父を癒す

2003年3月9日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難節第一主日礼拝説教

説教時間:約35分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 26章36−39節(新共同訳・新約・p.53)

  それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

なぜあなたは罪深いのか

  最近、疑問に感じることがあります。
  なぜ「人間は罪深い存在だ」とクリスチャンは考えるのでしょうか?
  もちろんわかっているんです。イエス・キリストはわたしたち人間の罪の贖いのために十字架にかかられた……。キリストの十字架がなければ、わたしたち人間は罪から救われることはない……。生まれながらに罪人である人間は、死に引き渡されるべき存在である……。しかし、キリストが我々の身代わりの子羊として死んでくださったので、わたしたちは赦されている。父なる神によって義とされている……と。そういう教義は理解しているのです。
  たとえばわたし自身も、己の罪深さに耐えられず、「自分は生まれてきてよかったのだろうか」「自分などこの世に存在する価値があるのだろうか」という悩みを持ちつつ、キリスト教に救いを求めたという面は確かにありました。そして家族が猛反対する中、泣いて止める母を振り切って洗礼を受けた記憶があります。
  しかし、それから20年以上の月日が経ち、いろんなクリスチャンの方と出会ってきて、必ずしも自分のそういう信じ方だけがキリスト教の信仰の実態ではないのだということがわかってきました。
  「罪深さ」という事で言えば、たとえば、わたしのように「人間は罪深い」という感覚を持っていた人間もいれば、そうでないクリスチャンもいます。特に、いわゆるクリスチャンホームで育った人の中でも、教義として「人間は生まれながらに罪人である」という考えがあることは頭では知っていても、実感としてそう感じているわけではないという人は結構多いです。むしろ、いつも神さまに愛され守られているという喜びや、すべてを主におまかせしていいのだという安心感ならわかるけれども……人間に生まれながらにしてある罪:「原罪」というのは、実感としてはわからない、と。
  「原罪」の実感は、クリスチャンにおいてさえも必ずしも共有されてはいない、それが実態ではなかろうかと思います。

あなたの何が罪深いのか

  その一方で、「人間は罪の存在なのだ」と昏々と説きつづけるクリスチャンたちもいます。人間の罪を指摘する場合、大きく二つの傾向の人に分かれるようです。
  ひとつは、何が罪なのか、何が罪でないのか、を懸命に判定しようとしている人たちです。具体的に、離婚は罪だとか、姦淫は罪だとか、同性愛は罪だとか、そういう罪のリストを持っている人たちです。ただし、厳密な話をしてゆくと、個々の見解はそれぞれ一致しません。
  もうひとつは、何が罪で何が罪でないのかを判定することには意味がない、あるいはそんなことは人間には分からない神のみぞ知る事だとして、ただ神に背を向けたり神から離れていくことが罪なのだ、という考え方です。人類はアダムとエバが神さまとの約束を破ったことから、神のもとを離れるという罪を引き継いでいる、すなわち「原罪」を負っている。つまり、そのように神への信仰のないことが罪であり、逆に「信仰によって人は義とされる」というわけです。
  しかし時には、信仰的には熱心だが人間的にはとても尊敬できない、むしろ社会や人間関係においてとんでもない迷惑でお荷物な言動をとっているにも関わらず「神さま、どうかわたしの罪をお赦しください」と熱心に祈る、その熱心さに自己陶酔しているような信仰者の姿もちらほら見かけられます。
  私自身の反省も含めて言うのですが、どんなに自分は罪深い存在であると認識しているつもりで、神さまから離れないようにと自分に言い聞かせても、それとは関係なく自分では知らないうちに人を傷つけたり、踏みにじったりしていることはよくあり、それをあとから人に教えられる、あるいは教えてもらえないことの方が多いのだろうと思います。
  そういうクリスチャンが「我らの罪を赦したまえ」と信仰に励めば励むほど、信徒以外の人は「キリスト教なんて、しょせんは現実逃避の手段に過ぎない」と思うのでありましょう。その時、クリスチャンの罪深さの感覚と一般人の罪深さの感覚はズレている。原罪なんかより、直すべきところがいくらでもあるでしょうが、と言われるわけです。

植え付けられた罪意識

  先に、クリスチャンにおいてさえも、自分が罪深いという感覚は必ずしも共有されてはいないと述べましたが、その一方で、クリスチャンでなくても、「わたしは罪深い存在ではないか」と悩んでいる人はたくさんいます。
  例えばわたし自身がそうでした。わたしはキリスト教に出会う前から「自分は生きていてよいのだろうか」「ぼくはここに存在していること自体が罪なんじゃないだろうか」と苦しみ続ける少年でした。
  ですから教会に出会って、「人間には罪がある」「人間は本来罰せられなければならない存在だ」と教えられたとき、そのキリスト教の考えはたいへん自分の感覚とマッチしました。何とか救われたいと思いました。そして洗礼を受けました。
  実は今でも自己嫌悪が激しいときには、「自分などさっさと死んでしまったほうがいい」と思うこともよくあるのですが、その度に「おまえは悪くない。おまえは生きていていい」と御声をかけてくださる神さまを信じようと努めています。それを信じなければ、わたしは崩壊してしまうでしょう。
  しかしいま、たとえば学校という現場で、キリスト教の素地のほとんどない人々を相手に宣教をおこなっている仕事をしていたりして感じるのは、キリスト教の罪意識を受け入れるには、ある素質が必要だ、ということです。
  その素質とは、
「なんとなく生きていることに違和感を感じる自己否定の感覚」とでも申しましょうか、そういう感覚です。
  「原罪」というものを、倫理社会の授業でならうように、ひとつの知識として知る事は簡単ですが、それを自分の罪深さとして実感で受けとめる人は大変少ない。しかし、かつてのわたしのように、キリスト教を知らない家庭に育っても、存在の罪深さを感じる感覚を持っている人というのはいて、そういう人は、クリスチャンでもわかっていない人が多い「原罪」の感覚を、直観的に理解するのです。
  そういう感覚を、もともと持っていない人には、どれだけ口をすっぱくしてわかりやすくキリスト教の罪と赦しの教えを説明しても理解してはもらえません。知識としてわかってもらえても、実感としては他人事です。むしろ、自然の恵みや家族の絆への感謝、そして祈りを聴いてくださり、人間を見守り支える、見えざる神の愛の御手といった話のほうがわかってもらえます。そして、実はクリスチャンの中にも、そういう人――つまり罪と贖いはわからない、という人が多くなってきています。
  言い換えると、このタイプの罪意識というのは、キリスト教に独自のものではなく、つまり「原罪」というキリスト教の専門用語でなくても表現できる類のものではないだろうか……、キリスト教では「原罪」と表現しているけれども、別の見方をすると、このタイプの罪意識を人間に植え付ける何かある特定の要素があるのではないか……。
  たとえば、クリスチャンの家庭で育った人で、「原罪」が理解できないという人がいる。そういう人は、要するに「具体的に何か悪いことをしたという根拠もないのに自己否定する感覚が分からない」ということです。「自分が生きていていい」というのは当たり前のこと、自分が神さまに愛されているというのは、当たり前のこと。でもそういう感覚を持った子どもが育つためには、目に見え、肌に感じる実際の家庭環境においても、「自分は愛されている」「自分はここにいていい」「自分が生きていることをみんなが喜んでいる」という感覚を、いっしょに暮らしている大人たちがしっかりと感じさせてくれることが必要不可欠です。
  逆に言うと、「わたしがここにいる」ということを回りの大人は喜んでくれていないのではないか、と恐れながら育たざるを得なかった子どもは、「自分は生きていていい」という気持ちを自然に持つことができないまま成長してしまうのです。
  こうして、自分の存在自体にどこか後ろめたさを感じる人間ができあがってしまう。そういう人間にはキリスト教の「原罪」というものが、自分の実感そのものとして受けとめられるのです。

