共同訳・新約)

  わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。

パウロと福音書

 今日私たちがいっしょに読みました聖書の言葉は、パウロという人がエフェソというところ(これは今でもエフェソスと呼ばれている遺跡のある街ですが)にある教会の長老たちと別れを告げている場面です。
 パウロという人は、イエスが死んで間もなく、おそらくイエスの死後20年ごろに活躍したとされているキリスト教の宣教者です。この人は、パレスティナ地方に起こった、その当時まだ新しい宗教であるキリスト教を、ローマ帝国の北東部、今で言うトルコやギリシャ、ブルガリアやマケドニア、そしてイタリアへと伝えていった人なので、この人がいなければキリスト教は世界宗教にならなかっただろうと言われています。
 しかし、もちろんこの人だけがキリスト教を広めたのではなく、他にも何人もの宣教者の働きがあって、キリスト教がじわりじわりと当時のローマ帝国のなかに広がっていったのですが、たくさんの手紙を書き残して、新約聖書の中に名前を残しているのは、主にこのパウロさんだったというわけです。
 いまさっき、パウロはイエスが死んでから20年ごろに活躍した、と言いましたが、ということは、イエスについて書かれた福音書よりも、パウロの手紙のほうが古い、ということです。
 いちばん古いとされているマルコによる福音書が、だいたいイエスが死んでから30年ごろということですから、それよりも早いわけです。ローマの信徒への手紙とか、コリントの信徒への手紙というのは、福音書よりも先に書かれています。ということは、聖書の中で一番イエスに近い年代の人の声を聴こうとすれば、パウロの手紙を読め、ということになります。
 あとの方の文書になるほど、奇跡物語や謎めいた話が多くなりますが、パウロの手紙の中には奇跡物語は一回も出てきません。ということは、たとえばイエスが湖の水面を歩いたとか、水をワインに変えたとか、そういう超自然的な話はあとの方の時代に書かれた事なんだなあと言う事がわかります。
 しかし、それでは、あとのほうの時代に書かれた本には値打ちはないのかというと、そういうわけでもありません。
 これもさっき述べましたように、初期のキリスト教は、パウロだけではなく、他にも何人もの宣教者があって広められたものです。ですから、パウロの言った事が全てというわけではありません。パウロの手紙のあとに、福音書が次々に書かれたということは、パウロの伝えたキリスト教の内容に、納得がいかなかった人びとがいたということですね。しかも、マルコのあとにマタイとルカが、そしてヨハネが次々に書いていったということは、彼ら福音書作家たちもお互いに先に書いた人の作品が十分だとは思えなくて、どんどん書いていったわけです。そうなると、後の時代になるほど、確かな情報ではなくなってしまうのではないか、という危惧も感じるのですが、案外、後のほうの人の福音書が、前の人が書かなかったような新たで、しかも確実な情報が盛り込まれている場合もありますので、そういうのを掘り出すのが好きな人にとっては、複数の福音書を読み比べるのは、大変面白いパズルのような楽しみを与えてくれます。

パウロと使徒言行録

 そして、その中でも、ルカという福音書作家は、イエスの生涯を書くだけでなく、イエス以後も活躍したイエスの弟子たちや、パウロのようにキリスト教を迫害していたのに、改宗して宣教者になったような人びとの歴史も書き残さなければならない、と考えて、ルカ第2巻、すなわち使徒言行録を書きました。ですから、他の福音書作家が著作に含めなかった情報が使われており、他の作家が書かなかった時代の歴史を書いたわけですから、そういう意味では大変貴重な本です。
 もちろん、使徒言行録におけるパウロの姿が、正確にパウロの実像を伝えているかというと、そうでない場合もあります。パウロが書いた手紙はパウロの意見そのものですが、使徒言行録に書かれているのは、ルカが解釈したパウロの姿ですから、それらがちょっとずつズレてくるのは仕方がありません。
 たとえば、これもさっき言いましたが、パウロの手紙には奇跡めいた話は出てきませんが、ルカの書いた使徒言行録のなかでは、パウロが死んだ人を蘇らせた話などが出てきます。また、このパウロが旅をしているときに、天から不思議な光と声が聞こえて、パウロを改宗させたという物語が、使徒言行録には3回も出て来ますが、パウロ自身は自分の手紙のなかでは、そんな話は一度も書いていないというのも不思議な話です。
 こういうところを読んで、「ああ、ルカはパウロを、ただ者ではない特別な人だということを訴えたかったんだろうな」ということがわかります。宗教的に偉大な人が、こういう不思議な奇跡物語で飾られるといったことは、古代の文学にはよくあることです。
 ……さて、その一方で、この使徒言行録の中に、パウロなどが手紙に書き残さなかった内容ですが、意外とイエスの生の声が伝えられているのではないか、と指摘されている部分もあります。それが今日読んだ聖書の箇所。パウロのセリフですが、その中に含まれているイエスの言葉。これは、パウロが自分の手紙に書き残してはいませんし、他の福音書作家たちも書いていません。しかも、パウロのセリフの中に引用された言葉として描かれている。しかし、おそらく確かにイエスが語った言葉だろうとされているのが、この「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)という言葉です。

