「人みな神の子」

2000年8月20日(日)
キリスト教学校教育同盟関西地区カウンセリング研究会夏期合宿・聖日礼拝兼閉会礼拝奨励

奨励時間:約15分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書10章31〜39節(あなたたちは神々である)(新共同訳・新p.187−188)

 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。
 「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」
 ユダヤ人たちは答えた。
 「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
 そこで、イエスは言われた。
 「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父のうちにいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

ラディカルな教え

 おはようございます。
 私、遅れて昨日から参加しているものではございますが、今年もこうして、同じキリスト教学校に於ける働きに押し出されている者である、愛する同志の皆様と再会できたことを心から喜んでいます。
 また、ご一緒に閉会礼拝を兼ねて、日曜日の聖日礼拝を共に守ることができます恵みを、心から感謝いたします。
 朝のこのひと時、聖書の教えに耳を傾けたいと思います。
 本日、私が選ばせていただきました聖書の箇所は、実はキリスト教神学的には比較的ラディカルなこと――つまり皆さんがよくご存知でいらっしゃる正統派的なキリスト教の教義に対して、それをひっくり返すような内容が書いてある箇所であります。
 何が正統派的な教義と違うのか。
 それは、「『神の子』とは、イエスだけのことではないのだ」ということであります。

人みな神の子

 イエスがエルサレムの神殿の境内を歩いている時、いつもの論争相手であるユダヤ教の学者たちがイエスを取り囲みました。そして、「おまえはメシア(つまり救い主)なのか?!」と問い詰めます。これに対してイエスが「わたしと父はひとつである」と答える。そうすると、ユダヤ教徒たちは、石を取り上げて「神に対する冒涜だ。おまえは人間のくせに、自分を神としている」と、イエスを殺そうとした、というのが、さきほどお読みしました物語の場面であります。
 石で打ち殺そうとしたというのは、これは古代ユダヤ教の正式な処刑の方法が石打ちの刑でしたから、彼らは神を冒涜した者として、宗教的に罪を犯した者として、正式にイエスを死刑に処そうとしたわけです。
 すると、イエスは何を言い出すかというと、聖書に――、

「『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(ヨハネ一〇章三四〜三六節)。

 「イエスは神の子である」と言う時、キリスト教の信者もそうでない人も、「だから普通の人間ではない」と勝手に決めてしまいます。そして、「だからイエス様は素晴らしい」とあがめたり、全く反対に「だからキリスト教はインチキくさい」と思ってしまう人もいます。
 しかし、なぜイエスが神の子であると言えるのか。その根拠は「私は人間だ」「そして人間は神の子だ」「だから私は神の子だ」と、ここでイエスは言っているのであります。
 実は、ここでイエスは論争としては、かなり無茶なことをしております。この強引さというかハッタリというか、そういうイエスの態度というのは、実は他の場面でも見られ、これがまたイエスの魅力でもあるのですが、とにかく、ここで彼が「あなたたちの律法に書いてあるではないか」と――「律法」というのは、私たちが「旧約聖書」と読んでいる書物ですが――この旧約に書いてあるじゃないか、とイエスが引用している。ところが、それに該当する旧約の箇所を開けてみると、実はぜんぜん逆の事が書いてあるんですね。
 「あなたたちは神々である」と書いてあるじゃないかと言われているのは、これは詩編の八二編六節(新共同訳・旧約九二〇頁)なのですが、こちらのほうでは、こうなっています。

「彼らは知ろうとせず、理解せず
闇の中を行き来する。
地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った
「あなたたちは神々なのか
皆いと高き方の子なのか」と。
しかしあなたたちも人間として死ぬ。
君侯のように、いっせいに没落する。
(詩編八二編五〜七節)

 決していい意味ではなく、むしろ、おごり高ぶる人間に対して、「お前たちは自分が神々だとでも思っているのか」と戒めています。
 そういう意味では、この旧約聖書は元来ユダヤ教の聖書ですから、イエスに対して「お前は自分が神だとでも思っているのか」と迫ったユダヤ人たちは、ユダヤ教の基準から見れば正しいわけです。
 この旧約の言葉をねじまげてでも、イエスが伝えたかったこと。あるいは、当時最高の権威だった旧約聖書の言葉をあえてねじまげているからこそ、イエス自身の強い強い思いが込められた主張。
 それは、「人間は本来、神の子なのだ」というメッセージであります。
 「人間は神々である。人間は神の子である。だから、わたしも神の子である」というのが、イエスが「わたしは神の子である」と言う根拠だというのであります。
 そして同時に、彼の命を狙う人々に対してさえも、「君たちだって神の子であるはずなのに、なぜ気づかないのか」というイエスの心の嘆きも、私たちはこの聖書の物語から読み取ることができるのであります。

人みなタケノコ

 私たち(の多く)は「先生」と呼ばれる仕事についています。
 「先に生まれた」から「先生」でいいのでしょうが、「生まれた」という言葉は、日本語で読んでも、英語(be born)で読んでも、受身形です。私たちは誰一人として、自分の意志でこの世にやって来た者はいません。私たちは皆、この世に「生まれ」てきた。送り出されてきた者たちです。
 タケノコのように、無意識の中から意識が芽生えて、「自分」というものを発見します。そして、節目節目を刻みながら成長してゆきます。過去の節目に傷や穴が開いていることもあり、私たちは時に成長の壁にぶつかった時、その傷や穴を埋める作業をしなければならないこともあります。
 そして、先に生まれた私たちは、後から生まれてきた子どもたちをお世話する仕事に押し出されております。タケノコはみな地中では根っこでつながっておりますが、この根っこが、キリスト教的に言えば「神」であると言っても差し支えなかろうかと思います。
 私たちは、先に生まれてこようと、後から生えてこようと、「神」という共通の根っこから生まれてきた「神の子」であります。
 先に生えてきた者は、後から生えてきた者に、かつて自分が経験してきた節目を見ることができます。また、自分のどの節目に、いつの時点の節目に穴が開いているのかを、後から生えてきた者に気づかされることもあります。共に癒され、共に節目を見つめなおす事で、何か後から生えてきたものに手助けができるかもしれません。
 そして、何より先にこの世にやって来た者である私たちは、後からこの世に送り出されてきた後輩たちに、
 「この世はそう悪いところじゃないよ」
 「この世ってのは生きるに値するところだよ」
 ……と伝えてあげる務めがあるのではないかと思うのです。
 じっさいには、私たちにとっても、そしてそれ以上に、子どもたちにとっても、日々の暮らしは、そうそう楽しいことばかりではありません。しかし、神さまから送り出されてきた新しい魂たちには、カラ元気をふりしぼってでも、「この世ってのは、なかなかいいところだ……!」と希望を語ってあげたい。
 そして、そんな希望をみんなが持てば、ひょっとして本当にこの世は明るくなってゆくのではないか……と、私などは楽観的に考えてしまうのですが、いかがでしょうか。
 夏休みが終わり、私たちは、また再び、たくさんの神の子たちの前に押し出されてゆきます。そして、押し出されている私たちもまた、たまたま先に生まれた神の子であります。
 共に神さまに愛されていることを信頼し、共に生き、共に育つものでありたいと思うものです。

祈り

祈ります。
私たちを生まれさせ、命の息吹を与えてくださった神さま。
今日ここに、5日間の研修の日程を無事に終え、安らかな思いをもってあなたに礼拝を献げることができます恵みを感謝いたします。
私たち、これから、互いに離れ、それぞれの持ち場に派遣されようとしております。あなたから預かった大切な後輩たちを育てる大切な業に参加させていただくことは、私たちにとって大きな恵みです。日々感謝をもってこの業に当たることができますように。
また、ここで出会った同じ労を分かち合う仲間とも、しばしの別れを経験することになりますが、それぞれに離れた地にあっても、励まし合い、癒し合う、よき交わりが保たれますように。
そして、御心にかないましたら、また再びこの世で会うことができますように。
この尽きざる感謝と、貧しき願いの祈りを、イエス・キリストの名によって、お献げいたします。
アーメン。


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