怒る神

  自分がこの家庭に生まれたことを後悔したり(後悔してもどこに生まれるかは自分では選べないのですが)、あるいは、自分はいない方がいい子どもなのではないかと思い詰めて悩み苦しんでいた頃を思い出したり、やはりかつての自分のように、生きにくさや居場所の無さを抱えて悶々とした日々を過ごしている中学生や高校生を目の当たりにしながら聖書を読み続けるうち、わたしは、聖書が語る物語に、今までわたしが知っていたのとは全く違った意味が隠されているように感じられてきました。
  たとえば、旧約聖書はその冒頭で、最初の人間アダムとエバに対して、この二人が言いつけを守らなかったからといって、神が追放という罰を加えたことを記しています
創世記3章。出かけていて、帰ってきたら子どもたちが「食べてはいけない」といったお菓子を食べている。それを見つけた親は子どもを呪って放り出してしまう。これは児童虐待です。
  よく、アダムとエバを追放する時に主なる神が二人に
「皮の衣を着せられた」(創世記3章21節)と書いてあるので、これを「罰しながらも愛する神」と解釈している向きが多いのですが、これはわたしには、子どもや妻に暴力をふるった父親や夫が、暴力をふるった直後に平身低頭謝ったり、後悔したり、極端に優しくなるという、あの共通した傾向と重なって見えてしまうのです。
  その次の世代のカインとアベルは、兄弟殺しという恐ろしい事件の当事者となってしまいますが、その殺人の動機となった兄弟間の妬みの本当の原因は、神がカインとアベルの献げ物への評価に差をつけたことにあります
(創世記4章)。この殺人は、愛情に差をつけられ、自分は愛されていないと感  じた一人の子どもが、愛されたもう一人の兄弟を殺したという事件なのです。そして親はまたこの不肖の息子を追放します。しかし追い出しながら、彼が守られるように「しるし」をつけるといった愛情を示す(創世記4章15節)。アダムとエバを追放するときと同じです。
  そして、その次のエピソードであるノアの箱舟の物語では、神は地上に蔓延した罪を洗い流すために洪水を起こし、自分に忠実なノアとその家族だけをのこして、あとは人類を一掃してしまいます。自分の意に沿わぬ者たちをことごとく滅ぼし尽くした末に、主の怒りをなだめようとするノアに対して、主はこのように言います。
 
 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8章21節)
  「それはないだろう」、と信仰の薄いわたしなどは思うのです。罰するだけ罰しておいて、その直後に「もう二度としない。人は幼いときから悪いのだ」などと言われたら、滅ぼされてしまった人間たちは浮かばれません。これも、家庭内暴力をふるってしまう虐待者の夫、あるいは父親の典型的なパターンに、わたしには見えます。
  そして「二度とすまい」と言いつつ、この神はその後も、ソドムとゴモラを滅ぼしますし、あるいは自分のお気に入りの民であるイスラエルの敵となる民を滅ぼしたり、イスラエルの民であったとしても、自分の心に適わなくなった場合には、敵の手にイスラエルを渡してしまったり、と傍若無人の限りをつくします。
  そしてイスラエルの民は、どうすれば神の御心に適う事ができるか、どうすれば神の怒りと罰から逃れることができるか、ということが宗教上の一大関心事となっていってしまったのでした。
  ユダヤ教徒やキリスト教徒たちが、このような物語を書き伝え、そこに描かれた神の傍若無人なありさまに何の疑問も持たずに信仰しつづけてきた一つの理由として、この物語を受け継いでいった人間自身が、夫や父親による暴力を容認する社会風潮や文化に生きていた、ということが考えられるでしょう。
  そしてこのような旧約聖書的な怒りと裁きの神を信仰の基盤に置きつづける限り、父親によるドメスティック・バイオレンスを、「しつけ」であるとか「愛の鞭」という方便で正当化する道を断つこともできないのであります。

