数に足らぬわが身なれど

2001年12月2日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・アドベント第一聖日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:サムエル記上16章1−13節(新共同訳・旧約・p.453−454)

  主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、その時わたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
  サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間は見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残ってますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

エッサイの根

  クリスマスに歌われる讃美歌の一つに、「エッサイの根より、生いいでたる〜♪」という歌があります。
  クリスマスの讃美歌の歌詞には、なぜか耳についてしまう言い回しというのがありまして、例えば「シューワッキーマッセーリー、シューワッキーマッセーリ〜♪(主は来ませり、主は来ませり)」というのも、初めて聞いた人にとっては、何語かわからん呪文のように聞こえることも多いそうであります。
  私の場合は、この「エーッサイノネヨーリー」というのが、キリスト教に触れて間もない思春期の頃から妙に気になるフレーズでした。昔、関西学院に通っていた頃、毎年のように参加していたクリスマスのキャンドルライトサービスで、歌うたびに何か不思議な語感というか、妙に耳について離れない歌詞であったことを憶えています。
  この「エッサイの根より」という歌詞は、ご存知の方も多いと思いますが、イザヤ書の11章、
  
「エッサイの株よりひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ書11章1−2節)
  と預言されていることに由来しています。
  「若枝」というのは、来るべき若きメシヤ(救い主)のことであり、その救い主はエッサイの根より生まれ出る、と。エッサイはダビデの父親でありますから、メシヤはダビデの家系から再び出る、と予告する預言であります。
  他にも、
エレミヤ書23章5節では、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」と預言されており、ダビデやソロモンが築いたイスラエル王国の黄金時代もはるかな過去に遠ざかった時代、周辺諸国の侵略戦争に踏み荒らされる中で、再び新たな救い主がダビデの家系から出ることを待ち望むイスラエル人たちの民族感情が色濃く出ている預言と言えます。
  本日お読みいただきました聖書の箇所は、エッサイのもとに預言者サムエルがやってきて、エッサイの末の息子ダビデを、新しい王となるべき人物として見いだす、その初めての出会いの場面であります。

「シャローム」

  エッサイの一家はベツレヘムという、エルサレムの南方10キロ以内の地点にあるユダ地方の山間の街に住んでおりました。
  サムエルがベツレヘムに着くと、出迎えに来た街の長老が、不安げに出迎えて、
「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」(サムエル記上16章4節)と尋ねた、とあります。時節柄、「平和なことのため」という言葉がそういう意味であったのか、ちょっと気になります。ここでは「不安げに」と書いてありますが、原典では「身を震わせながら」であります。
  サウル王に油を注いで王として任職し、その王に神の言葉を逐一取り次いできた超大物の預言者が、突然山あいの農村にやってきた。そしてその街の長老が身を震わせながら「平和なことのために、あなたは来られたのですか?」と聞く。いったい、その頃のサウル王の政治とはどんなものだったのだろうか、またサムエルは一般民衆にとってどのように受けとめられていたのだろうか、と想像をめぐらせたくもなる場面であります。
  もともとサムエルは、イスラエル民族が王を立てて、王国を樹立するという事には懸念を表明していました。そして、
「あなたたちは王の奴隷になる。あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ」(サムエル記上8章17−18節)と警告していました。部族連合の共和制から王制へと政治改革を行ない、周辺の王国との戦争に明け暮れるようになったイスラエルの指導部に対して、国民はどういう感情を抱いていたのか、はっきりとしたことは言えませんが、この街の長老は、政治の中枢にいるこの預言者に「あなたは平和なことのためにここに来たのか」と、身を震わせながら問いかけているのであります。
  この問いかけに、サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来て下さい」と応えます。
  「平和なことです」と言われた、この「平和」は、おなじみ「シャローム」という言葉です。ここでは「平和なことです」と書かれていますが、実はサムエルはここで単に「シャローム」と応えております。
  「シャローム」は挨拶の言葉でもあります。
  たとえば、イエスが復活した後、十字架で死んだイエスのことをああだこうだ話している弟子たちの真ん中に、突然復活のイエスが現れた、そのとき
「あなたがたに平和があるように」と言われた、とルカによる福音書には記されています(ルカによる福音書24章36節)。しかしあれも要するに、イエスが生前ふだんから話していた言葉であるヘブライ語で「シャローム(こんばんは)」と言って現れたわけです。
  日本には「言霊(ことだま)」という考えがあり、人の口から発せられる言葉にこもる霊的な力が、現実の出来事となって顕れてゆくという信仰が古来からありましたが、イスラエルの預言者もまた、その口から出る言葉は神から預かったものでありますから、その言葉はこの世に実現する力を秘めたものとして受けとめられたものでした。
  ですから、預言者サムエルが「シャローム」と挨拶をしたとき、それは単に挨拶であるのみならず、そこには、主の平安、平穏、おだやかな完全なる世界がすでに顕れはじめている、そういう力が宿っている、そのようにも受けとられた「シャローム」なのであります。
  「おいでくださったのは、シャロームのためか」と聞く長老に、サムエルはうなずき、「シャローム」と応える。そこには、これから再び構築されなければならない平和のために新しい王を選ぶミッションを携えた預言者の、その使命感もこもっております。なかなか緊張感のある、味わい深い言葉の交わし合いではないかと思います。

