わたしは「ある」

2005年1月17日(月)同志社香里中学校ショート礼拝奨励

説教時間:約10分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:出エジプト記3章14節(新共同訳・旧約聖書)

  神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

「わたし」が生まれる確率

  今日は、「科学と哲学と宗教の境目」の話をします。
  とくに、「科学」と「宗教」の境目は気になるところじゃないでしょうか。「科学と宗教は矛盾する」と思っている人はいませんか? 「宗教なんか、文明の発達していなかった昔の人たちのもんや。こんな科学が発達した時代に宗教なんか要らない」と思っていませんか?
  でも、本当は、科学と宗教は反対にあるものではなくて――あーいや、やっぱり反対側かな? まぁとにかく、はっきりと境目があって、受け持ちの範囲が違うんですね。
  たとえば、みんなに質問したいと思います。今日読んでいただいた聖書、「『わたしはある』というのが、神さまの名前だ」という摩訶不思議な話ですが、この「わたしはある」というのが問題です。
  「あなたは……君らひとりひとりは、なぜこの世に生まれて、なぜここにいるんやと思いますか?」
  みんな、各自、自分のことを考えてくださいよ。
  「なぜ、いまここに自分が存在しているのだと思います?」
  例えば、「科学」でかなり説明できる部分もありますよね。みんな、人間がどういう風に生まれてくるか、ある程度知ってるでしょう?
  お父さんとお母さんがセックスをして、お母さんの卵子のところに、お父さんの精子が泳いで行って、たった1つの精子だけが、卵子と結びついて、そこから自分が生まれてきたわけですね。
  あんまり考えたくないと思いますけど、お父さんは1回の射精で何億個の精子を出すと思いますか? 元気な人もいれば、くたびれてる人もいるし、1億〜4億個という風に、個人差は大きいそうです。けれども、まぁ真ん中をとって、仮に2億個としましょう。
  じゃあ、自分が生まれてくる確率は、単純計算で約2億分の1ですか。
  ということは、たとえば、自分がたまたま、1億8495万3782番目の精子によって生まれていたとしてですよ。ひょっとしたら、一つとなりの1億8495万3781番目の精子が、先に卵子にタッチしていたら、それだけで君がここに生まれていなかった可能性がありますよね。そう思うと、すごいような、恐ろしいような気がしませんか、自分が生まれてくる確率というのは。
  とにかく、そういう約2億分の1くらいの確率で自分は生まれてきたのかと、ここまでは「科学」の範囲でわかることです。
  でも「科学」の範囲だけでも、けっこう感動的というか、「すごいことなんやな、人間一人生まれてくることは」って思いますよね。

わたし「である」ことの確率

  考えを先に進めます。肉体としての自分は、2億分の1で生まれてきているはずなんですが、「それが、なぜ自分なのか」を考えたことはありますか?
  ここから先は、「科学」では答えがでないんですよ。ここから先を、考えていくのが、「哲学」という分野です。
  ここにいるみんなは大体1990年代前半生まれでしょう。でも、なんでこの時代なんでしょう。別に、「自分」というのが、いまから150年前の江戸時代に生まれる可能性もあったのにですよ。あるいは、1300年前の奈良時代に生まれてもよかったはずですよね。あるいは、もし20万年前のネアンデルタール人、または50万年前の北京原人として生まれていたら、たった一度の一生を、もうすでに終わってしまっているのかも知れないわけでしょう。
  それなのに、なぜか今の時代に生まれて、今ここに生きてますよね。
  時代だけじゃないです。たとえば、さっきお話した1億8495万3782番目の精子だって、それが「生まれてみたら自分だった」というのは、たまたまの結果論でしょう。
  たとえその精子と卵子の組み合わせだったとしても、それで生まれてきた子どもは、君でなかった可能性もある。君のとなりの子の体で、君は「これがわたしだ」と思ってこの世に目覚めていた可能性もある。
  あるいは、どこにも君という存在が現れない可能性もある。その場合は、君はまだこの世に現れてなくて、君は自分の存在さえも知らないで、無の中に眠ったままかもしれないですよね。
  そういうことをいろいろと考えてゆくのが「哲学」の範囲です。
  「哲学」ってのは、なんか答えが出そうにないような気もするけれども、そうやって考えるだけでも、「自分がここに生まれてきている事って不思議やなぁ」とか、「めちゃめちゃ値打ちがあることやなぁ」と思わされたりします。

わたし「がある」ことの価値

  そして、ここから先が「宗教」の範囲になります。
  「科学」は、「調べる」ことが大事ですよね。調べて証明する。
  「哲学」は、「考える」ことが大事です。いろんな方向から考えてみる。
  そして「宗教」は、心で「感じる」こと。そして、現実の生き方に活かして「生きる」事が大事になります。生き方の問題なんです。
  さっき、「自分がここにある、ということは、不思議で、値打ちがあることや」と言いました。「わたしはある」ということの不思議さや値打ちをちゃんとわかった人は、今度は同じように他の人の命の値打ちもわかってくるはずです。つまり「自分を愛するように、人の命も愛する」ということが大事になってきます。
  また、「なんで、いまこの時代のこの場所に自分が生まれたんやろか。それには何か意味があるのかな。自分が今ここに生きるようにされたのは、『この時代に、この場所で、何かをしなさい』という自分の役割のような、使命みたいなものがあるのかな」と考えを広げてゆくのも「宗教的」なものの考え方です。
  ぼくは「宗教的」にものを考えるので、ここにいるみんな一人ひとりが、それぞれ目的があって、神さまから命を与えられて、この世に生まれてきたはずだと思っています。
  みんな、「わたしがここにある」「わたしがここに生きている」ということが、なんのためにあるのか、これから生きていく中で、しっかりと探して、発見して欲しいな、と思っています。
  お祈りをします。

祈り

  愛する天の神さま
  私たちに、一人ひとりの命を与えてくださってありがとうございます。
  あなたに与えていただいた、たった一度の命を、大切に、意味のある使い方をしてゆけますように、どうか私たちを導いてください。
  主イエス・キリストの名によって願います。
  アーメン。

  ※参考文献:永井均『子どものための哲学対話』講談社、1997


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