神がお望みならば

2006年7月31日(月) キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第3日目 朝礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:使徒言行録 21章7節〜14節 (新共同訳・新約)

  わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日をそこをたってカイサリヤに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の娘がいた。
  幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」
  わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへが上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
  そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
  パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。

「イン・シャー・アッラー(神がお望みならば)」

  わたしたちは「自分の力で何でも解決しなければならない」と思い込みがちです。また、想定外のことが起こって自分の計画が狂わされると、非常に腹立たしい気分になったりします。計画や思惑のとおりにいかないことが起こると、どこに責任の所在があるのかをはっきりさせなければ気がすまないという人もいるでしょう。
  宗教を持たない日本人の大多数の人にとっては、そのように考えるのが普通のようです。
  しかし、神の存在を前提に物事を考える、キリスト教やユダヤ教やイスラームの信徒は、そこまで人間の責任の追及をすることはありません。
  たとえば、イスラームの言葉で(アラビア語ですが)
「イン・シャー・アッラー」という言葉があります。聞いたことがある方もいらっしゃるかも知れません。「イン・シャー・アッラー」:「もし神がお望みならば」という意味です。もっとやわらかい言い方にすると、「神さまがそうなるようにしてくださったらね」ということですね。
  イスラームもキリスト教も、同じユダヤ教から別れ出てきた兄弟姉妹のような宗教なので、呼び方はアラビア語では「アッラー」と言ったり、英語圏では「ゴッド」と言ったり、日本では「神さま」と呼んだり、いろいろ食い違いますが、結局のところ同じ神さまを信仰しています。だいたい「カミ」という日本語はキリスト教が日本に入ってくるはるか昔からあったわけで、キリスト教のほうがあとで、その言葉をいただいて「神さま」と呼ぶようになったわけです。
  まぁ結局、いろいろ呼び方は変わっても、同じ「なにものか」を想定しているわけで、これらの3つの宗教は実は同じ対象を信じている姉妹宗教なわけです。ですから、イスラームの信仰は、キリスト教の参考になる部分もいくつかあります。
  そのひとつが、この「イン・シャー・アッラー」です。
  例えば、人と約束するときにも、「明日の何時までに、かくかくしかじかの書類を提出せよ」と命令された場合にも、必ず「はい。イン・シャー・アッラー」と言います。そして、もし約束の書類が間に合わなかったとしても、「それは神さまがお望みにならなかったからだ」と考えるのです。「私は最善を尽くしたけれども、神さまがそれをお望みにならなかったからだ」と説明します。いかがでしょうか?
  これが、なんでも人間の力に頼って完璧を目指さなければならないと思いがちな日本人には「いいかげんな考え方」に見られて、理解されにくいところなんです。

人間の限界

  でもね、たとえば、自分が約束した書類、明日の朝一番8時半に会議の参加者ぶんコピーして整えておけという命令を受けて約束をしたとします。そしてあなたは夜10時近くまでかかってその書類を仕上げ、間違いなくハードディスクにも保存した。そしてあとはプリントアウトするだけだという状態で帰ろうとした。
  (みなさん、もうこれでこの人は致命的なミスを犯したのはおわかりですよね? 本当は印刷してコピーしてから帰ればよかったのですが、まぁこれは「たとえば」の話ですからご勘弁いただいて……)
  そして、あなたは学校から帰った。いつも8時10分には出勤しているのだから、20分もあればプリントアウトしてコピーして間に合うだろう、そうあなたは考えた。
  そして、翌日の朝、いつもと同じように起きて、あなたは朝食を取り、歯を磨き、着替えて、カバンを持って、電車に乗る。いつもと同じようにつり革を握って電車に揺られて行く。
  そして、その電車の運転手が日勤教育で精神的に追い詰められていたとする。本来出してはならないスピードの区間を、出してはならないスピードを出して走りぬけ、その結果、電車が沿線沿いのマンションに突っ込んでしまう大惨事が起こってしまったら……
  あなたは学校に行けますか?!