みんなが罰せられないように

  本日お読みしました聖書、マタイによる福音書26章36節以降、イエスはゲッセマネの園で、逮捕され苦しみを受ける前の最後の数時間を過ごしています。
  イエスは弟子たちに
「わたしは死ぬばかりに悲しい」と漏らし(マタイによる福音書26章38節)、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(同39節)と祈っています。しかし最後は「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(同)と祈りをしめくくります。
  イエスはなぜ自分は死なねばならないと思っていたのでしょうか。それは聖書の同じページの上の段にある「主の晩餐」の場面の記事にも書かれていますように、
マタイによる福音書26章28節「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と、イエス自身が語っています。
  イエスもユダヤ教の一信徒である限り、人間の罪を裁く旧約聖書の神を信じていたことでしょう。と同時に、一般民衆には罪を犯すことを戒め、神の裁きを警告していた当時のユダヤ教聖職者自身が、実は表面だけを繕う偽善者集団であることも見抜いている。つまり、彼らの罪に対する認識など、本当に内面に根を下ろした悔いを伴う深い罪意識ではないということも見抜いている。そして、本当に神の前に罪の無い者など、存在しないのだということもわかっている。
  その上で、「神の御心にかなわぬ人間は罰せられなければならない」という旧約聖書の神への信仰をもっていたとしたら……、そして、「それでも神は人間を愛しておられるはずだ」という信念をも捨てることができなかったとしたら、彼はどうしようとするでしょうか。
  病や不幸に陥った人たちに、「それは神に裁かれているのだ。罰せられているのだ」としか言ってくれず、救いの手も差し伸べてくれない聖職者たちに代わって、
「はっきり言っておく。おまえは赦されている」(マタイによる福音書9章2節ほか)と宣言して回ったこの放浪の伝道者は、ついにその人生の最後に何を考えたか。
  それは、
「どうしても罰が必要なら、わたしが罰を受けて、それでみんなのことは赦してもらおう。それをわたしの人生のしめくくりにしよう」ということではなかったか。
  イエスは、殊更に神に対して「父よ、父よ」と呼びかけていました。そのことによって、イエスは自分が父なる神に最も愛された子であるということを、周りに人々にわかるように伝えていました。
  そして彼は、最後の食事において、
「わたしが殺されるのは、もうみんながお父さんから罰を受けることがなくなるようにするためなんだよ」と語りました。
  それは、旧約聖書によって伝えられてきた神に対して、一大転換を迫る挑戦でした。それまで人びとが信じてきた神は、自分の心に適う者は愛して生き永らえさせ、心に適わない者は罰して、追い出したり滅ぼしたりする神でした。しかしイエスは、そうではなく、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイによる福音書3章17節、17章5節ほか)と神にして言わしめた子自身に神が手にかける、という新しい物語を生み出そうとしたのであります。
  イエスは
「お父さんが、もうみんなを殴ったり放り出したりしないように、ぼくがお父さんの犠牲になるよ」と言って身をささげる子どものように、自分の運命に身を任せたのでした。

父を癒す

  十字架の上にあげられ、最も残酷な苦痛を受け、最も恥ずかしく惨めな姿をさらし、「神の子なら、自分を救ってみろ」(マタイによる福音書27章40節ほか)と罵られ、そして、本当に神に救ってもらえない。神の子が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(同46節ほか)と叫んで息を引き取ってゆく。
  そこに人は、最も愛するわが子をも手にかけて殺してしまう恐ろしい父親の姿を見たことでしょう。
  思い通りにならないことがあると暴力をふるう恐ろしい父親は、ついに最も愛していたはずの自慢の息子を、自分の手にかけて死なせてしまいました。我が子を手にかけた父親は、血まみれの息子の遺骸を見下ろしながら、何を思うのでしょうか。
  我が子を手にかけてしまった父親は、血まみれの息子の遺骸を見下ろしながら、深く自分の暴力に傷つき、「本当に、もう二度とこんなことはあってはならない」と誓うのではないでしょうか。
  しかし同時に、この暴力的な父親は、
「お父さんがどうしても子どもを殴らずにはおれないというのなら、ぼくが殴られてあげるよ」と進み出た子どもに、それほどまでに愛されていたことに気付くのではないでしょうか。
  息子は、暴力をふるわずにはおれず、暴力と溺愛のサイクルをいつまでも繰り返す父の病を癒すために、父を愛するという行為に踏み出したのでした。たとえ父の暴力にさらされたとしても、父に殺されたとしても、この息子は父を愛し抜いたのでした。
  わが子の屍を見下ろして、なお父はこの息子以外の子どもたちを罰そうと思うでしょうか。そんなはずはありません。父はもはや罰することはありません。
  それでもなお、父の罰を恐れて、何が罪か何が罪でないかを戦々恐々として詮索するようなクリスチャンは、イエスが何のために死んだのかわかっていないし、神がいかに「裁く父」から「赦す父」へと変貌したかを信じていないのです。それは、イエスの十字架の死を全く無駄にしてしまうような信仰です。
  イエスの、死をかけた父への愛は、父を癒し、もはやわたしたちは父の裁きを恐れて生きる必要は全くない。
  わたしたち人間は完全に自由です。
  イエスの死を悼みつつ、しかし、彼が自らの死によってわたしたちが自由であることを示してくれたことに、深い感謝を抱きつつ、このレントの日々を過ごしてまいりたいものであります。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天のなる御神さま。
  あなたとあなたの御子イエスの物語を、深い悼みと感謝をもって受けとめる者です。
  あなたの怒り、あなたの悲しみを、わたしたちにも受けとめさせてください。
  あなたの赦し、あなたの愛に、わたしたちも与からせてください。
  十字架の主イエスの御名によって祈ります。
  アーメン。

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