誰のための勉学か?

 学校で成績が悪くて叱られる中学生に、よく先生が言うのは、「こんな成績ではろくな高校に行けないよ」。私が働いているような中学から高校・大学までつながっているような学校でも、担任の先生が「こんな成績では高校に上がれないぞ」とか「これではとても大学には推薦できないね」などと言ったりします。
 その一方で、そんな学校の序列社会に順応してゆく人もいます。中学で優秀な成績を修めて、進学で有名な高等学校に入り、その高等学校でも大変優秀な成績を修めて、有名大学への受験でも見事合格、そして、いざ大学に入って何を言うかというと、「先生、ぼくはこれから何をすればいいんでしょう?」という学生がいると聞きます。これは悲劇です。
 でも、私が働いている中学校では、生徒はこの悲劇に早くも中学時代のうちにさらされてしまうのです。今まで、お母さんやお父さんといっしょに「あの学校に入ろう」とがんばってきた、その目標が、合格によってとりあえずなくなります。
 うまくクラブ活動などで、自分のエネルギーを発散できるところを見つけた人はいいですが、そんなに全ての人がクラブ活動に順応できるかというと、そうとも限りません。
 クラブ活動をするでもなく、かといってやっと勉強から解放されたと思っているのに、いまさら目標もなく勉強もしたくないし……ということで、何をして毎日を生きたらいいのか、わからなくなってしまう中学生が、私の学校にはたくさんいます。
 先生たちはこんなことも言います。「一体、誰のために勉強してるんや? 勉強せんかったら、一番困るのは誰や? よう考えてみ」。
 これに対する一般的模範解答は「自分のためです」です。「勉強しなくて困るのは自分です」。そういう受け答えを先生も期待しています。
 しかし、「私はこれでいいのかな?」と思う時があります。

何のために生きるのか?

 中学1年生のあるクラスで授業をしていて、生徒たちとこんなやりとりをしたことがあります。
 「みんなは、一体何のために、これまで勉強してきたんや?」
 生徒たちは無言です。しかし、わかっているのです。今自分がいる学校に入ってくるためです。もちろん第一志望ではなかった学校だったかも知れませんが、それでも公立の中学には行かないという選択をしたのですから、やはり進学のために勉強してきたのは間違いないです。その証拠に、いったん入学してしまうと、とたんに勉強しなくなります。「これまで勉強してきたんやから、もうええやん」と言います。
 というわけで、小学生が勉強するのは、いい中学校に入るためです。
 でも中学でも、一応ちゃんと勉強してないと、高校には上がれません。中学生はいい高校に進学するために勉強するのです。
 では、高校生は何のために勉強するかというと、いい大学に入るためです。なんでいい大学に入るかというと、それはいい会社に入るためです。いい会社に入るのは何のため? それは、いい給料をもらうためです。では、いい給料をもらうのは何のため? それは、いい暮らしをするためです。では、いい暮らしをするのは何のため? いいものを食べたり、いい服を着たり、いい物を持ったり、いろいろ遊べるから。では、何のために食べたり飲んだり、服を着たり、遊んだりするの? それは、そうしないと生きていけないから。生きるのは楽しい方がいいから。では、何のために生きているの?
……そこまで聞くと、生徒はみんな困った顔をします。なんのために生きているのか、わからないのです。
 これが高校生だと、開き直りが出てきます。「別になんのために生きているかなんて、わからなくてもいい」と言います。「そんなことを考える事自体、バカらしい。人生には意味なんてない。ただ偶然生まれてきて、死ぬまでの間、友達と楽しく生きていければそれでいい。人生なんて死ぬまでのひまつぶしだ」てな具合です。もちろん全員がそういう感じではありませんが。
 でも、中学1年生のうちなら、もう少しまじめに考えることができます。ただ、考えてはいるけれども、私が「じゃあ、なんのために生きているの?」と聞いても、返事ができません。さらに私が「なんのために生きているのか、わからない? じゃあ生きていなくてもいい? 死んじゃう?」と問いつめると、ますます困った顔をします。ちょっと意地悪な質問かも知れません。
 けれども、私は大事な質問をしているつもりなのです。何のために生きるのか、あるいは誰のために生きるのか、それがない、自分のためだけの人生なんて、空しいと思うからです。
たった一人の恋人でもいい。自分の家族のためにでもいい。でも、それ以外にも、この世にはいろんな形で、人のためや社会のために役立つ方法はあるはずです。それを発見して、なんらかの使命感をもって生きていかないと、人間は必ず行き詰まってしまうのではないかと思います。