  人間の約束というのは、どんなトラブルがあって達成できなくなるかわかりません。人間の約束というのは、大なり小なり必ず破られるリスクを抱えています。この人間が予想することも、操作することもできない偶然の出来事を、すべて人間の責任に帰すのは、とても残酷なことです。
  そんなとき、「人間の努力の届かないところは、すべて神さまの領域だ」と考えたほうが、人に対してはやさしいのではないでしょうか。どんな偶然の出来事が、私たちの前に現れるかわからない。そこは神さまのせいにしてしまったほうが、人にやさしいとは思いませんか?
  こういう考え方をすれば、偶然の出来事のために、計画通りにいかなかったことで、自分を責めたり、ひとの責任を追及したり、ということを徹底的にやる必要がなくなります。人間にはコントロールできないこともあるんだ、と認めることが、人間を楽にしてくれるのです。
  そして、その代わり、計画がうまくいったときには、「神が許してくださったおかげだ。神は私に味方してくださった」と喜ぶこともできます。アラビア語では「アルハムドゥーリッラ!」と言います。「神さま、ありがとう」という言葉です。
  日本語にもいい言葉が伝わっています。
  
「人事を尽くして、天命を待つ」
  日本人には、「人事を尽くして、人事を尽くす」という人が多すぎるのかも知れません。ですから国民の15パーセント近くがうつ病にかかってしまうという現実もあるのでしょう。
  しかし、「人事を尽くして、天命を待つ」。自分にできることは、可能な限りやってみて、それでも手の届かないところは神さまにお任せしようというのは、いい加減なように見えて、実は見方を変えれば、たいへん現実にかなった、そして人にやさしい考え方と言えるかもしれません。

人事を尽くして、天命を待つ

  で、聖書の話に戻りますが、さきほど読んだ聖書の箇所も、このような「イン・シャー・アッラー=神さまがお望みならば」と考える人間の態度が現れているところです。
  キリスト教が生まれて間もないころ、まだイスラエルのエルサレムという街ではキリスト教徒に対する迫害と弾圧があったのですが、パウロというキリスト教の伝道者が、このエルサレムに出向こうとします。
  なぜこのパウロという人がエルサレムに行こうとしたのか。パウロというのは2000年前の新興宗教だったキリスト教の伝道者ですが、この人は、ずっとエルサレムの本部から離れたところで、伝道していたんです。
  これは例えば、学校の話で言うと、同志社というのは本部は京都にあるんです。しかし、私がやってきた同志社香里という学校は本部からポツンと離れたところに校地がある。で、この離れた校地でがんばっているのがパウロです。そして、自分としては一度本部に行って、本部とのつながりをつけないと、これから先仕事はできないんだと思っている。だから本部に行くぞと言うのですが、本部のエルサレムではエルサレムでキリスト教に対する迫害は非常に強まっている。逮捕されたり、投獄されたり、拷問を受けたり、殺されたりしている。
  そんなところに行ったら殺されるから、「頼む、パウロ行かないでくれ!」とパウロの友人たちは彼を必死になってとめようとするのです。しかし、パウロはエルサレムに行くのをやめようとしません。
  どうしても言う事を聞かないパウロに対して、人びとは最終的には、
「主の御心が行われますように」とだけ言って、あとは口をつぐんでしまいます(使徒言行録21章14節)。「イン・シャー・アッラー」と同じです。
  パウロは人事を尽くそうとしているのだから、あとは天命を待とう、ということになったわけです。

人間中心主義ではなく

  なんでも人間の、すなわち自分の努力で完璧なものにしなければならないと思うのは、たいへんしんどいことですし、それができなかった時の落ち込みやストレスもとても激しいものになってしまいます。
  すべては人間の働きと神の働きの複合によって行われている。うまくいかなかったときには、「神がそれをお望みにならなかったからだ」と考えるようにし、うまくいったときには、「神さまが助けてくださった」と考えるようにすれば、人間はもっと楽に生きられるんじゃないでしょうか。
  ここにおられる皆さんも、日々の仕事の中で、思い通りにならないことや、ストレスに感じることは、しょっちゅう起こっていることでしょう。特に、私たちは若者や子どもを相手にしている仕事ですから、物事が計画通りに行かないことはしょっちゅうありますし、いやむしろ、大人との関係のほうが難しく、思い通りにいかないことが多いかも知れません。
  しかし、相手が大人であれ、子どもであれ、すべては神のお望みならばかなうこと(イン・シャー・アッラー)という具合に大きく考えて、そして「神さま御心にかなうようでしたら、お助け下さい」と心の中で祈りつつ仕事をしてゆくほうが、はるかに健康に日々を生きることが出来るのではないかと思うのです。
  これからのみなさんのお働きが、神さまに守られ、導かれて、実り多いものとなりますように、お祈りしたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  神さま。
  この夏期学校の研修も、3日目を向かえました。ここまで研修を続けられましたことを心から感謝いたします。
  この最終日もあなたの御心が働いてくださって、実りあるよき一日として過ごせますように、どうか私たちのそばにいてください。
  職員と教員がひとつになれますように。
  ここに集う一人ひとりが、あなたに守られ、あなたに運命を委ねながら、救われた思いで生きることができますように。
  主イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール