小さくて、大きな希望

2001年12月24日(月)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス燭火礼拝説教

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:
 
イザヤ書11章1−9節(新共同訳・旧約・p.1078)

  エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。
  知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
  彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
  目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。
  弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。
  その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
  正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
  狼は子羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれを導く。
  牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
  乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
  わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
  水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。

 ルカによる福音書1章26−38節(新共同訳・新約・p.100)

  六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書2章1−7節(新共同訳・新約・p.102−103)

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

ルカによる福音書2章8−14節(新共同訳・新約・p.103)

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった、この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

マタイによる福音書2章1−11節(新共同訳・新約・p.2)

  イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
  『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者の中で、決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
  そこで、ヘロデは占星術の学者たちを密かに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

大きいことはいいことじゃない

  こんばんは。クリスマス、おめでとうございます。
  ごらんの通り、私は体が大きいです。大きいのでよく怖がられます。顔も怖いと言われます。私は普段は学校で働いている牧師なんですが、生徒によく「先生、顔怖い」と言われます。だから、いつも牧師さんらしく笑ってないといけない。
  最近、学級崩壊とか授業崩壊とかよく言われますけれども、私の授業は崩壊しません。多少ワイのワイの騒いでいても、笑顔をやめて、「おい」と言うだけで、たいていのクラスは静かになります。
  しかし、これはあんまりいいことではない。威圧的です。力で押さえ込んで黙らせて、聖書のお話を聞かせる、イエス様の教えを説く、というのは、これは本当はよろしくない。それで方針を変えるわけです。
  多少ワイのワイの騒いでいても、怒らない。ニッコリと、笑顔で待っている。で、これがまた案外すぐに静かになるんですね。それで、「おお、すぐ静かになったな。偉い偉い」と言うと、「先生、やっぱり怖いッス。目が笑ってないッス」とか「黙って笑ってるほうがもっと怖いッス」とか言うんですね。
  こちらがどんなに愛情を込めているつもりでも、相手はそうは受け取ってくれない。ディズニーの映画で『美女と野獣』というのがありますが、あの野獣の気持ちはよくわかるなァと思うわけです。
  まぁ最近は忘年会シーズンということもあって、夜道を歩く時にはいっしょに歩くと安全だ、と若い女性の方から好評だったり、あるいは最近は若い男性の同僚からも重宝がられるようになりまして。まぁじっさい夜中歩いてると、向こうの方から「す、すいません」と道をあけてくれる事が多いわけでして。あんまり嬉しくはないですが、それでも人から頼りにされるというのは喜ぶべきことなのかもしれません。

強いこともいいことじゃない

  さて、世の中、強い者が大手を振って歩き、弱い者が道をゆずる、というのが当たり前であると思っている人は多いと思います。弱肉強食が世間の常識です。その世間の規模が大きくなればなるほど、その広い世間で誰が一番強いかを決めるために、どれだけの犠牲が払われ、血が流され、命が奪われるのかということを考えると、当たり前だとか常識だとか言ってわかったようなふりをしているわけにはいかないのではないか、と、この一年間の世界の出来事を見ていると思わされます。
  人間というのはどうも、強さとか力というものを手に入れると、自分が人様に合わせるよりは、人様の方が自分に合わせてほしいと思うようになるようです。要するにエゴイスティックになるわけですが、これがもっと高じてくると、例えば自分のエゴを他人に押し付けること自体に喜びを感じ始めたり、他人を思い通りに支配してみたいという誘惑、すなわち支配欲にかられるようになります。でも、それを実際にやられることほど他人にとって迷惑なことはありません。
  これは例えば夫婦の関係であるとか仕事上の人間関係についても言えることですし、そういった個人レベルの問題にとどまらず、民族や国家とか異なる宗教の間の問題についても同じことなんですが、強くて大きな方が、弱くて小さい方に対して自分本位な干渉をし始めると、それはどのような形であったとしても、たとえ見かけ上は穏やかな形に見える場合でも、あるいは強くて大きな方は善意でやってるつもりでも、力関係があまりにはっきりしている場合、干渉される側にとっては一種の「暴力」でしかない、ということはよくあるわけです。
  そして、そのような見えない暴力、あるいは見える暴力を受けた者の恨みは、いつか復讐という形で新たな暴力を生み、復讐された側は改めてその報復を行ない、という形で、いつまでも終わらない暴力の連鎖へと発展することもあるわけです。
  誰か一番強い、圧倒的に大きな国とか圧倒的に大きな力を持つ人間が、完全に抵抗勢力を押さえ込んで、一人も反対する者が出ないようにしてしまえば、平和になると言う人もいますが、そんな事は絶対に不可能です。世の中には実にさまざまな考え方や感じ方、信念、生き方をしている人たちがいます。その中で、全ての国家、民族、全ての個人を押さえつけることなんてことができるわけがありません。
  その上、往々にして力で問題を解決しようとする人間は、結局自分が勝っていないと気がすまない、あるいは自分の方が正しいと認めさせないと気がすまない人間でもあります。そうは言っても世の中、自分とは全く違うタイプの人間はいくらでもいるわけで、したがってこういう人は、他人という者が存在しつづける限り、争いをやめることができなくなってしまいます。
  だから、力を持つこと、強いこと、大きいことというのはあんまりいいことじゃない。強さ、大きさというのは、敵を作りやすいんじゃないかと思うんですね。

