がんばらない、気にしない、裁かない

2008年8月10日(日) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会聖日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:コヘレトの言葉 7章15~22節 (新共同訳・旧約)

 この空しい人生の日々に
 わたしはすべてを見極めた。
 善人がその善のゆえに滅びることもあり
 悪人がその悪のゆえに永らえることもある。
 善人すぎるな、賢すぎるな
 どうして滅びてよかろう。
 悪事をすごすな、愚かすぎるな
 どうして時も来ないのに死んでよかろう。
 一つのことをつかむのはよいが
 ほかのことからも手を放してはいけない。
 神を畏れ敬えば
 どちらをも成し遂げることができる。
 知恵は賢者を力づけて
 町にいる十人の権力者よりも強くする。
 善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。
 人の言うことをいちいち気にするな。
 そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。
 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。

コヘレトの言葉

 旧約聖書のコヘレトの言葉という書物は、聖書全巻のなかでも異彩を放つ文書です。
 一応、「知恵文学」、「知恵の書」という風に分類はされていますが、たとえば同じ知恵文学でも「ヨブ記」のように、どんなに苦しい試練があっても、神の深い意図が隠されているのだから、神を信頼して最後まで生きよう、神は幸福を与えてくださるのだから、不幸をもいただこうではないか、と教えるような立場とは正反対の印象を与えます。
 コヘレトの言葉は、その出だしから、ふだんの私たちの抱きがちな聖書の印象とはかなり違う言葉から始まります。コヘレトの言葉第1章1節より……

 「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
 コヘレトは言う。
 なんという空しさ。
 なんという空しさ、すべては空しい。
 太陽の下、人は労苦するが、
 すべての労苦も何になろう」(コヘレトの言葉1章1〜3節)

 ……聖書の中に、「すべては空しい」と書いてある。聖書によって満たされたい、聖書を読んで希望を見つけたい、と思っている人を拒絶するような言葉です。
 コヘレトというのは聞き慣れない言葉ですが、ヘブライ語で「集会で語る者」という意味です。それで、以前の聖書(協会訳/口語訳)では「伝道者」「説教者」と解釈され、「伝道の書」と呼ばれたりもしていました。

すべてに時がある

 他にもこんな聖句がよく知られています。3章の1節からですが……

 
「何事にも時があり、
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒す時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時」(コヘレトの言葉3章1〜8節)


 このような言葉を読む時、私たちは、人生に起こるさまざまな出来事に一喜一憂するのではなく、全ては神が与えた時の中にあって移り変わってゆくものなのだ、と冷静な平常心を保つこともできますし、落ち込むことがあっても、またそこから這い上がる時を神が与えてくださるのだ、と大きく構えることができます。
 「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざも日本にありますように、幸福だからといってはしゃぐ事もなく、かといって不幸の中にあっても自暴自棄になることもなく、すべては隣り合わせで起こる事なのだ、ととらえる見方が示されています。
 いつ、どんな時でも、信仰さえあればハッピーに生きられるというわけではありません。辛いときも、苦しいときもあるし、理不尽だと思う出来事に出くわすときもあります。しかし、「現実というのはそういうもんだよ」と、突き放すわけではなく、共感してくれるのがコヘレトなのであります。

青春の日々にこそ神を知れ

  そして、ことに知られているのは、12章1節にある……

 
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」

 ……でしょう。
 「若いうちに神さまのことを知るようにしなさい」と言っていますので、よく学校や教会学校などでポスターなどに使われたりすることが多い聖句ですが、前後も含めて読みますと、前の節には
「若さも青春も空しい」(11章10節)とあり、後のほうには「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」(12章1節後半)とあります。
 若さも青春も永遠のものではない。また、歳をとってしまってから、神を知ることは難しい、神を素直に信じるのも若いうちのことだ、といった冷めたものの見方が反映されているようにも思われます。
 このように、コヘレトの言葉は、多くのキリスト者がつい「……せねばならない」あるいは「……してはならない」的な生き方に傾倒しがちなのに対して、一種「脱力系」といいますか、冷や水を浴びせるといいますか、少し斜に構えたようなものの見方で、理想主義ではなく、現実的に生きる処世術のようなものを説いて聞かせます。

人の言うことを気にするな

 本日は、コヘレトの言葉7章15〜22節のひとまとまりを主題聖句としてあげさせていただきましたが、なぜここを選んだのかと言いますと、聖書をめくっていて、目に飛び込んできた言葉に、非常に惹かれたからです。それは7章21節の「人の言うことをいちいち気にするな」という言葉です。
 
「人の言うことをいちいち気にするな」。
 聖書にこんな言葉があるんですね。たいへんうれしく思いました。
 15節から見て行きますと……
 
 
「この空しい人生の日々に
 わたしはすべてを見極めた。
 善人がその善のゆえに滅びることもあり
 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
 善人すぎるな、賢すぎるな
 どうして滅びてよかろう。
 悪事をすごすな、愚かすぎるな
 どうして時も来ないのに死んでよかろう」(7章15〜17節)