ミッション

 そこで私は、「使命感」と黒板に大きく書いて、下に赤線をひっぱります。
 子の「使命感」を、ちょっとかっこよく英語で言うと、「ミッション」という言葉になりましょうか。しかし、英語の「ミッション」には、日本語で「使命」と言う場合より、もうひとつ広い意味、「神から与えられた使命」という意味を持つように感じられます。
 ご存知のとおり、ミッションという言葉は、キリスト教の宣教そのものを指して使う場合があります。宣教師のことも「ミッショナリー」といいますし、よくキリスト教学校を指して「ミッション・スクール」と呼んだりしますが、これも「キリスト教の宣教の使命を帯びた学校」という意味です。
 しかし、ということは、現在、狭い意味での「ミッション・スクール」というのは、日本にはほとんど存在しないことになります。キリスト教の信徒を増やすための教育をやっている中学も高校も大学も、現在ほとんどありません。キリスト教学校というのは、あくまでキリスト教「主義」の学校であって、人間性や良心を養う目的でキリスト教や聖書について学びます。
 しかし、「ミッション」という言葉を、もっと広い意味での「使命」であると考えると、たしかに私たちが働いている学校などは、広い意味での「ミッション・スクール」だと言う事もできます。それは、そこで学ぶ人に、「なんのために生きるのか」をつかんでもらうための教育をするべき場所だという事です。

「プロジェクトX」と五木寛之

 少し前に『プロジェクトX』という番組がテレビで放映されていました。ご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。私もあの番組は好きで、時間の許す限り観ていました。
 内容は、戦後の復興をなしとげて、高度成長期の日本を推進した数々のプロジェクト、不可能とも思われるような計画を実現に導いた人びとに焦点をあて、紹介していく番組でした。
 こういう、企業などのプロジェクトものを観ると、私はジーンと胸が熱くなります。自分がかつて企業に勤めていた事もあるのでしょうけれど、自分に与えられた仕事に、全身全霊をかけて試行錯誤をしながら道を切り開いてゆく、その姿に感動するのです。
 そこで、描かれている人びとに共通しているのは、「使命感」つまり「ミッション」があるということです。自分が今やっている仕事は、日本のために、世界のために、自分以外の多くの人びとのためになる、あるいは多くの人びとにとって生命線ともなるべき事業である、という自負が彼らにはあります。
 そこには生きる目的と意味がはっきりと現われています。だからこそ、生きる目的と意味を見失いがちな私たちに感動を与えてくれるのかも知れません。
 作家の五木寛之さんという方がいらっしゃいます。この方は、最近、人の生き方について、たいへん深い考察をされた本をたくさん出版しておられます。主に仏教の立場をベースにしながら語っておられますが、クリスチャンにとっても学ぶべきところが多いように思います。
 この五木寛之さんが、確か5〜6年ほど前であったと思いますが、喫茶店で何気なく私が読んでいた週刊誌に、「サラリーマンよ。ミッションを持て」というような内容のことを書いておられたのを憶えています。
 その記事では、「仏教でもキリスト教でもいいから、きちんとした宗教について学び、よく考えなさい」ということが説かれていました。そして「ミッション」、すなわち何のために自分がこの世に生を受けたのか、何のために生き、何のためにこの仕事をしているのか、についての使命感、世界観をしっかり持てということを勧めていました。
 たとえば営業マンなら、自分はこの商品を売る事によって、どういう形で世の中に貢献し、人の役に立ちたいと思っているのか、そういうことを明確に意識することで、自分の生きている意味が感じられてくるのですね。
 ミッションを持つ商売人、ミッションのある研究者、ミッションのあるクリエイター、ミッションのあるエンジニア、ミッションのある経営者……そんな人びとがたくさん出てくる事で、世の中がよい方向に変わっていくのではないか、ということです。