数に入れられぬ半人前

  さて、そうしてサムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。しかし、全員が招かれたはずの食事の席に、ダビデという末の息子だけが、招かれておりませんでした。この末っ子は、他の兄たちがサムエルの面接を受けている間、一人で羊の番をさせられておりました。
  ユダヤ教律法の解説集であるミシュナは、成人した男性が羊を世話することは禁じているそうです。これは、年頃の男性が羊を相手に性的な欲求を処理してしまう、つまり獣姦をしてしまうことがあるからで、たとえば、レビ記の20章15節には「動物を交わった男は必ず死刑に処せられる」と書いてありますが、そういう律法がわざわざ作られたということが逆にじっさいにそういう行為がよく行なわれていたことを示します。それで、その律法を破らないために、律法の解説書の方では具体的に、羊の世話はもっぱら少年にさせよと命じているのであります。
  旧約聖書の言葉遣いで、性行為の経験があることを「善悪を知る」という言葉で表現する事がありますが、逆に言うと性体験ともまだ縁がないような少年は「物事の善悪も知らない」、日本風に言うと「右も左も分からない」半人前の小僧といった扱いです。
  そういうわけで、父親であるエッサイから見れば、ダビデという末の息子は、大預言者と共に囲む食事の席に呼ぶような者ではない。数に入れるべき存在ではない小僧だったのであります。
  ダビデにしても、兄たちが出かけている間、羊の面倒を見ながら留守番をするというのも、今日に始まったことではなかったでしょう。ですから、「まだ他に息子はいないのか」と預言者さまが探しておられると聞いて、いちばん驚いたのはダビデ自身であったかもしれません。
  しかし、聖書の伝統から見れば、ダビデが誰からも顧みられていないような存在であるが故に、主はダビデを選ばれたのだ、とも言えるのであります。
  なぜならば主なる神は常に、この世で最も軽んじられている者、最も目立たぬところで目立たぬことをしている者に、目を留められてきたからであります。

人の目と神の目

  神がご自身の意志を行なおうとなさる時、どのような人間を選んでこられたのか。聖書をひもとくと、神は常に「数に足らぬ者」をこそ選んでこられたことがわかります。
  エッサイの末息子ダビデが、一族で最も顧みられていない、数に足らぬ小僧であったことは先にも申し上げましたが、実は、かつてサムエルがダビデの前の王サウルを選び出した時もそうでした。
  サムエルがサウルを見出した時、サウルに
「全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです」(サムエル記上9章20節)と告げたときも、サウルは「わたしはイスラエルで最も小さなベニヤミン族の者ですし、そのベニヤミン族でも最小の一族です。どのような理由でわたしにそのようなことを言われるのですか」(同21節)と答えています。
  また、そもそも神はイスラエルという民族を選んだとき、この民族をご自分の「宝の民」であるとされたと言われておりますが、その理由も申命記7章7節にはこう書かれてあります。
  
