刀を聖書に持ちかえて

2006年11月24日(金) 同志社国際中学校 創立記念礼拝奨励

説教時間:約15分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 12章24〜25節 (新共同訳・新約)

  はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

キレる人、新島

  みなさんは「キレること」ってありますか?
  あの、プッツーンと忍耐の緒が切れて、大きな声で怒鳴ってしまったり、人を突き飛ばしたりすることってありますか?
  あんまりそういうのって人間として尊敬できないと思うかも知れませんけど、友だちがキレたとか、先生がついにキレたとか、あるいは自分自身がまんできなくなってキレたことがある人もいるんじゃないかと思います。「いや、わたしは簡単にはキレない」「ぼくはキレません」という人は、それはそれで結構なことです。そういう落ち着いた人は立派です。
  でも、やはり人間ですから、カーッとなることというのは絶対にないとは言い切れません。外から見ていたのでは落ち着いているように見えても、心のなかではぶちキレているということもあると思います。
  今日は創立記念礼拝で、同志社を作った新島襄先生の話をしようと思っているのですが、新島襄の生涯について、いくつかの本を読んでいると、ときどき新島という人の意外な面を見つけることがあります。それが新島先生もキレることのあった人だったという点なんですね。
  彼はサムライの子でした。若いときは、新島「襄」ではなくて、新島「七五三太(しめた)」という名前であったことは、みなさん授業で習って知ってますよね。
  どうもこの七五三太さんは、結構凶暴な若者だったみたいなんですね。幼い頃、ある塾に通っていたときに、自分のお弁当のおかずをネコに取られたことがあったんですね。そのとき思わずカッとなって、そのネコを殺してしまった。それだけではなくて、そのネコを猫汁にして食べてしまったという話があるんですね。ずいぶん残酷な話ですよね。
  あるいは、春のお花見に行ったとき、ある桜の木の前に、「一枝を折る者は一指を折る」、つまり「一本枝を折った者は、一本指をへし折る罰を与えるからそう思え」と書いた立て札が立ててあったらしいんですね。要するに桜の枝を折って持っていくな、折った者は指を折るぞ、ということです。その立て札を見たときも、やはり七五三太はカッとなって、腰の刀を抜いて、その桜の木の枝を1本どころか5本も切り落としたらしいんですね。
  他にも、人を切り殺そうとしたことがあります。日本を脱出してしばらく、彼はベルリン号という船で働きながら上海まで連れて行ってもらったのですが、この船で、言葉が通じないことにいらだった船の客に殴られて、ここで敵討ちをしなければ武士として最大の恥と思って、自分の荷物を置いた場所に走り、刀を抜いた。抜いたけれども、復讐しようとする自分を必死に抑え、「ここで事件を起こして、船を下されてしまっては、外国で学びたいという自分の目的は達成できない」「これから先、どんな試練が待ち受けているかもわからない。ここでキレてしまってはこの先の困難に立ち向かうこともできないだろう」と思い、なんとかとどまったという事件がありました。
  そんなわけで、新島七五三太という人は、もともとはいわゆる「キレやすい」人というか、たいへん危ない人だったと言えないこともないんですね。

刀を聖書に持ち換えて

  考えてみれば、ベルリン号に乗って日本を脱出するときも、お金もほとんど持ってないような状況で、身一つで船に乗ろうかというときに、それでも七五三太は2本の刀だけは大事に持っていったんですね。たぶん七五三太はすごく不安で怖かったんでしょう。刀しか頼るものがないような気持ちだったのかも知れません。
  しかし、結果から言うと、新島はサムライの命とも言えるこの刀を手放してゆきます。サムライは大きな刀と小さな刀の2本を腰にさすのですが、七五三太はそれを2本とも聖書に交換してゆくんですね。
  大きな刀の方はワイルド・ローヴァー号の船長テイラーに、船に乗せてくれたお礼としてプレゼントしてしまいました。テイラーはお返しに英語の聖書をプレゼントしてくれます。つまり、刀と聖書を交換したわけです。
  そして小さな刀のほうは、もう少しあとになってから、今度は船長に買ってもらっていくらかのお金を手に入れて、中国語の聖書を買いました。彼は漢文を勉強していたので、中国語の聖書は読めました。これで2本目の刀も聖書に変わったわけですね。
  こうして、彼は刀を聖書に持ち換えることで、サムライとしての新島七五三太から、クリスチャンとしての新島襄に次第に変身してゆくわけです。

