愛する仕事

2008年4月3日(木) 学校法人同志社 入社式礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 13章3〜8節 (新共同訳・新約)

  イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

はじめに

  ここに集った新入社員の皆さんのなかには、キリスト教の礼拝にはまだ馴染みが薄い、あるいは初めてだという方がたくさんいらっしゃるだろうと思います。
  キリスト教学校である同志社は、あらゆる式典が、キリスト教の礼拝として行われます。しばし、世の中の喧騒から離れて、静かな場所に身を置き、集まったみんなで賛美歌を歌い、聖書を読み、祈る。そして、説教あるいは奨励と呼ばれていますが、一人の、ないしは数名の者が、キリスト教的な観点から、聖書の教えを解説したり、集まってきている方々へのお奨めの話をします。そして最後に再び神への賛美の歌をささげ、牧師が祝祷と呼ばれる祈りを、皆さんを再びこの世に送り出すために、ささげて終わります。
  そういうわけで、本日私に与えられました役割も、聖書の言葉に耳をかたむけ、そこから何が学べるだろうかといったことについてのお話をさせていただくことになります。

洗足木曜日

  本日、同志社女子中学校・高等学校の平松譲二先生が朗読してくださいました聖書の個所は、イエス・キリストが、十字架につけられて殺される前夜、弟子たちの足を洗ったというエピソードを報告している場面です。
  つい先日、3月23日の日曜日に、キリスト教の暦で「イースター」と呼ばれるお祝いの日がありました。
  「イースター」は、日本語では「復活祭」といわれています。イエス・キリストが復活したことを祝う日なのですが、「復活した」というからには、一度死ななければなりません。その死んだ日、「苦難を受けられた日」という意味で「受難日」と言いますが、その「受難日」が、復活日の2日前の金曜日です。
  そして、さらにその前日の木曜日、イエスは弟子たちの足を順番に洗ってあげた、という故事にちなんで、「足を洗う」すなわち「洗足木曜日(せんそくもくようび)」として世界中のキリスト教会で記念されます。その洗足のできごとを記録しているのが、本日お読みいただきました、聖書の個所であります。

弟子の足を洗うイエス

  これは、師匠にあたる人物が、弟子の足を洗うという場面です。
  イエスは自分が捕らえられて死ぬべき運命を悟り、いわば遺言のような意味をもって、弟子たちの足を洗いました。
  今からおよそ2000年ほど前のことです。土埃にまみれた街道を旅するものは皆、革で作ったサンダルを履いていました。サンダルを履いた足は、一日歩き回りますと、埃だらけになりました。そして、家や宿屋に入った者は、まずこの埃だらけの足を、真ん中が膨らんでいてそこに足を置けるようになっている、足洗い専用の桶に少しの水を入れ、手ぬぐいを使いながら、足を洗ったのでした。
  身分の低い者は自分で自分の足を洗い、位の高い者は、召使や奴隷に洗わせました。人の足を洗う行為というのは、召使がすることでした。
  ですから、イエスという先生が、弟子たちの足を洗い始めたとき、弟子たちはあわてました。特に一番弟子と言われているペトロという人物が、
「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(ヨハネによる福音書13章6節)と言っています。
  これにイエスは答えます。
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)
  そこでペトロは、
「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)と言います。
  するとイエスは、
「もしわたしがあなたを洗わないならば、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)と答えました。

後で、わかるようになる

  私は、このイエスと弟子たちのやりとりを読むたびに、教育というのはこういうものなのかも知れないな、と思わされます。
  イエスは言います。
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)
  教育というのは、すぐには花の咲かない木に肥やしをやっているようなものです。
  同志社の創立者・新島襄は、教え子への手紙の中で、同志社大学設立のための活動は、「農夫が田畑に寒肥(かんごえ)を施す」ようなものだと書いています(横田安止宛書簡(現代語訳)。今はすぐには結果がでないけれども、いつか必ずやって来る春に備えて、冬の寒いうちから肥料をやっておくのだ、というたとえであります。
  最近の世の中では、すぐに結果が出るものを歓迎し、すぐに成果や効果の現れないことに対しては、冷たくあしらう風潮が蔓延しています。
  しかし、教育という場面においては、すぐに効果がでるわけではないことに対しても、わたしたちは取り組んでいかなければなりません。

仕え合う関わり

  またイエスは、「もしわたしがあなたを洗わないならば、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)とも言いました。
  そこに表されているのは、先生が弟子になり、弟子が先生になる。あるいは、主人が召使になり、召使が主人になる、という逆説の象徴です。
  私は、私たちがこれから関わろうとしている園児・児童・生徒・学生たちに対して、私たちはサーバントとなるべきなのではないかな、と思います。
  それは教え子の言いなりになるという意味ではなく、若い魂たちが成長し、活躍するのに必要なものを、一緒に探し、進む道を整え、彼ら彼女らが自分から最大限の可能性を引き出すことができるように、手伝ってあげるサーバントです。
  また、私たち教職員も、たがいに仕え合う関係を築いてゆくのが、大切な事ではないかと思います。
  教員と職員が互いに仕え合い、支え合い、また教職員全員が学生・生徒・児童・園児たちを支えてゆく。そして、その教え子達が世に出て、世のために奉仕する。そうすることができて、初めて同志社は、世に対して仕えてゆくということが可能となるのではないか、と思います。
  いわば、この仕事は、人を愛するという仕事なのであります。
  みなさんが同志社に入られるということは、教え子達を、そして社員同志互いに、愛を持って仕え合う仕事をみなさんが選ばれた、あるいはこの「愛する仕事」に呼ばれている、召されているということなのだろうと思います。
  今日、入社されるみなさんと出会えた事を喜び、共に、これからも世に仕え、世を支える、世を愛する同志社を作って参りたい、と願っています。

  それでは、お祈りをいたしましょう。祈りの際には、よろしければ目を閉じていただきますよう、お願いいたします。そして、お祈りの最後に私が「アーメン」と言いましたならば、もし差し支えがなければ、続いて「アーメン」とご唱和願えればと思います。

祈り

  愛する天の神さま。
  本日は、私たち同志社の群れのなかに、このように多くの新しい仲間を迎えることができ、心より感謝いたします。
  私たちが互いに手を取り合って、支え合って、世に仕えてゆくことができますように。
  また私たちが、奉仕することの喜びを知ることができますように。
  どうか神さま、お導きください。
  イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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