大きなやすらぎの輪の中へ

2003年12月24日(金)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマスイヴ音楽礼拝説教

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

■聖書:ルカによる福音書 2章8−14節(新共同訳・新約・p.103)

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」

■聖書:エフェソの信徒への手紙 2章14−18節(新共同訳・新約・p.354)

  実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人びとにも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

「遣わす……」

  わたしは、クリスマスは、「神さまが独り子をこの世に遣わされた日です」という教えを聞くたびに、戦場に派遣される子どもを持つ親の気持ちはどんなだろうと考えます。
  神さまはイエス・キリストを、暴力と罪に満ちたこの世に送られ、この世で十字架につけられ、殺されるために派遣しました。いま、多くの若い自衛隊員が、米軍の武力行使とテロリストの攻撃にさらされた戦場に派遣されかけており、彼らは殺されるかもしれません。
  神さまはキリストを、武装した軍人ではなく、貧しい大工のせがれとして派遣し、「平和の君」としましたが、自衛隊はたくさんの武器を携えた軍隊として派遣されます。
  大切な人を危険な場所に送り込む心の痛みは、神さまも人間も同じでしょう。
  しかし、平和を作り出すために行う、人間の計画と神の計画は、いかに違うことでしょうか。

荒々しい時代

  イエス・キリストが生まれたのは、今からおよそ2000年前のユダヤ地方です。
  そのころ、当時の世界では最大の支配圏と最強の軍事力を誇るローマ帝国が、その軍事力で各地の反乱を押さえ込んで、安全保障を確立しようとしていた時代でした。
  武力によって確立された平和のことを、当時の人々は「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼びました。
  ここから、同じように現在、武力による民主化、武力による平和造りを推進しようとするアメリカ合州国のやり方を指して、「パックス・アメリカーナ」と呼ぶ人もいます。
  しかし、パックス・アメリカーナが、実際には各地の反乱を抑えきれず、戦闘を泥沼化させてしまっているのと同じように、2000年前のユダヤ地方でも、小規模の組織的な、あるいは組織的ではない抵抗運動、つまり今風に言うと「テロ活動」が頻繁に起こり、死者もたくさん出ていました。
  イエスが育ったガリラヤ地方というところは、実はそのような反ローマ抵抗運動の根拠地でもありましたし、イエスの弟子の中に熱心党のシモンというのがおりましたが、この熱心党というのも反ローマのテロ組織のひとつです。
  イスカリオテのユダという弟子もおりましたが、イスカリオテというのは「シカリ党」という、これも当時のテロ組織のひとつではないかと推測する説もあります。この推測を進めて、イスカリオテのユダは、反ローマのテロ活動のリーダーとなるべきリーダーシップをイエスに期待していたが、その期待が裏切られたからイエスを売ったのではないか、という仮設も存在しているくらいです。
  その仮説が正しいかどうかを証明する証拠はありませんが、少なくとも確かなことは、イエスが生きていた時代は、武力によって世界を平定しようとする大国と、そのような大国の思惑通りになってたまるかと抵抗していた地域の人びとの、流血を伴う衝突が日常茶飯事に身近で行われていた時代であり、場所であった。イエスがそのただ中で生きていたということであります。

侵略者の宗教

  2年前の9月11日、2機の旅客機が乗客もろともニューヨークの高層ビルに突っ込んで以来、アフガニスタン空爆、イラク攻撃と続くアメリカの戦争は、一部で「アメリカ文明とイスラーム文明の衝突」という論調で報じられていました。
  最近は、そのような宗教戦争ではなく、「これはブッシュの石油利権のための戦争だ」、あるいは「いや、これはイラクを独裁者から解放して、自由と民主化を確立するための戦争だ」などと論議されるようになりました。
  わたし個人は、いくらアメリカの大統領が「毎朝、聖書を読んでいる」とか「ホワイトハウスで聖書研究会をやっている」と主張したところで、あの人の本音はやはりカネほしさであろうと思っています。
  しかしわたしたちは、たとえ政治家が、宗教的理由ではなく欲望のために戦争を命令しているのだとしても、その背後には、宗教的理由で戦争を支持している者がたくさんいることを覚えておかねばなりません。
  なぜ大統領が自分のキリスト教信仰を厚顔無恥に吹聴するのか。それは、そうすれば票が集まるからであり、戦争を支持するクリスチャンがアメリカ国内にたくさんいるからです。
  今回のイラク攻撃以前からも、湾岸戦争以来、米軍はほぼ毎週イラクへの空爆を続けてきました。この空爆と湾岸戦争のときに使われた劣化ウラン弾のために、子どもだけでおよそ50万人が死に、今も劣化ウラン弾の放射能の影響で、奇形児が生まれ続けています。そういう戦争を、「正義の戦争」と信じ、9.11に対する報復を「『目には目を』と旧約聖書に書いてあるではないか」と言って支持するクリスチャンがたくさんいるのです。
  そして同時に、そのようなクリスチャンの心の中には、かならずキリスト教以外の宗教への偏見、特にイスラーム世界に対する差別意識が潜んでいます。
  イスラームにはイスラームの世界観、人間観、生活観、人生観、死生観、道徳観、美学、文化、学問、生き方などなど……そういったものがあります。そのことを知らない、そして尊重できないから、平気で「われわれが彼らを解放してやる」とか「彼らのために」などと横柄なことが言えるのでしょう。