自分に向けられた攻撃性

  しかし、大人になり、アメリカでの学びを負えて、日本に帰って同志社を設立してからも、新島襄は思わぬところで攻撃性を発揮してしまったことがあります。
  みなさんもよく知ってるはずの「自責の杖」の事件です。学校の教育方針に反発した学生たちが無断で授業をボイコットして処分を受けようとしていたときに、新島校長は「こんなことが起こったのは、校長である自分の不行き届きと不徳のせいである。どうして学生を罰することができるだろうか。しかし、同志社の規則は厳しいものであることがわかるように、今から校長が校長である私自身を罰する」と言って、持ってきた杖で自分の左拳をバーン! バーン! と叩き続け、血が吹き出て、杖が折れ、学生たちが止めるまで叩き続けたという事件ですね。
  学生たちも他の教師たちも、新島のあまりに激しい感情に、心からびっくりしました。静かに心を落ち着けるはずの礼拝の時間に、お話するために壇に立った校長が突然自分の手を力一杯に叩き始めたんですから、「こんなことが礼拝であっていいのか?」と思ったことでしょう。
  こんな風に感情の激しさは相変わらずの新島先生でしたけど、この自責の杖の事件にもよく表れているように、彼はクリスチャンになってからは、自分の攻撃的な性質を決して人に向けるということはありませんでした。彼はもし感情を表に出してしまったとしても、その怒りは人を責めるためにではなく、自分自身に向けたわけです。

激情の行方

  新島襄は、そんな自分の攻撃性を決して自分で気に入っていたわけではないのではないかと、ぼくは思います。
  新島襄の妻である新島八重が語った記録によれば、新島は、いったん怒っても、すぐにその怒りを静めることができるのも、新島襄の優れたところだったそうです。
  新島は、自分のなかの怒りのエネルギーは、クリスチャンとしての信仰と矛盾することがちゃんとわかっていたんですね。だから、きっと怒りのエネルギーが強い自分のことを気に入っていたわけではなかったと思います。
  しかし、それほどの激しい心のエネルギーがあったからこそ、実現できたこともたくさんあります。そもそも鎖国をしていた日本を脱出するという命がけの冒険をすること自体が、激しいエネルギーを必要とすることでした。
  また、何度も文部省の官僚になるよう誘われたけれども、あえてそれをことわり、仏教の勢力が強かった京都にキリスト教の私学を建てよう、そして大学を作ろうとすることも、強い精神力がなければできないことでしたね。
  彼は、若いころの凶暴さを、攻撃性という形ではなく、狂ったように夢を追いかけるエネルギーに変えながら、その夢の実現に向かっていったといえるんではないかなと思います。

自分育ての祈り

  若いときって、自分のエネルギーをどうコントロールしていいのかわからないときがあるんじゃないかと思います。あるいは、「あいつ狂ってるんと違うか」と思うような爆発するようなエネルギーを持っているような人を見かけたりしませんか? けれども、そのエネルギーの使い方を間違えて、人を傷つけたり、いじめたりしてしまうことが、私たちにはあるんじゃないかと思います。そして、そんなことをしている自分を決して好きになることもできないんじゃないでしょうか。
  けれども、エネルギーがあるということ自体は悪いことではないのだと、ぼくは思います。そして、自分の持っているエネルギーをよい方向に使えるように、常に祈るということが大切なんだと思うんです。
  「祈る」というのは、もちろん神さまに話しかけているわけですが、それだけではなく、自分に言い聞かせるという効果もありますから、結構大切なんです、祈るということは。
  新島は、刀を聖書に持ち換えて、クリスチャンとなることで、自分の中の凶暴性を、夢の実現へのエネルギーに換えていったように、ぼくらも自分の中の激しいものを、きっとよい方向に向けて生かすことができるようになれると思うんです。
  そのために、「自分自身を育てる」という意味でも、祈り続けることは大切なことだと思います。神さまが私たち一人ひとりに与えられたエネルギーを、私たちが上手に使える人間となれるように、神さまどうか導いてください、と日々お祈りすることをみなさんにお勧めします。
  それでは、祈りましょう。目を閉じてください。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日は同志社国際中学校のみなさんと共に礼拝をすることができました。この恵みを心から感謝いたします。
  ここにいる私たちすべての者が、あなたからいただいた命とそのエネルギーを、良心にしたがって正しく使うことができますように。そして、あなたに与えていただいたこの限りある人生の時間を、一番よい方法で生かすことができますように、どうか導いてくださいませ。
  イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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