わたしの祈りは聴かれているか

2005年8月14日(日)日本キリスト教団 箕面教会 聖霊降臨節第14主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書14章32−42節(新共同訳)

  一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
  少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。
  「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」
  それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。
  「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
  更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
  再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
  イエスは三度目に戻って来て言われた。
  「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

祈りへの不安

  長年クリスチャンをしている人でも、自分の祈りが本当に神さまに聴き入れていただいているのか、自信がなくなるときがあるのではないかと思います。
  
「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイによる福音書7章7節)と聖書には書いてありますが、本当に求めて、すぐに与えられたという経験ができるのは、とてもラッキーな場合なのであって、実はほとんどの場合、私たちの祈りは、どうも祈ったとおりには、願いがかなえられていないような気がする時も多々あるのではないでしょうか。
  あるいは、「祈りとは神さまとの会話である」と教えられたこともあるけれども、神さまの返事してくださる声が聞こえるわけでもなく、どうも自分ばかりが独り言をブツブツとしゃべっているような気がしないでもない。
  いったい、神さまは本当に私の祈りを聴いていらっしゃるのだろうか。
  いや、あるいは、じっさいのところ、私の祈りを聴いてくれるような神さまなど本当に存在するのだろうか。
  そういう疑問を持つことはおかしなことではありません。当然の、自然な気持ちです。
  人生において、困難な状況や行き詰まりを感じるとき、私たちは「神さま、どうかこの困難な状況を過ぎ去らせてください」と祈ります。しかし、一向に問題が解決せず、自分はいつまでも行き詰まりのなかに放置されているように感じることがある。そういう体験をしている人もいるでしょう。
  私たち人間にとって、もっとも叶わない祈りの一つに、平和への祈りがあります。私たちは、いつも「神さま、どうか私たちの住むこの地球を、平和な世界にしてください」と祈ります。しかし、この世の中が一向に平和になる兆しは見えません。それどころか、世界一の軍事力を誇る国家の大統領が、自分がキリスト教の熱心な信者であることを宣伝文句に使いながら、正義をふりかざして他の国の国民への虐殺を命令し続けている状況なのですから、「いったいクリスチャンってなんだ」、「キリスト教ってなんなんだ」、「神さまは何をしているのだ」と言いたくもなります。
  神は、「地上の平和は、地上のお前たちの問題だ。お前たち人間は、かわいいわしの独り子を十字架につけて殺してしまったくらいじゃないか。もう自分たちの世界のことは自分たちで何とかしなさい」と、さじを投げていらっしゃるのでしょうか。
  自分の個人的な生活におけるささやかな願い、社会全体をも視野に入れたような大きな願い、いずれの願いにしろ、神さまは本当にわたしたちの願いを聞き入れてくださっているのか、一度疑い始めるとキリがないところまで来ることもたびたびあるのが、クリスチャンの偽らざる実状であったりもするのではないでしょうか。

わたしの祈りは聴かれているか

  私は、あるクリスチャンから、「わたしの祈りを聴いてくれないのなら、そんな神など信じても仕方がない」という愚痴を聞いたことがあります。そのクリスチャンにとっても、つい口を突いて出てしまった言葉だったんでしょう。
  「わたしの祈りを聴いてくれない。そんな神信じても、なんにもならない……」
  しかし、それが結局、不信仰というものなのかも知れません。「信仰しても自分の思い通りにならないのなら、信仰する必要がない」と言っているのと同じことですから、そういう人は信仰を持っていないのと同じなのですね。
  もちろん信仰を持っていなくても、人は生きていくことはできます。信仰がなければすぐに死んでしまうなんてことはないし、信仰がないから生きていく価値がない、などということはありません。
  ただ、「それは信仰ではない」という単純な事実だけは確かです。
  「自分の望みがかなえられなかったら、神など信じたって何にもならない」と言ってしまうとしたら、それは「自分の役に立たないものは必要ない。たとえそれが神であったとしても」と宣言したのと同じことだ、ということになります。
  結局その人は、自分の思い通りになるかどうかで、神を信じるかどうかを決めています。神の意志がどこにあるか、ではなく、自分の意志が中心で、その自分の意志のとおりに神が動いてくれるかどうかで、神に利用価値があるかどうかを決めている。すなわち、自分のほうが神より偉いのです。
  そういうありさまは信仰ではありません。