シャローム

  聖書では「平和」をあらわす言葉は「シャローム」と言います。古来、イスラエル人やユダヤ人が挨拶の言葉としても用いてきた、ヘブライ語の単語です。
  この「シャローム」は、単に戦争のない状態を指すだけではありません。無事であること、安全であること、暮らしも心も平安で、安らかであること、安心して生きていられること、健康であること、人間同士が仲良く和解できていること、などなどを指します。
  何も欠けていない、何もそこなわれていない、完全に充足した状態。それが「シャローム」。
  暮らしも心も安心に満ちていて、人々は仲良く、社会は福祉に厚い。それが「シャローム」な状態です。
  そして何よりも、「シャローム」は、「この地球上のどのような人間でも、自分も他人も全て、みな一人ひとり神さまに愛された子どもなのだ」ということを確信することから、互いを愛し、尊重しあうことによって実現される平和を意味しています。
  ですから「シャローム」は、神さまの愛が無視され、特定の国家、民族、あるいは特定の宗教の人びとが力で抑えつけられることで保たれるような、見せかけの平和のことを言うものではありません。
  むしろ、そのような見せかけの平和を打ち砕く力さえも、聖書の中では「シャローム」と呼ぶことがあるくらいなのであります。

やすらぎ

  「シャローム」を「平和」という日本語に訳すことが、軍事バランスによる平和をも含むように誤解されるのであれば、「平安」という言葉、あるいは、もっとやわらかく「やすらぎ」と訳したほうがよいかも知れません。
  そして、ヘブライ語の「シャローム」と、アラビア語の「サラーム」は、同じ語源を持つ、同じ意味の言葉です。
  ユダヤ人は「シャローム」と挨拶をします。イスラームの人びとは「アッサラームアライクム」と挨拶をします。これは「あなたに平和/平安がありますように」という意味です。
  「イスラーム」という言葉自体の語源が「サラーム」:平和です。本来イスラームは、平和、そして安らぎの宗教だということです。
  そして「エルサレム」という地名はヘブライ語の「イェルーシャライム」:「平和の基礎」という意味で、「イェルーシャライム」の「シャライム」の語源が「シャローム」です。
  それらの平和は、すべて「やすらぎ」のことです。この世にあるすべてのものが安らぎの中に共存している状態、それが、シャロームあるいはサラームです。やすらぎのない平和は、神が聖書の言葉を通して教えてくださっている完全な平和とは違うものです。

天に栄光、地に平和

  なんのために神はこの世を造られたのでしょうか?
  全ての人間は神の作品です。その神の作品が互いに合い争うことを、神が喜んでおられるでしょうか。
  他者の批判だけではなく、自分の胸に手を当ててよく考えて見ないといけない。私たちは、自分が「正しい/義しい」と思うことのために他者を否定すると言うことを平気でしていないでしょうか。
  自分が争っている相手が、憎んでいる相手が、自分と同じように神の作品であることを忘れてはいないでしょうか。
  聖書には、今から2000年前の中東の小さな村にイエス・キリストが生まれたとき、大国の政治家が武力を行使し、抵抗者たちが血を流し続ける中で、ただ傷つき奪われるばかりだった羊飼いたちのところに、天使の大群が現れて神の栄光であたりを照らした、と書かれています。
  それは、暗闇と混沌の中に「光あれ」と言われた天地創造の様子と似ています。そこには、もういちど世界を造りなおそうと呼びかける神の思いがあらわれているようです。
  天使たちは、
  「栄光は天の神に、地に住む人々には平和を」(ルカによる福音書2章14節より)
  と歌いました。
  栄光を人間のものではなく神のものとし、互いをやすらぎの輪の中に迎え合うことで、わたしたちは神の目指す完成に向けて、この世界を造り上げてゆくお手伝いをすることができます。
  ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、これらは本来はみな、同じ神を礼拝をする兄弟姉妹のような宗教です。そのことさえ互いに確認できれば、わたしたちは世界を覆うこの三大宗教につながる30億人以上の人びととともに、同じ神さまのもとに、大きな「シャローム」/「サラーム」の輪の中につながっている喜びを分かち合うことができるのです。
  そういう意味では、キリストにつながっている人びとは、本来はこの大きな世界を覆うシャロームの輪を確認することにできる、恵まれた人だということになります。
  いま、敵意と恐怖が当たり前のように喧伝されている時代だからこそ、キリストにつながる者は、「やすらぎ」の大切さを宣べ伝えなければなりません。
  わたしたちに必要なのは、力で力を制する強さではなく、荒々しい力に対して、あえて「やすらぎ」を唱える魂の強さなのではないでしょうか?
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  荒々しいこの世の中で、ここに集う私たちが、おだやかなクリスマスの礼拝をともに守ることができています恵みを感謝いたします。
  あなたがあなたの御子イエスを、荒々しい世に平和の君としてお送りくださったように、わたしたちをも平和の道具として用いてください。
  力による平和ではなく、真のやすらぎをもたらす勇気を与えてください。
  キリストを信じる者を、いかなる暴力への誘惑にも屈しない、やすらぎを証する者として、この世に派遣してください。
  この祈りを、愛する主イエス・キリストの御名によって、お聞きください。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール