“よい知らせ”を持って、出て行こう

2004年10月31日(日) 日本キリスト教団石橋教会 聖日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書1章1〜20節

  神の子イエス・キリストの福音の初め。
  預言者イザヤの書にこう書いてある。
  「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
  荒れ野で叫ぶ者の声がする。
  『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
  そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために
悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた
  ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。
  ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
  彼はこう
宣べ伝えた
  「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」
  そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
  すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
  それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
  ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を
宣べ伝えて
  「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

3段階の「宣教」

  本日は、「『宣教』とは何か」というテーマをあらかじめいただいております。
  「宣教って何なんだ」という、わかっているようで、でもわかっていないようなこと、大事なことで、わかっていなくてはいけないのだろうけれど、改めて聞いても難しそうだし、ちょっと……というようなことについて、わたしにできる限りわかりやすく、しかしオーソドックスなところをきちんと抑えながらお話をしてみたいと思います。
  「宣教」とわたしたちが言っているこの言葉は、新約聖書のギリシャ語では「ケリュグマ」という言葉を訳したものだということは、みなさんご存知でしょうか?
  そして、その動詞形「ケリュッソー」という言葉が、「宣教する」という意味になります。というか、ギリシャ語の動詞は必ず「私が……する」とか「彼が/彼女が……する」という認証も含んで1つの単語で言いますので、「ケリュッソー」というのは「私は宣教する」ということになります。
  名詞の「宣教」すなわち「ケリュグマ」という言葉は、説教とか宣言とかメッセージのことで、特にその中身の内容のことを指します。
  動詞の「宣教する」すなわち「ケリュッソー」、いま私たちの手元にある日本語の聖書:新共同訳聖書ではもっぱら「宣べ伝える」とか「宣教する」と訳されています。言葉の意味としては、「宣言する」「知らせる」「説教する」といったことを指します。
  たとえば、本日お読みいただきました聖書の箇所、
マルコによる福音書の最初から見ていっても、1章5節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります、この「宣べ伝えた」が「ケリュッソー」の活用形です。
  その次に出てくるのは
7節「彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる……」、これも「ケリュッソー」の活用です。
また、
14節「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とある、この「宣べ伝えて」というのもそうです。
  ページをめくっていただいて、同じ
1章38節「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し……」というのも、そう。
  ちょっと違う訳し方となると、たとえば、ページをめくっていただいて1章45節、重い皮膚病を患っている人が癒された後、「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」とある、この「大いに告げ」というところも、「宣教する」と同じ言葉になっています。
  いま紹介しました、マルコによる福音書の最初のたった3ページで、宣教というものがどんな風に広がってゆくのか、その3つの段階が明らかにされています。というのは……

   (1)最初は、イエスに先立つ
洗礼者ヨハネが「罪の赦し」を得させるために「悔い改め」の洗礼(バプテスマ)を宣べ伝える(1章4節)。次に……
   (2)
イエスが「悔い改めて、福音を信じなさい」と、神の福音を宣べ伝える(1章14節)。さらには……
   (3)
イエスに癒され、救われた者が、今度は自分でその出来事を人びとに大いに告げ、言い広め始める(1章45節)。

  ……という3段階です。

「悔い改め」を求める「宣教」

  最初の2段階、洗礼者ヨハネとイエスの宣教は、「悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」とか「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で表されているように、いずれも人間に「悔い改め」を求めることが、その大きな目的になっています。
  では、
「悔い改め」とは何か。
  日本語で「悔い改める」と書くと、「悔やんで」「改める」という文字の印象から、まるで悪いことをした人間がそれを悔やんで反省して以後の行動を改める、というような意味に取られそうですが、もともと聖書の世界で考えられている「悔い改め」というにはそういう意味とはちょっと違っていて、たとえば「道を変える」とか「引き返す」とか「立ち戻る」という意味になります。
  特に新約聖書で使われている「悔い改め」という言葉「メタノイア」というのは、実際の道徳的な行いの改善よりは、より精神的な意味で、「心が神のほうに向き直る」というような意味を指しています。
  もっとも、いくら心で悔い改めているつもりになっていたり、口先だけで「わたしは悔い改めました」と言っていても、実際の行動が伴わなかったりしたら意味が無いじゃないか、という考え方もできますよね。
  だから、たとえば
ヤコブの手紙2章14節には「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」と書いてあります。
  