沈黙という応答

  神さまというのは、何を考えて、何を望んでいらっしゃるのか、人間にはわかりません。
  わたしたちは、たとえば一緒に住んで生活している家族のような関係であったとしても、自分以外の人間の心の中身さえも完全にわかることはできません。だとすれば、ましてや神のご意志などわかるはずもないのではないでしょうか。
  しかし、「わからない」ということと、「神は何も考えていない」、あるいは「神は何も応えてくださらない」ということとは違うのであります。
  大事なことは「沈黙」というのも、神の答えのひとつであるということです。
  たとえば「黙って時を待て」という意味の応答である、と考えることができます。
  あるいは、「いまは黙って時を待とう」と、神ご自身がそれを実行しておられるとも考えることができます。
  また、あるいは、私たちの祈り願うことが、必ずしも願っている私たち自身にとってふさわしくない、最適ではないときにも、沈黙をもって応答するということが、神さまにはあるようです。
  私たちが祈って、祈って、それでも神が応えて下さることのないように思えるとき。それは、時がふさわしくないか、あるいは、内容がふさわしくないのかも知れません。その場合は、神は「沈黙」をもって応答されます。
  しかし、時を変えて――それは、わたしたちは何を願っていたのか忘れてしまうくらい時がたってからであることも珍しくありません――あるいは、形を変えて――それは全く自分の予想外であることが珍しくありません――そして、それは突然のこともあれば、何年も時間をかけてゆっくりとの場合もあるのですが、さまざまに人によって異なる形で神が応答をしてくださることがあります。
  人には人の時間の感覚がありますが、どうやら神さまには神さまの時間があり、それは人間にとっては気が遠いくらい長い時間であったり、かと思うと、突然思いも寄らぬ展開を起こしたりする。
  しかも、神さまには神さま独特のお考えがあり、常にわれわれの予想を超えたところでそのご意志を明らかにされたりすることがあるのであります。
  私たちは、突然の神の計らいを前にして、自分が忘れていたかつての願いを思い出して、「おお、そういうことだったのですか」と驚くしかない、そういうものなのかも知れません。

かなえられなかった祈り

  わたしたちが本日お読みしました聖書の箇所は、ひとつのかなえられなかった祈りの典型的な例です。
  イエスは、
「父よ、あなたなら何でもおできになります」(マルコによる福音書14章36節)と神さまへの信頼の言葉を述べた上で、「どうかこの杯をわたしから取りのけてください」(同)、つまり自分が苦しみを受ける運命を避けられるものなら避けさせてください、と願い求めます。
  この願いは、結果からいうと、適えられませんでした。彼は十字架につけられて殺されるという苦しみを受けました。
  しかし彼は、あらかじめこのように祈ることを忘れませんでした。
  
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(同)と。
  ここで、イエスは自分の願いを神よりも優先するのではなく、なによりも神の意志を優先する祈りの模範を示したと言えます。
  わたしたちも、本当はいつもこのように祈るべきなのかも知れません。どのような願いを祈りの言葉に乗せたとしても、その願いの最後はかならず、こういう風に締めくくらないといけないのかもしれません。
  「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と。
  そして、その結果としてわたしたちの前に現れてくる出来事を、勇気をもって引き受けてゆくということが、わたしたちに求められているのかもしれません。
  イエスの個人的な願いは叶えられませんでしたが、私たちはイエスが死ぬことによって、初めて神は本当のイエスの存在意義を達成した、成就させたということを信じています。イエスは十字架にかけられて死ぬことによってしか、イエスの本当の人生の目的を達成することはできなかったのです。
  それは後々の歴史に生きる人びとまでも救うことになる、人間のあらゆる罪、問題点、過ちの身代わりとして死ぬことで、人は誰も罰されるべき存在ではない、ということを示す、という大仕事です。
  それを、人間イエス個人としては喜んではいなかった。しかし、それが神の御心ならば受け入れるしかない、という覚悟もあった。
  わたしたちも、この祈りにならって、自分個人の苦しみからは逃れたいと思うけれども、その苦しみに神は実は別の意味を与えようとしておられるのではないか、と考える想像力、そして自分の置かれた現実を受け入れて、引き受ける態度を持つべきではないかと思われるのであります。