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と。(申命記7章7節)
  個人を選ぶ時であれ、集団を選ぶ時であれ、神は常に弱く小さい存在を愛し、選ばれるのであります。
  残念ながら、サウルは王になってから主の命令に忠実な僕ではなくなり、サムエルを通して伝えられた主の言葉よりも自らの判断を優先させるようになりました。そのため、主はサウルを退け、サムエルは彼の退陣を要求します。
  またエッサイの子ダビデも、いったんイスラエル王国の黄金時代を築いて強大な権力を手にしてしまうと、「バト・シェバ事件」――自分の部下の妻を寝取った上に、その部下を謀略によって殺してしまうというスキャンダルを起こすまでに堕落し、預言者ナタンを通して主から厳しく糾弾を受けます。
  人は、一度は神に選ばれた者となっても、神が自分が選ばれたのは、弱く小さな数に足らぬ存在であったゆえにこそなのであるということを忘れ、自らの能力、特技、あるいは容姿などに誇りを抱き始めた時、神はその人を選びから外されるのだ、ということなのでしょう。
  だからこそ、新約聖書の時代になってパウロは、コリントの信徒への手紙の中で、しつこいくらい再確認するように語っています。
  
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリントの信徒への手紙T1章26−29節)
  見栄えのよさ。目に見える有能さや美しさ、強さ。また豪華なもの、壮麗なもの。そういったものや人物を、人はもてはやし期待を寄せがちであります。そして、そういう存在によりすがったり、すりよったりすることで、自分もその壮麗なものとつながっているのだという満足を得たい欲望にかられます。
  しかし、エッサイの息子たちを選ぶサムエルの耳には、「私は人間が見るようには見ない」という主の言葉が響いておりました。
  
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16章7節)のであります。

足らずとも力の限り

  もちろん、神が常に弱く、小さく、人の目に劣った者を選ばれるからといって、常に自ら人より劣った者でいよう、いつも一歩下がっていようとするのは、とんでもない心得違いであります。
  主は、目に映ることを見るのではなく、心を見られるのです。それゆえに、形だけの謙虚さは必要ありません。
  私は本来数に足らぬ者である、という謙虚さを保ちつつも、ひとたび機会を与えられたならば、即座に一歩前へ出て、体力も頭脳もそして心をすり減らしてでも、多少の失敗やリスクは覚悟の上で、その与えられた使命に尽くす気構えが、人間にはなければならないのではないかと思います。
  自分は人並み外れて優れた力もなく、人の目を引く特技や容姿に恵まれているわけでもない、どちらかと言えば人より劣っているところが多いし、人からとりたてて注目されたこともない。正直言ってコンプレックスの固まりである。しかし、そういう人間だからこそ神は、選び、有効に用いてくださるのだと、そう信じて生きることで、私たちは自分の人生をとても価値あるものだと感じながら生きることができるのではないでしょうか。
  アドベントに入り、クリスマスを迎える備えを私たちは始めております。私たちのメシヤ:救い主イエス・キリストが、この世で最も弱く小さな存在である赤ん坊の姿でこの世に来られたことも何をかいわんやであります。
  救い主ご自身が、もっとも無力な存在として来られ、また最も無力な者としてこの世から去られたのに、まして私たちが「わたくしはなんにもできない者でございます」などと慇懃(いんぎん)さを装っておれましょうか。
  「数に足らぬわが身なれど、どうぞ主よ、私を用いてください」と、足らぬ力であっても包み隠さず、精一杯に献げて生きてゆく、そのような生き方もあるのではないかと、思うのであります。

祈り

  祈ります。
  親愛なる、私たちの造り主であられる御神さま。
  救い主御子イエスのご降誕を祝う時が近づいております。弱く小さな者として私たちの救い主をお送りくださり、またいつも弱く小さな者をもっぱら用いてくださる、あなたの御業に感謝いたします。
  ここに集う全ての人が、あなたの御前に臆することなく、あなたに赦されてあることを信じ、あなたに与えられた本来の自分を受け入れ、勇気を持ってあなたに仕えて生きる、心豊かな人生を歩めますように。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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