マタイによる福音書にも、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない、わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(7章21節)と書いてあります。
  「わたしの心は悔い改めて、神に向かっています」と、いくら口先で言っていても、じっさいにそれにふさわしい行動が伴っていなかったら、何の意味があるんだ、というのはしごく全うな考えです。

「悔い改め」は「赦し」の条件じゃない

  ところが、実は聖書には、そういう人間の常識的で全うな考えを越えたことが「福音」として語られております。
  まぁそこが、最初に申し上げました「宣教」の第1段階(ヨハネの宣教)と第2段階(イエスの宣教)の違いでもあるのですが。
  たとえば、行いが伴わなければ、そんな悔い改めに意味は無いだろうという考え。洗礼者ヨハネは
マタイによる福音書「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3章8節)と言ったことになっていますし、今日わたしたちが読んだマルコによる福音書でも「罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた」(1章4節)と書いてあるので、悔い改めることは、罪の赦しの条件なわけです。
  ところが、イエスは「悔い改めないと、罪の赦しはないぞ」とは言わない。そうじゃなくて
「神の国が近づいたんだから、悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)、つまり、悔い改めたら神の国に入れるよというのではなくて、神の国のほうから近づいてくるよ、というわけです。そして、先ほども申し上げましたように「悔い改め」というのは、何も悪いことをしたから反省しなさいというのでもないし、「罪」というのも悪いことをしたことを指すのではなく、基本的には「神から離れている」ということが「罪」と呼ばれているのですから、要するにここでイエスが言っているのは、「神の国のほうから近づいてくれているんだから、神のほうに180度心を向けなおして、自分は神に赦されているという『良い知らせ』を信じなさい」ということなわけです。

神に心を開いただけで

  特にルカによる福音書は、神がいかに気前良く人を赦し、義なる人として認めるかということを「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」で語っています(18章9−14節)。ちょっとわたしが読んでみます。
  
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」
  この徴税人は確かに神に心を開いて「わたしを憐れんでください」と呼びかけましたが、別に「徴税人をやめます」ともなんとも言ってないわけです。徴税人は彼の仕事であり、生きる糧を得る生業(なりわい)ですから、簡単に辞めるわけにはいかなかったでしょう。それでも、彼は神に「義とされている」わけです。
  「義とされる」とは、神とのあるべき関係に入れてもらえる、神に正しい者として認めてもらえるということですが、徴税人という仕事:ローマ帝国という占領国に上納するための税金を集めるという、軍事大国の手先。しかも一般市民から多めに巻き上げれば巻き上げるほど、大きく利ざやを稼ぐことができるというヤクザ稼業、しかし下っ端の徴税人だと、たとえばザアカイみたいな「徴税人の頭」と呼ばれるボスに上前をはねられて、なかなか金持ちにはなれない。それでますます親分に隠れて人を脅したりゆすったりして金を巻き上げようとするという、まぁチンピラ稼業をやっているのが多くの徴税人なわけです。その徴税人が、その仕事をやめないままで、神に義と認められている。
  同じく
ルカによる福音書には、有名な放蕩息子のたとえも記されていますが、これにしても、遺産を食い潰してにっちもさっちも行かなくなってしまった息子が帰ってくると、親父は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15章20節)とある。まずは父親が走ってきて、すでにこの放蕩息子は赦されている。
  あとからこのドラ息子は
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(21節)と告白するのですが、あくまでお父さんが赦してくれたというのが先にあって、この反省があるわけです。
  こういうのは、まともに努力して働いている者からすると、腹の立つ話ですよね。この放蕩息子の話でも、ドラ息子のお兄さんが怒ります。
  
マタイによる福音書では、ぶどう園の主人が、朝から働いていた労働者が、5時にのこのこやってきた人も同じ賃金をもらっているのを見て、不公平だと怒ったのに対して、「わたしの気前のよさをねたむのか」(マタイ20章15節)と言ったりもしているように、神さまが人間を認めてくださる基準というのは、まじめに生きようと努力している人が馬鹿らしくなるほど、気前がよくて寛大で甘いわけです。
  そういうめちゃくちゃに寛大で気前がよい、神さまからの関係回復の
「良い知らせ」を、イエスは「福音」と言ったわけですね。
  そしてそういう気前のよい「福音」を、人に知らせてゆくのがイエスの「宣教」だったわけです。洗礼者ヨハネが宣教した、条件つきの救いではなくて、ただ人が神に心を向け始めている、神に立ち返ろうと願って心を開き始めている、それだけでもう悔い改めは成り立っているんだよ、と。
「条件なんかいらない、とにかく神はおまえを愛しているんだ」という「良い知らせ」を伝えること、それが「宣教」なわけです。

どこから、誰に向かって

  ここでさらに、ヨハネやイエスが、どのような場所から、どのようにこの「福音の情報発信」をしていったのかを考えてみましょう。
  洗礼者ヨハネは、ご存知の通り、ユダヤ地方の南の辺境である岩砂漠の荒れ野で、人びとに呼びかけました。
  彼は、エルサレムの神殿を拠点として生きているユダヤ教の主流派の聖職者たちと違って、まったくの異端児でありました。
  イエスも最初はヨハネから洗礼を授けられたヨハネの弟子として活動していましたが、やがて、故郷のガリラヤ地方を中心に独自の活動を始めました。
  ガリラヤ地方は、イエスの故郷に近い地域ではありますが、エルサレムから見れば、これは北の辺境。ただし、エルサレムから見ればということであって、確かに方言もきついですが、豊かな農産物、ガリラヤ湖の魚の加工品などが、ローマ帝国内での貿易用に売り買いされ、ローマ風の建造物もあちこちに建ち、人の行き来は活発で、要するに活気のある地方都市といった感じでしょうか。
  そのためではありますが、ここに住むユダヤ人たちは、ユダヤ人以外のあらゆる人種の商人たちと触れ合う機会が多いわけで、そういう土地柄から、ユダヤの首都エルサレムの神殿の聖職者たちは民族主義的な観点から、このガリラヤを、ユダヤ以外の宗教や文化が入り混じる不純で汚れた土地だ、と蔑んでいたわけです。
  砂漠か、あるいは第一次産業が盛んな地方の小都市か、その違いはあるにせよ、ヨハネもイエスも当時、自分たちの同朋であるユダヤ人がみなその中で生きていた宗教:ユダヤ教の中では異端児で、主流派や権威と見なされていた聖職者たちから最も遠い場所から、自分の宣教を始めています。
  ただ、ヨハネとイエスが違うのは、ヨハネが荒野で「みんな俺のところにやってきて、俺から洗礼を受けろ」と言ったのに対して、イエスのほうは、自分から様々な人を訪ねて、旅してまわったということです。
  
「ほかの町や村に行こう。そこでもわたしは宣教する」(マルコ1章38節)と言ってイエスはガリラヤ中の会堂を回り、さらには「向こう岸に渡ろう」(4章35節)と言って、舟にのってガリラヤ湖を渡って、対岸のゲラサ地方に出かけて行ったりするわけです。
  そしてイエスがもっぱら出会い、癒していった人びとというのは、誰からも見捨てられて相手にされず、墓場に住んで暴れたり、自分の身体を傷つけたりするような精神を病んだ人であったり
(5章1−20節)、汚れた者として街の中に入ることを禁じられた重い皮膚病の患者であったり(2章40−45節)、先ほど出てきた徴税人のようなチンピラであったり、「罪の女」と呼ばれるような娼婦であったりしたわけです。
  そういう人たちのところに、イエスは自分から出かけてゆく。会いに行く。いっしょに食事をし、酒を飲み、笑う。
  そしてイエスは言う、
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あの聖職者と呼ばれている連中より先に神の国に入るだろう」(マタイによる福音書21章31節)と。
  神殿の祭司や長老たちといった聖職者に対して、「天国に入るのはおまえさんたちじゃなくて、チンピラや風俗のお姉さんだよ」と言い切ってしまうわけです。