期待ではなく希望を

  わたしたちは、あまり期待を込めて祈るべきではないのかも知れません。
  わたしたちが持つべきなのは、人生への期待ではなく、希望なのではないでしょうか。
  期待というものは必ず裏切られるものです。しかし、希望はいくら裏切られても希望です。
  
「患艱は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生みだす」(口語訳:ローマ人への手紙5章3−4節)「そして、希望は失望に終わることはない」(同5節)という言葉も聖書に記されておりますが、わたしたちはいくら自分の人生への淡い期待を裏切られても、いつか神が「万事を益となるようにして下さる」(同8章28節)ということを信じる意志を持つことによって、いつでも希望をいだくことができるのであります。
  それは、悪い言葉で言えば、「カラ元気」かも知れません。
  しかし、仏教の言葉で言えば、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」とも言いますように、全てのことは私自身の心から発している。不安や失望、不幸な感情というものも、自分の心の持ちようから作り出されているのと同じように、信頼や希望、幸福な感情というものも、全て心のありようから生み出されてくるものです。つまり、自分の心の持ち方次第で全ては変わる可能性を秘めています。
  カラ元気で結構。高いジャンプ台からプールに飛び込む思いで「神は万事を益としてくださる」と信じて、「わたしはこう望みます。しかし神さま、あなたの御心がなされますように」と祈る勇気が、私たち自身の心を、希望を抱くことのできる体質へと導いてゆくのであります。
  そして、ひとつひとつの不幸な出来事で自分の人生すべてを判断してしまわず、3つ、4つ、5つの出来事の積み重なりの中で、物事の意味を読み取ってゆくようにするほうが、神さまのご意志がわかりやすくなります。
  自分の人生への判断をいったん保留しておいて、祈りを続けつつ希望を信じて生きてゆくというのが、私たちの健康な心を形づくってゆくのではないかと思います。
  人生のいかなる状況にあっても、あわてて悪い解釈ばかりするのではなく、長い目で神さまの御心をさぐりながら、「きっと神はわたしの予想外のことをなそうとしておられるのだろう」と、常に希望を抱きつつ、祈りつつ前に進みたいものでございます。
  そして、あるいは、3つ、4つ、5つの出来事の積み重なりをじっと観察していても、運命が自分に苦しみしか強いていないようにしか思えないときには、その苦しみこそが神の応答であるか知れないと考えることです。
  その苦しみの中に、神がわたしたちに伝えようとしていることがあるからです。
  喜びにも意味があるのと同じように、苦しみにも意味があります。すべてのことに意味があるのであり、その意味を悟るときが来るのを、神さまも私たちといっしょに、苦しみながら待っておられるのであります。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  愛するご在天の神さま。
  今日は箕面教会のみなさまと共にあなたの御前に礼拝をささげることができます恵みを心から感謝いたします。
  わたしたちが、自分の狭い視野から全てを判断する傲慢に陥らないように、どうか神さまわたしたちを戒めてください。
  わたしたちが苦しみに合うとき、どうかその試練に耐える力を与えてください。
  そして、それと同時に、あなたのご意志を読み取る知恵と忍耐をお与えください。
  主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
  アーメン。



※ 参考文献
  「希望を込めて、判断を保留する」という考え方、生き方については、以下の図書を参考にいたしました。
  玄侑宗久&鈴木秀子『仏教・キリスト教 死に方・生き方』講談社+α文庫、2005、p.181

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