自由なる者よ、志を抱きたまえ

2006年3月19日(土)関東学院中学校・卒業礼拝奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 7章7−11節(新共同訳)

  求めなさい。そうすれば、与えられる。
  探しなさい。そうすれば、見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
  だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
  あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
  魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
  このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

ごあいさつ

  はじめまして。私は関西にあります同志社、その同志社の中でも5ヶ所に別れている中学校高等学校のひとつである、同志社香里中学校高等学校から、ことしのみなさんの卒業礼拝にお招きいただきました、聖書科の教諭をしている富田と申します。
  関東学院中学校をご卒業されるみなさん。ご卒業おめでとうございます。
  多くの人は同じ関東学院の高校に進学されると聞きました。ですから卒業という感覚はあまり強くなくて、ひとつの終業式の特番みたいな感じに思っている人も多いんじゃないかと思います。
  なんでそんなことを言うかといいますと、うちの学校の生徒もわりとそういう感覚だからです。今日の日でお別れになるんじゃない、どうせ4月からまた同じこの学校に通うんやから、と思って、卒業という実感はないのです。
  ところが、みなさんがそう思っているかもしれない一方で、社会的にはみなさんの身分はいままでと全く違ったものになる、ということを今日はみなさんに分かっていただきたいな、と思っています。

自由に学ぶとは

  まず、義務教育はこれで終わりです。
  義務教育とは大人が子どもに教育を施す義務がある、ということです。だから、これまではみなさんが望むと望まないに関わらず、大人はあなたがたに教育を施す義務があるために、親やいろんな先生が一生懸命にあなたがたに教育を施してきたはずです。
  しかし、来月の4月からは、義務教育ではなくなります。大人はあなたがたに教育を施さなければならないという義務がなくなります。つまり教育は「義務」から「本人の自由」に変わります。
  もちろん高校には高校のカリキュラムがちゃんとできあがっていて、あなたが学校に来る限り、そのカリキュラムどおりにいろいろなことを先生は教えてくださいます。
  しかし、高校では先生が生徒に教えるのは「義務」ではないのです。
  そこに必要なのは、あなたの「自由意志」です。
  義務教育を卒業したら、そこから先は、自分の意志で選んでこの学校に来ているのだ、と見なされるということです。いやだったら来なくていい。来ているということは、やる気があるということだ。そう思われることになります。
  誰もあなたに「学校に行きなさい」と強制する権利はありません。もちろん「行きたくないよ」ともしあなたが言えば、「行きなさいよ」と周りの大人は言うでしょう。でもそれは愛情から言っているのであって、本当は法的には誰もあなたを学校に通わせることを強制する権利はないのです。
  ということは、高等学校の先生から観れば、学校に来るということは、当然本人の自由意志で自発的に来ているもの、と受け取ります。自分の意志で来ているんだから、そういうやる気のある人相手に、より高度な内容の教育を施すわけです。
  そういうわけで、みなさん。これからの高校生活は、あなたが自分の意志で学校に来て、学ぶ気がある、ということを、今までよりもはっきりと自覚しないといけません。
  義務教育から自由教育へ。「自由になる」ということは、「自分の意志と責任でなにごとも行う」という意味だということを、しっかりわかってください。

大人度に差が出る

  もう一つ、この15〜16歳くらいまでの時期に一区切りをつける意味として、大人への一歩ということがあります。
  江戸時代、武家社会では、サムライの男の子にとっては「元服(げんぷく)」と言うのが成人になることでした。だいたいみなさんと同じくらいの年齢になれば、「元服」して初めて一人前として扱ってもらえたわけです。
  そのかわり一人前の大人ですからそれなりの仕事も負わされ、お城や藩邸に出勤して働くことを命令されたわけです。藩というのは今で言う会社のようなところがありました。上司に気を遣い、自分の役割を果たし、責任をとるということが要求されました。これは男子だけの話ではなく女子も、「女元服」ということが行われていました。
  現在の法律では、成人となるのは20歳ということになっていますが、昔の日本では15歳前後で一人前とされていたのですね。
  世界的に見るとどうでしょうか。例えば、『子どもの権利条約』などを見てみると、一番最初に子どもというのは18歳までのことで、18歳になったらもう大人ですよ、ということが書いてあります。18歳になればもう大人と見なされる考え方が今では世界的に広まっているということですね。
  みなさんは、これから15歳から18歳にかけて、この見方によっては大人と見なされたり大人にされなかったり、という不安定な時期を、しかし、確かに子どもから大人へと移り変わってゆく、大事な時期をスタートさせようとしているわけです。
  はっきり言って中学生のうちはまだ「子ども」だったのです。しかし、今日で「子ども」は終わりです。かといって、まだ「大人」とは認められません。中途半端な3年間がみなさんを待っています。
  この3年間をどう過ごすか。みなさんがどれだけの人間的な大きさ、広さ、深さを身につけるかで、ひとりひとりの大人度に差が出てきます。
  次の3年間で、みなさんはそれだけ大きな大人になっているだろうか、それを決める努力の日々が、もう今から始まっているのだろうと、私は思います。

自由な志

  私は同志社という学校から来ました。
  同志社というのは同じ志(こころざし)を持つ者が集まった結社、という意味です。
  「志」というのは、目的とか目標、あるいは希望をあらわす言葉です。自由意志という場合の「意志」の「志」の字もこの「志(こころざし)」です。
  自分の自由な目的を達成するための意志を持つ、という意味で、私たち同志社の人間は、この「志」という言葉を使います。
  「志」とは、人から与えられた目標ではなくて、自分で決めた目標です。自分で決めるということが自由の基本です。
  何を目標にして生きたらいいかわからない人にとっては、自由というものは残酷なものだと思います。誰かに目標を決めてもらえるわけではないですから、どこに向かって進めばよいのかわからないままに、3年間の時間があっという間に過ぎていってしまうのです。
  何に向かって動いていくか、何を夢に抱いて毎日を過ごしてゆくか、ある程度それが見えている人は幸せです。
  あるいは、まだ見つかっていない人でも、求めて、探して行きさえすれば、きっと見つかる。あるいは探している作業そのものがすごく充実したものになるはずです。
  「探し、求める」ばかりの高校生活であったとしても、きっとその3年間は素晴らしいはずです。
  さっき読んだ聖書にも書いてあります。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる……」(マタイによる福音書7章7〜9節)
  「求める者には与えられる」んです。
  ということは、逆に「求めない人」は何もゲットできません。聖書の言葉も裏を取るとなかなか厳しいです。
  おまけに、同じ聖書の別の箇所には、
「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブの手紙4章3節)という言葉もあります。自分の楽しみのために使おうというのは間違った動機だというんですね。
  正しい目的にのっとって求めないと、自分の求めた結果は現れないのです。では正しい目的とは何かというと、自分の楽しみのためだけではなくて、誰か自分以外の人に奉仕するような目的です。

自分のためでない志

  私は学校の先生になる前は、名古屋で会社員をしていました。
  そこで学んだ一番のことは、「奉仕する気持ちのない者」は存在する価値がないということでした。
  私の学校でも、何のために人間は働くんだと思う? と聞くと、たいてい「自分の生活のため」、「お金をもうけるため」という言葉がよく返ってきます。
  それは別に間違っているわけではないんです。間違っているわけではないけれども、それだけではないのも確かなんです。
  ぼくが企業の人事担当者だったら、「君は何のために働きたいですか?と聞いたら、「自分のお金のために働きたいです」という答え方をする人は採用しません。むしろ、「これこれこういう理由で、私は社会に、そして一人ひとりの人にお役に立ちたいです」とはっきり言える人を採用します。
  そして私がじっさいに名古屋で営業マンをしていたときも、自分の利益ではなく、相手の、お客様の利益を考えることができて、それがお客様に信頼してもらえたときに、初めて注文をもらい商売が成功しました。
  人間はお金のために生きているというのはウソです。お金が欲しい欲しいと言っている人に、人はお金を払うのではありません。自分に本当に奉仕してくれる人にお金を払うのです。
  そして、その奉仕はニセの愛情ではダメです。お金が欲しいからお客様に愛情をかけているようなフリをする、というのでは、すぐに見抜かれてしまいます。下心と本当の愛情を見抜けないほど、世の中は甘くないのです。
  心からお客様や自分以外に人に愛情をもって接し、いつも人の利益を考えてあげられるような人は、最終的には成功するのです。
  これが正しい目的。自分のためにではなく、自分よりも他の人の喜びを作り出せるような目標設定をし始めるのが、高校生の3年間ではないかなと思います。
  間違った動機ではなく正しい志を探すために、自由な意志と責任感をもって立派な大人になるべく、がんばってください。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日ここに、関東学院中学校のみなさんと共に卒業礼拝を持つことができますことを感謝します。
  重ねて、これだけの生徒のみなさんが今日で人生の一区切りをつけ、また新しい歩みにそれぞれ進んでゆかれることも、心から感謝をいたします。
  世の中の動きは激しく、また人の心もすさび、いよいよ厳しくなる環境の中に進んでゆかれる、これら若い人びとの行く末に、あなたの豊かな導きと守りがありますように。
  また、関東学院中学校高等学校の進む道も、あなたに導かれた確固としたものでありますように。
  これらの感謝と願いの祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお聴きください。
  アーメン

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