人の子イエスの感性に寄り添う

2007年11月11日(日) 日本キリスト教団甲南教会 秋の特別礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書5章21〜26節 (新共同訳・新約)

  「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

小さな対話

  私は、いま自分が遣わされております学校で、高校3年生の新約聖書の授業を担当しています。生徒たちといっしょに聖書を読み、私が解説し、それに対して思うことや考えることを比較的自由に書いてもらうという、地味な授業を続けています。
  生徒たちは、イエスという人を、三位一体の神のひとつの顕れである方だとか、神の子であるとか、そういう見方をしていません。イエスも歴史上に存在したひとりの人間に過ぎず、その言葉や行いも、特別な人のものだという感覚がほとんどありません。イエスがじっさいに存在したかどうかについても疑っている生徒がいるくらいです。
  そんな中でいっしょに聖書を読んでいくと、いろいろな反応があります。たとえば、これは最近私の心に強く残った生徒の反応なのですが、「敵を愛しなさい」ということをイエスは教えています(マタイ5章43−44節)。これに対して、先ごろ問題になった元防衛大臣である久間章生氏の「広島・長崎への原爆投下はしょうがない」という発言を引き合いに出して、「敵を愛することは大切である。だから(久間元大臣の発言は)自分も仕方がないと思う」と言う子が現れたりします。
  これはどういうことかと言いますと、「原爆自体は落としてはいけないけれども、第二次世界大戦おいては、落としてくれたから戦争が終わったわけだし、もしあのまま戦争が続いていたら、私は生まれていないかもしれない。被害を受けた日本が敵であるアメリカを赦さないかぎり、平和は訪れない」というのが、この人の考えなわけです。
  これは、アメリカの軍人の子どもや孫たちの多くが、「あの原爆で戦争が終わらせたから、おじいちゃんは日本で戦死することなく帰国して、その結果ぼくたち私たちが生まれたんだ」と言っているのとまったく同じ論理なのですね。
  こういうレポートに私はコメントを書いて返すわけですが、このときは2つのことを書いて返しました。1つは、「あなたは自分が生まれるためには、自分よりも先にこの世に生まれてすでに生きていた人たちが何十万人も殺されることが必要だったと言うのですか?」という少し厳しめの問いかけでした。もう1つは、広島の原爆記念公園にはこういう碑文があります。
  「安らかに眠ってください、過ちは繰返しませぬから」
  被害者であるはずの広島に、なぜ「過ちを繰返しませぬから」という碑文が刻まれてあるのか、いったいこれは誰の「過ち」のことを指しているのか、さまざまな論議があるようですが、素直に読んで、やはりあれは日本人自身の戦争責任に触れているのだろうと思います。そして、敵か味方か、どちらが悪いのかという問題を超えて、戦争というものを引き起こす人類の普遍的な罪の感覚に触れているのだろうと思います。そこには、もう敵を一方的に責める気持ちはない。亡くなった方々は贖罪の死を引き受けられたのだ。我々は赦し、赦されることが必要なのだというメッセージをここから読み取ることができるよ、ということを簡潔に書きました。
  これを読んで、その生徒がその後、どんな風に考えてゆくのか、それはわかりません。1学年300名近くいる一人ひとりについて、後々まで深い対話を続けることは不可能ですが、イエスの言葉をめぐってのこの小さな対話が、少しでもその人の心になんらかの痕跡を留めてくれればと願いながら、毎日取り組んでいます。

腹を立ててはならない

  さて、今日のテクストとして選ばせていただいたのは、生徒たちの間でもっとも賛否両論が分かれた聖書の箇所のうちの一つです。というより、圧倒的多数が、イエスの言葉には納得ができない、反対であるという反応でした。
  イエスはこのように教えます。
マタイによる福音書5章22節以降、「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
  私などはイエスの言葉をできるだけ積極的な意味で受け取りたいと考えてしまいます。ですから、この続きに、「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」(23−25節)、と書いてあるのを読んで、「ああそうか、イエスが私たちに伝えようとしておられるのは、隣人と和解することの大切さなのだな」と、また「祭壇に供え物を献げるよりも、兄弟との和解のほうが優先されるということは、ひょっとしたら宗教的な儀式よりも、他者との人間関係のほうが優先されると考えてもいいのかな。これは面白いな」とか考えたりするのです。
  しかし、生徒たちにとっては、イエスは特別な人でもなんでもありません。イエスの言葉に対しても、賛否両論自由に意見を述べていいということになっていますと、意外にイエスの言葉に納得がいかないという人がたくさん出てきます。

心を支配してはならない

  これは、例えば、さらに聖書を読み進めていきますと、次には「姦淫してはならない」と新共同訳聖書では小見出しがついている記事があります(これ、正確には「姦淫してはならない」ではなくて、「姦淫を思い浮かべるだけでもいけない」だと思うのですが、まあそれはさておき)。マタイの5章27節以降、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と書いてあります。
  これはたぶんほとんどの人間にとっては無理な話です。隣人の妻でなくとも、少なくとも自分のパートナー以外の人を、性的な視線で見たことが一切ないという人は珍しいと思います。
  「腹を立ててはならない」にしても、「隣人の妻をみだらな思いで見てはならない」にしても、生徒たちにとっては「これは人間の内面への不当な介入だ」と感じられるようです。
  もちろん、前向きに受け止める意見もいくつかありました。たとえば「人間にとって最も大事なのは外面ではなく、普段見えない部分であり、人間は自分の内面に対して厳しくしなければならないと思う」と書いてきた人がいました。
  しかし、圧倒的多数の人たちは、「人間の自然な感情を否定するのは間違っているのではないか」という反応を示しました。
  「人間は表に出さなくても、心の中でいろんな事を考える生き物です。それがあって、その人それぞれのいろんな考え方や感受性や個性が出てくるものだと思うから、それをしてはいけないという道徳観はいけないと思う」と書いてきた子がいました。
  また、「他人に見えない心の内面まで指導されたくない」とはっきり書いてきた子もいました。
  「心の内面まで指導されたくない」。
  この言葉を私は重く受け止めたいと思いました。
  今の日本は、『心のノート』が全国の児童・生徒に配布され、教育基本法は改定され、政府が国民の心を支配したがっている時代です。数年後、数十年後に政府に都合よくマインドコントロールされるような国民を作るべく、教育現場で着々と計画が進められているこのような時代にあって、「心の内面まで指導されたくない」、「内面まで支配されたくない」という叫びは本当に大切なものだと私は思います。これからの時代には、こういう健全な姿勢を保ち続けることはとても大事です。ですから、これはイエスの言葉に反抗しようとしている意見だけれども、成績としては、私は高い評価をつけました。

デリケートなイエスの感性

  しかし、その一方で、イエスの鋭敏な感性というものを、前向きに受け止めることもできるのではないのかな……とも思います。
  ある人に腹を立てている自分、あるいは、ある人のことをみだらな欲望で見てしまっている自分。そんな自分を恥ずかしいと思ったり、そんな自分は醜いと感じ取る感性、または価値観といったものを持つことは、悪いことではないのではないか、とも思うわけです。
  どんなことを感じ、どんな感情を抱き、どんな考え方をして、どんな風に表すのか、あるいは表さないのか、それは基本的に自由であるべきです。それはもちろんなのですが、誰にも見えない自分の内面についても、「かくこうありたい」という美意識を持つことは、大切なことなのではないでしょうか。
  「面(おもて)に出さなければいいのだ、態度や行動に表さなければ、人は何を考えてもいいのだ」といいます。しかし、自分が愚かなことやみだらなこと、悪意や悪だくみ、怒りや憎しみなどで自分の内面が満たされているならば、それはあまりうれしいことではないのではないでしょうか。
  文字通り「心から」美しいものでありたい。自分の心の中が怒りや憎しみやみだらな思いで満たされていたくない。できれば、ひとの存在を尊い、大切なものと思う心、ひとのことを愛する心で満たされていたほうが、人は健やかに生きられるのではないか。また、逆に言うと、人の心は健やかなときにこそ、人を愛する気持ちに満たされるのではないでしょうか。
  
「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイによる福音書5章22節)、あるいは、「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」(29節)というイエスの言葉自体は、たいへん過激なものです。しかし、イエスがいかに潔癖でヒリヒリするような鋭敏な感性を持っていたことの証しでもあるようにも感じられます。
  自分の心の中から、醜い、どす黒い思いを取り去ることができない。そんな自分の中にある闇の部分について、悩む感性があるということは大事なことです。人に見えなければ、心の中で何を考えても思い浮かべてもいいんだ、という開き直りではなく、人には見せられない自分の中の闇について真剣に考え、見すえておくということは大切なことです。

罪ある「人間」イエス

  さて、「イエスは人となられた神である」と神学では言われています。だからこそ、イエスは人間の生きる苦しみを深くご存知なのだということなのです。
  しかし同時に、「イエスには一切の罪がないにもかかわらず、贖いとして十字架にかかられた」ということも言われています。
  この言葉には矛盾があります。人間の苦しみの中には、自分自身の罪深い心、あるいは罪深い行いに、自ら悩み苦しむという面があります。イエスが人間の苦悩を知っておられるとするならば、イエスご自身も罪を抱く苦しみをじっさいに経験し、知っておられるはずではないでしょうか。そうでなかったら、イエスが人間の苦しみをご存知であるとは言えないのではないでしょうか。
  ですから、実際に罪深い行いをしたかどうかはともかく、イエスご自身も心の中に罪深い思いを抱き、それと葛藤し、悩んだ経験をお持ちのはずだと、私は思っています。
  イエスご自身が憤りを感じて弟子たちを叱ったり、神殿で暴れたり、ということがあったことは、聖書を読む人なら知っています。イエス自身がよく腹を立てる人だったのです。だからこそイエスは、人に対して怒りを抱き続けることのつらさ、不愉快さを知っておられるはずです。
  また、イエスご自身が女性に対して、「ああ、いい女だなぁ」という目で見たこともあったのだろうと思います。そして、あわててそんな自分のみだらな思いを恥じたり、ということがあったのではないでしょうか。若きイエスの青春、といった時期もあったのではないか……。

一人の男、イエス

  このことに関して、私はある聖書の箇所を思い出します。それはヨハネによる福音書8章です。じっさいに読んでみましょう……。
  
「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のとことにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。』」(ヨハネによる福音書8章1−11節)。
  この聖書の箇所を読むとき、私はどうしても、なぜイエスは「わたし『も』あなたを罪に定めない」と言ったのだろう、と気になるのです。これは私の全くの推測ですが、イエスはここで「みだらな思いで他人の妻を見る者は……」というご自分の言葉を思い出していたのではないかと思うのですね。
  この女性を姦通の現場で捕らえたとき、人びとは、人がこれ以上恥ずかしいことはないという現場をとらえた残虐な喜びでいっぱいだったことでしょう。そして、自分自身のなかにあるみだらな欲望を満足させられない代わりに、このみじめな女性をいじめることで、その欲望を屈折した形で発散しようとしていたことは明らかです。
  イエスが人びとに、「罪のない者から石を投げよ」と言ったとき、イエスは当然人びとの心の中に秘められた、みだらな欲望に気づいておられたと思います。
  また、なぜ現場を抑えたのに、女性だけが捕まって、相手の男は逃げおおせているのか。逃げられてしまったのか、わざと逃がしたのか。その不可解さも苦々しく思われたことでしょう。この女性を抱いた男と、捕まえた男たちの抱いている欲望は同じものなのです。「罪のない者から石を投げるがいい」と言ったとき、その欲望に自ら気づけ、とイエスは言っているのだと思います。
  そして、人びとが去っていった後、イエスは「わたし『も』あなたを罪に定めない」と言います。「わたしも、一人の男だ。だからあなたを裁く権利なんかないんだよ」と言いたかったのではないでしょうか。

人の子イエスの感性に寄り添う

  こうして、イエスの言葉と行いを少し観察するだけでも、彼がいかに純粋で、激しいばかりに潔癖な心を持っていたかということが、よくわかるような気がします。自分に厳しいぶん、人には優しいのですね。
  イエスのことを知ろうとする者は、この純粋な心をいっしょに生きてみるのがいちばんいいのだと思います。それは、単純にきれいな心になるということではありません。そんな風には人間の心はうまくいきません。人間の内面には、醜いもの、恥ずかしいものがたくさんあります。しかし、そんな内面をごまかさずにしっかり見据え、それに流されない自分をしっかりを保って生きるということができるのではないでしょうか。
  イエスのことを「人の子」と呼ぶことがあります。聖書の中には、イエスが「人の子」という言葉を使う場面がいくつもありますが、この言葉には二重の意味があって、文字通りの「人の子」つまり「人間」という意味と、旧約聖書の
ダニエル書7章13節に、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗」ってやってくる、と記されていますので、この世の終わりのときにやってくる天の使いのような者、という二つの意味が重ね合わされています。
  しかし、長い歴史を通じて書き記された旧約聖書の中では、単純に「人間」という意味で使われている例のほうが圧倒的に多いです。ですから、イエスは自分のことを「人の子」と語るとき、「人間中の人間」という意味で語る場面は多かったことでしょう。
  「人間中の人間」、「人間らしい人間」として真摯に生きようとしたイエスにならって、純粋に、潔癖に、愚直に、真摯に、生きるという選択もあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
  一言お祈りをしたいと思います。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日、こうして神戸の甲南教会において、私たち共々に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
  イエスのように、純粋に、潔癖に、愚直に、真摯に生きる道を、私たちが歩めるように、どうか私たちを強めてください。
  自らの罪を認めつつ、人を裁かず、互いに赦し合いつつ、罪を乗り越えてゆくことができますように、どうか私たちを導いてください。
  イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
  アーメン。

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