 ……ここに説かれているのは、いわば「中庸の徳」といったことです。善にしろ、悪にしろ、何事も極端に偏った日々の過ごし方はよくない、ということです。善人だったからといって、その報いが喜ばしいとは限らない。しかし、開き直って悪人になったところで、大してうれしい人生にもなりませんよ、というわけです。18節以降……

 
「一つのことをつかむのはよいが
 ほかのことからも手を放してはいけない。
 神を畏れ敬えば
 どちらをも成し遂げることができる。
 知恵は賢者を力づけて
 町にいる十人の権力者よりも強くする」(7章18〜19節)


 ……ひとつのことに自分の人生をかけてしまう熱心な生き方が、コヘレトにとっては必ずしも立派な人生とはいえないようです。人生の現実は、あれもこれも気にかけなければいけないことはたくさんある。「あれか、これか」、「100か、0か」という生き方はやめておきなさい、というわけです。そして20節以降……

 「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。
 人の言うことをいちいち気にするな。
 そうすれば、僕(しもべ)があなたを呪っても、聞き流していられる。
 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心は知っているはずだ」(20〜22節)


 これは皮肉なユーモアです。あなた自身も何度となく他人を呪ったこともあっただろうけれど、だからといって何の危害も相手に与えることはできなかったでしょう、と。だから、あなたのことを誰かが呪っても、あなたには何の危害も起こりませんよ。ですから安心して、人の言うことなんか気にしないでいいんですよ、と。こういう言葉が聖書に書いてあるということは、ありがたいことだなぁと思います。

うつ病の日々

 話は変わって私事になりますが、私は実はここ3年以上、うつ病と社会不安障害の治療を続けています。
 うつ病というのは、気分障害とも言いますが、暗く沈んだ精神状態から抜け出せず、何に対してもマイナス志向、「自分という人間はいなくなってしまったほうがいいんだ」、「死んでしまったほうがいいんだ」という気持ちのなかに埋もれてしまい、うずくまったまま何もできなくなってしまうような心の病気です。
 日本では自殺者が非常に多く、うつ病についての理解も少しずつ広まってきているようですが、それでも「しょせんは精神的なことでしょ」とか、「気合が足りないんじゃないか」、「さぼっているんじゃないか」という偏見や軽視もよく見られます。しかし、これは脳神経に関わる病気でして、本人としては、「さぼっている」といわれようが、「気合でなんとかなるはずだ」と言われようが、暗く落ち込んだ心をどうにもできず、誰にも理解されないまま一人で苦しまざるをえません。
 もうひとつの社会不安障害というのは、うつ病と併発することが多いのだそうですが、人と対面するような場面、大勢の人の前で話すような場面に直面すると、たいへん大きなストレスを感じ、自分は嫌われているのではないか、自分は嘲笑われているのではないか、という気持ちで心がいっぱいになり、いても立ってもいられなくなる、という心の病気です。人前に立って話をしたり、授業をしたりする仕事にとっては致命的です。しかし私は、この病気にかかってから2年間は、自分の研究室でグッタリしたまま動くこともままならず、授業の時間が来ると、死地に赴くような悲壮な覚悟で教室に向かっていました。毎日毎日、一日の終わりには「今日もなんとか生き延びた」と思い、イエスの言葉
「明日の事まで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイによる福音書6章34節)に慰めを見いだす日々でした。
 いま、こうしてみなさんの前で立ってお話ししておりますと、みなさんには、とても私がそんな風には見えないと思います。けれどもそれは治療の成果でありまして、最近はずいぶんよくなりました。しかし、薬はけっこうな量を今も飲み続けています。