子どもになられた神さま

  その点、クリスマスというのは面白い出来事だと思います。
  この世を救うために来られた救い主は、偉大な王さまでも強そうな戦士でもなく、また偉大な賢者のようでもなく、ただただ小さくて無力な一人の赤ん坊の姿で、この世にやってこられたんですね。
  「赤子の手をひねるように」という言葉がありますが、まさに手をひねられても抵抗もできないような赤ちゃんが救い主だというわけです。
  別に大きくなってから救い主になったというわけではなくて、生まれた最初から救い主でした。と言うか、もともと救い主であられた方が、わざわざ赤ん坊になってお母さんのマリアのお腹にやってきたのだ、と聖書には書いてあります。
  後に成長して大人になられてからのイエス様が、「心を入れ替えて、子どものようになりなさい」(マタイ18.3−4他)という教えを説かれたと伝えられていますけれども、イエス様ご自身が、いったん赤ん坊に戻って、そこから子ども時代、少年時代、青年時代を経て、そして大人になっていくという、一人の人間としての人生を最初から歩まれた、そういう人生経験を踏まえて、「あなたがたもわたしのようにいっぺん子どものようになったらどうかね」と勧めてくださっているとも考えられるわけです。

子どもになれない人間

  人間というのは大人になればなるほど、やり直しやつぶしが利かない立場に追い込まれていきます。
  大人というのは無数のプロセスや歴史の積み重ねの上に生きており、過去の経緯やしがらみなどから自由になることはなかなかできません。これに、それまで築き上げてきた地位や利害、責任といったものが加わってくると、いよいよ、いざ誰かと仲たがいをしたり、どこかと対立したり紛争状態になったりしたときの解決が困難になります。面子というくだらない呪縛で、自分をがんじがらめにしてしまっている人もいます。
  筋を通さねばならぬと思い込んでいるが故に、和解したくても和解できない。過去をご破算にしてやり直そうとした人が、逆に無責任とか無節操と言って非難される。大人というのはいったん壊れてしまった関係を修復する事が本当に下手くそです。これも、個人の問題でも社会の問題でも同じことです。
  しかし、子どもは違います。子どもには地位も面子もしがらみもありません。利害と言っても「おもちゃを取った」とか「取られた」とか、非常に単純なものしかありませんし、意地は張るけれども、節操はありません。ケンカに負けてくやし涙を流してじたばた暴れても、晩ごはんを食べるころにはケロッと忘れてます。
  なにより子どもには過去というものがありません。まだ何も決定されていない未来しかありませんから、とても自由です。そして、子どもには大人が振るうような権力や武力がありません。力がないから、力関係からも自由です。
  子どもというのは、人生の始まりの姿です。もし子どもになれるんだったら、大人にはやり直したいことがたくさんあります。二度と会いたくないと思っている人や、傷つけたり、傷つけられたりした関係を、もう一度そうなる前に戻ってやり直すことができるかもしれません。
  ただ、それは現実には無理だから、どうしようもないとあきらめて、心も体も硬直させて、私たちは苦い顔をして大人の毎日を送っています。

それでも希望は子どものように

  しかしイエス様は、そんな大人にあえて「子どものようになりなさい」と教えています。本当に子ども時代に戻ることなどはできるはずはありません。けれども子ども「のように」なりなさい、子どもに戻ったつもりになってみなさい、とおっしゃっています。
  それは、「あなたはやり直せるんだよ」「人間はやり直しがきくんだよ」という呼びかけです。
  「人生を子どもからやり直すつもりで、初めてではないことでも初めて出会うような気持ちで生き直してごらん。そうしたら、きっといろんな行き詰まりを乗り越えてゆくことができるはずだよ」というメッセージなんですね。
  私たちは、毎年こうやってクリスマスをお祝いしていますけれども、いつも赤ん坊の姿で来られるイエス様をお迎えするのは、私たち自身の人生の出発点を毎年思い起こし、初心を思い起こすことでもあるんですね。だからこそ、キリスト教の暦ではこのクリスマスが一年の初まりとされているわけです。
  赤ちゃんは過去には縛られない。あるのは未来だけです。赤ちゃんは小さくて弱々しいけれど、その未来の可能性は大きい。そして、もしその未来が憎しみや争いで汚れてきたら、また赤ん坊から生まれなおせばいい。最初からやり直せばいい。そうすることが人間には許されているんだよ、というのが、救いが毎年毎年赤ん坊の姿でやって来るクリスマスの意味なんですね。
  ある意味、たいへんしつこく、したたかな考え方かも知れません。何度でも、毎年赤ん坊からまた一年間やり直せると思っていますから、絶対にあきらめない。だから未来への希望は無限大に大きいんですね。
  世界中の人が、もう一度赤ん坊から人生をやり直すように、歴史をやり直すことができたら、どんなに世の中はよくなるでしょうか。何度でも振り出しに戻って、「お互いやり直そうじゃないか」と勇気をもって呼びかけることは、平和を作り出していくためにも大事なことだと信じたいです。
  もうすぐ2001年も終わりです。個人的にも社会的にも、この一年間のいろんな出来事を振り返るこの季節に、生まれたばかりの赤ん坊のイエスを心に抱いて、私たち自身も新しい気持ちに生まれ変わって、来年こそはもっと色んなことがよくなっていく年にしようじゃないか。赤ん坊を育てるように、私たちの希望も、大きくふくらませていこうじゃないか、と思うんです。
  今が暗く荒々しい世の中だからこそ、弱くても小さくても、したたかに何度でも希望を持ちつづけることが、とてもとても大切なことだと言えるのではないでしょうか。

祈り

  お祈りいたします。
  恵み深い天の御神さま。
  今年もまた、騒がしい世の中にあって、私たちがここに守られて、穏やかなクリスマスを迎えることができます恵みを感謝いたします。
  世の中がどんなに希望を見出すことが困難に思われる状況になっても、私たち自身の未来に希望を見出す強さを、どうか与えてください。
  ここに集う全ての人が、希望に満ちた新しい年を始めることができますように、どうか守り、導いてください。
  この祈りを、イエス・キリストの御名によってお聞きください。
  アーメン。

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