宗教からの解放

  やや乱暴なまとめ方をすると、先ほどの徴税人や娼婦や病人といった人たちは、ひとくくりに、神の祝福から外れているとされていた人たち、神に呪われるだろうと言われていた人たち、神から罰せられるだろうとされていた人たちです。
  言うなれば、宗教によって呪われていた人たちだったわけです。イエスの宣教は、そんな宗教による諸々の呪いから、この人たちを解き放った。イエスの福音の実体は、実は宗教の呪縛からの解放だったわけです。
  「宣教」というと、まるで神を信じていない人に対して、神さまのことを宣べ伝えるかのような印象を私たちは持ってしまいがちです。
ところが、イエスが生きていた時代、社会において、神はいないなんて思っていた人は一人もいなかったのであって、みんな神さまはいると思っている。神さまはいるのが当たり前。
  そこでイエスが宣教の対象としたのは、そのような神さまに裁かれるんじゃないか、自分は地獄に落ちるんじゃないか、と当時の宗教体制によって縛られ、裁かれていた人たちだったわけです。
  そういう人たちにイエスは、
「いや違う。真理というのは人間を自由にするものだ」(ヨハネによる福音書8章32節)と言って、あくどい宗教的脅しから解放しようとしたわけです。
  そして、ずいぶん話が遠回りになりましたが、「宣教」の第3段階:イエスに癒された者が、自らイエスのことを宣べ伝えるようになる段階。これが本当にいま私たちの担うべき課題なのかもしれませんが、イエスによって、宗教的な罰とか呪いから解放され、自由に生きてよいということを知った人間が、同じように自由に生きてよいのだ、ということをさらに他の人びとに告げ知らせてゆくわけです。
  神の呪いや罰など一切の裁きを恐れない生き方。それは、イエス当時やその後の時代においては、とんでもない神への冒涜だと受け止められました。だからこそイエスも、イエスに続く者の多くも迫害され、殉教の死を遂げましたし、事実、初期のクリスチャンは、迫害する者たちの間で「無神論者」と言われていたという記録も残っています。

「良い知らせ」を持って、出てゆこう

  さて、そういうわけで、新約聖書に描かれている「宣教」とは、宗教の主流派や権威から離れたところから出発し、そのような宗教の教えによって裁かれざるを得なかった人のところに出かけて行き、「神は決してあなたを裁かない」、「呪いも天罰もないんだよ」と宣言し、「本当に神に愛されているのはあなただ」と告知し、自由に生きてよいのだということを教えてあげる。そしてそのメッセージ、その「良い知らせ」を信じることができた者が、さらに他の人に同じメッセージを伝え、そうやってどんどん人間の心は解放されてゆく。そういうものです。
  「宣教」とは、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、何らかの宗教に勧誘する目的をもってするものではない。キリスト教の信徒を増やしたいからという宣教は実はありえない。
  教会に人を呼んでくる、というのも、ヨハネ型の「おまえたち、こっちへ来い」なのであって、これはイエスの宣教ではない。イエス型という宣教のタイプがあるならば、それは「教会に人を集める」ではなくて、
「教会から出て行って」、いちばん人から裁かれている人のところに出かけてゆき、会って、自ら隣人になりに行くという行動パターンになるはずなのです。
  たとえその宣教のわざがキリスト教の信仰に基づく良心から出たものではあっても、決してキリスト教の中に相手を招き入れようなどということは第一目的ではありえず、
ただその人が自由に幸福に生きてゆくことを願って、その人を愛し、癒し、励ますという行為に集中してゆく。
  そして、「おまえはなんでそんなに一生懸命に尽くすのだ」ともし問われたら(問う人は少なく、むしろあざ笑う者のほうが多いでしょうが)、その時はにっこり笑って、「いえ、だってわたしはクリスチャンですから」。
  それで充分、なのです。
  それが宣教、なのであります。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  本日、ここに石橋教会の方々と共に、宣教について考え、思い巡らせる機会となる礼拝の場をお与えくださり、心から感謝いたします。
  この世にある全ての教会が、あなたの御心にかない、地域の人々や、あるいは地域を越えたつながりをもつ人々に対して、しっかりと仕えることによって、あなたの愛を明らかにするものでありますように。
  心からあなたの導きを願い求めます。
  この感謝と願い、イエス・キリストの名によってお聴き下さい。
  アーメン。

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