弱さの情報公開

 この病気にかかった最初の頃は、激しく自分を責めました。「こんな病気にかかるのは、自分の心が弱いからだ」とか。自分でも「自分はサボり癖がついてしまったのだろうか? これから先、こんな状態で仕事を続けていけるのか」とか。しかし、気合をしぼり出そうとしてもダメなのです。その上、根拠もなくわきあがってくる「死にたい」という感情を消すことができません。「自分は死んでしまったほうがいいようなダメ人間になってしまったんだ」と自分を責める毎日でした。
 そんな折、「べてるの家」という、精神障害者の作業所のことを教えてくれた人がいました。
 「べてるの家」というのは、北海道の浦河町というところにあり、浦河教会の旧会堂から始まった共同作業所です。もう30年近くにもなる歴史があるのですが、昆布の袋詰めやだしパック、おつまみ昆布、あるいは介護用の紙オムツなどの販売などを通して、精神障害者が社会進出してゆけるよう、数々の事業を起こしてきて、全国で話題になっているところです。
 「べてるの家」の「べてる」というのは、ドイツに実際にある精神障害者の施設が集まった村の名前で、第二次大戦中は「障害者は優秀なるわが民族の恥であり、国家の発展に役立たない。したがって処分する」と毒薬の注射を持ってナチスの将校たちがやってきたそうです。しかし、村の医師たちは「そういうことなら、まず我々から注射を打ってもらおう」と腕をまくってさしだして、その気迫に軍人たちは何もせずに帰っていった、という逸話が残っているそうです。そのベテルという村の名前にちなんで、「べてるの家」という名前が作業所につけられています。
 べてるの家には、およそビジネスには向いていない人ばかりが集まっています。多くは統合失調症の人なのですが、常日頃から幻覚や幻聴に悩まされ、妄想がわきあがり、爆発することもあって、人間関係を結ぶことも難しく、大きな生きづらさを抱えてやってきた人たちばかりです。
 有能で、迅速な行動が取れる人ほどビジネスに向いていると普通は思われるのですが、そこに集まった人たちは、およそそういうのには当てはまりません。ですから、朝の作業開始のミーティングでは、自分の弱い部分を隠さずに情報公開することから始まります。
 「今日はちょっと調子が悪いから、昼寝をしたい」とか、「今日はちょっとましだから、一日働ける」という風に、自己申告します。ここでごまかしや強がりを言ってしまうと、結局全員に迷惑をかけることになるので、みんな自分の弱さを隠しません。
 こんなことから「弱さの情報公開」とか、「今日も順調に問題だらけだね」とか、「いい落ち方をしてきたね」とか、「安心して絶望できる人生」とか、べてるからはそういった言葉が発せられてきました。常に向上を目指す生き方が世の中では良しとされるのですが、この「べてるの家」では「降りてゆく生き方」ということが言われます。ここには「私は弱い人間だ」ということが自然に受け入れられる場所があります。

弱いままで生きる

 この「べてるの家」には、全国や海外からもたくさんの見学者・訪問者がやってくるそうです。私自身は実際には行ったことがありません。しかし、「べてるの家」関係の本を何冊か読むうちに、「弱い人が弱いままで生きる場所を手に入れる」ということに、魅力を感じるようになりました。
 以前の私は、ただひたすらに、がむしゃらに、人の3倍も5倍も仕事をして、自分のことを周囲に認めさせなければ、という思いにとりつかれて、激しく働く人間でした。最初の就職のときもそうでしたし、現在の職場でも、中途採用ですから、「即戦力にならなければ」と、人の3倍努力するつもりでがんばっていました。
 心のどこかで「ものすごいことをしろ」、「ものすごいことをしないとだめなんだ」という言葉が、幻聴のようにこだまして、それに追いたてられるように仕事をしていました。
 しかし、うつ病という一種の精神障害になって、思い通りに自分を動かせなくなってしまって、最初は落ち込み、自分を責めていたのですが、自分よりも重い精神障害を持った人たちが、弱さを隠さずに人生を生きているべてるの様子を知るようになり、次第に、本当は以前の自分のほうがおかしかったのかも知れない、うつは自分の限界を教えてくれていたのかもしれないと考えるようになりました。
 私は無理をしすぎていました。無理をして、無理をして、どんどん仕事を引き受けてこなし、去年よりも今年のほうが忙しい。来年はもっと忙しくなる、ということを——こっちのほうが病的かもしれませんが—-喜んでいました。
 がんばっていたときには、人を裁くことも多かったように思います。仕事のできない人間を責め、自分の仕事の仕方を認めない家族にも怒りを向けたことがありました。私の家族はいい迷惑だったと思います。
 今頃になって、今更のようにではありますが、家庭内の平和というものを大切にできるようになりましたし、仕事もほどほどにできることを、できる範囲で、できるスピードでやろうと思うようになりました。
 まあそうはいっても実際には締め切りも相手もある仕事なので、そう手は抜けないのですが、しかし、別に「ものすごい」仕事をしなくても、地道に目立たない仕事をゆっくり、しっかりするのも大事なことだな、と思うようになりました。
 また、思い通りに自分が動けなくなってみると、同じように苦労している人のことが見えてきます。そこから転じて自分のことを考えると、こんな自分でもまじめになっている限り、見てくれている人は見てくれているものだということもわかりました。
 また、もし誰もわかっていなくても、神さまは私がサボっているわけではないことを知ってくださっている、とも思うようになりました。

がんばらない、気にしない、裁かない

 そんな、これまでとは違うライフスタイルを求めていた私の目に飛び込んできたのが、この「人の言うことをいちいち気にするな」(コヘレトの言葉7章21節)という聖句でした。聖書にそんな言葉が記されているなんて、おかしくて笑ってしまいました。
 がんばれないときには、がんばらなくてよい。
 人の言うことをいちいち気にしない。
 自分のことを許すのだから、もちろん人のことは裁かない。
 そうやって弱さを互いに認め合いながら、優しい気持ちで生きてゆく。
 そういう生き方もありなのではないかなぁと思います。
 お祈りしましょう。

祈り

 私たち一人ひとりに命を与えてくださっている神さま。
 私たちを愛してくださっているあなたに心から感謝いたします。
 私たちが己の強さだけにより頼むのではなく、自らの、そして自分以外の人間の弱さをも受け入れて、あなたの愛のもとに生きることができますように、どうか私たちに豊かな優しさを与えてください。
 主の御名によって祈ります。
 アーメン。

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