人を育てるというミッション

 その記事では主に仕事をしている人のことが記されてありましたが、たとえば仕事ではなく、家族が生き甲斐だという人でも、ミッションのある母親になる、ミッションのある父親になる、ということは可能だと思います。自分の子どもを育てて、いつか巣立たせるということは、この社会に社会の新しい構成員を送り出すという事ですから、自分の子どもを通じて、社会に何かいいものを加えていきたい。せめて人様にご迷惑をおかけするような子どもには育てたくない、というのも、立派なミッションではないでしょうか。子育ても社会に対する責任なのだと思います。
 そして、これから育ってゆく子どもたちには、いつかは自分なりのミッションを持って、この世で自分の生きている意味をいつも感じながら、いい苦労をして、生き甲斐のある人生を生きていってほしい。そのミッションの発見の手助けをするのが、親や教師のミッションであろうと思います。
 また、教会のミッションとは、今やこのようにキリスト教の過去行ってきた間違いや血塗られた2000年間の歴史が明らかになっている以上、単純にキリスト教を信じることを人に求めるということではありえません。
 もう二度と宗教戦争を起こしたり、国家の戦争に加担したり、異端審問のような差別と暴力に満ちた綱紀粛正を行わったりはせず、自分たちだけが唯一の真理を手に入れているなどといった妄想から解放されて、自分たち以外にも違う形と方法で真理に触れている多くの宗教・宗派があるのだと認め、教会に触れる人が自分の居場所を発見し、自分らしいミッション、すなわち生きている意味を感じられるような生き方を発見するために手助けをするような、教会がそういう場所であってくれたらいいな、と思うのです。
 簡単に言うならば、「生きていてよかったな」と感じられるようにするのが教会なのではないだろうか、と思うのです。

もらうより、あげるほうが幸せ

 この世に生きている動物の中で、自分以外の者が喜んでくれることが、自分の喜びになるような心を持っているのは人間だけだ、ということを聞いた事があります。
 本当にそうなのか、私はチンパンジーやゴリラといった、わりと高等な霊長類だったら、そういう気持ちをもっていても不思議ではないと思っていますし、うちで飼っている犬も、こちらが嬉しい気持ちを体で表 てやるといっしょに跳ね回ったりしますから、案外これは人間だけの特長ではないのかもしれません。が、とにかく、「人の喜びが自分の喜び」という心を持っているのは、たいへんありがたい、値打ちのあることだ、とは言えます。
 自分のためにする勉強、自分のためにする努力こそが自分を助けるのであって、「自分のことを後にしてでも世のため人のため」という生き方は今時流行らない。自分を幸せにするのは自分しかいないんだ、という考え方をする人はたくさんいます。
 しかし、本当に自分を幸せにしてくれるのは、自分以外の人の笑顔なんだ、ということも言えるのではないかな、と思います。
 常識的に考えても、自分のメリットばかりを考えている人は、やがて人から相手にされなくなります。人のために自分の労力と時間を使うことのできる人が、世の中で活躍できるようになる、というのは、ちょっと考えれば当たり前の事です。
 イエスはそんな当たり前のことを、さらりと言っただけなのかも知れません。
 「受けるよりは与える方が幸いである」……
 「受けるよりは与える方が幸いである」……(使徒言行録20章35節)
と。
 人に何かをしてもらうことはありがたいことではあるけれども、人のために何かをしようと思える心を持ちたいものです。結局はそれが、自分が幸せになるということに他ならない、人の幸せは自分の幸せ、そういうことを、イエスは教えてくれているのではないか、と思います。
祈りましょう。

祈り

 愛する天の神さま。
 今日こうして枚方くずは教会において、敬愛する兄弟姉妹と共に、また若い人びとと共に礼拝をささげる事ができます恵みを感謝いたします。
 あなたに与えられた命を、あなたから託された使命を発見し、その使命のために生きる道をたどることができるよう、どうか私たちをお導きください。
 あなたの御意志はおぼろで、なかなか私たち人間にはとらえがたく感じられることも多くあります。しかし、自分に起こるすべてが意味あることとして謙虚に受け止め、あなたの望みを推し量って、生きる勇気を与えてください。
 主イエス・キリストの御名によって、御前に祈ります。
 アーメン。


 
※「ミッション」についての考察の一部は、2008年11月6日、同志社同窓会館で行われた、敬和学園高等学校校長:小西二巳夫牧師のご講演から触発されたものです。


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