創 ( K I Z U )

2005年1月5日(水) 日本キリスト教団香里が丘教会 新年祈祷会奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:創世記1章1〜10節 (新共同訳)

  初めに、神は天地を創造された。
  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
  神は言われた。
  「光あれ。」
  こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
  神は言われた。
  「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
  神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
  神は言われた。
  「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
  そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

「創」

  一年のはじめに創世記を読むのが、わたしは好きです。
  「初めに」という言葉から始まる本は、聖書の中では、創世記とヨハネによる福音書の2つがあるわけですが、わたしは、年始めに読むのなら、「初めに言があった」のヨハネ福音書より、「初めに、神は天地を創造された」という創世記のほうを読むのが、個人的には好きです。
  「創造」あるいは「創世記」の
「創(そう)」という漢字には、「はじめる」という意味があります。ですからなおさら、新しい年を「はじめる」というときに読みたい気持ちになるのかも知れません。
  そういうわけで、たとえばクリスチャンの中には
「創(そう)」の一文字で「はじめ」と読ませる人の名前も、案外多いように思われます。

  ところが、この
「創(そう)」の文字は、「はじめ」という読み以外に、「きず」という読みもあります。
  特に、この文字は、他のやり方ではない「刃物で傷つける」ということを指しています。
  怪我をすることを「創傷(そうしょう)」と言ったり、「創痍(そうい)」と言ったりしますが、これは刃物による傷に限って言うのが本来の意味です。「満身創痍」:全身きずだらけだ、という言葉もありますが、これは刃物による傷でたくさん傷ついているということです。
  なぜ刃物による傷を示す漢字が、物事の始まりという意味をも示すのか。
  そもそも、この
「創」という文字は刃物で傷をつけることを指す言葉でしたが、工作のいちばん最初の段階で、木に刃物を当てるということから、「創める(はじめる)」という意味に転じていったといわれています。
  木に刃物を当てて、工作がはじまる。それは木を傷つける行為です。
  無数に刃物を当て、無数に傷をつけ、削り取り、切り落としていかないと、ものづくりはできないのですが、とくに最初のひとつめの傷をつけることをとって
「創(はじめ)」と呼ぶところに、木を傷つけることに対する痛みの念というか、敬意のようなものが感じられる気がします。
  木でできている物、さまざまな調度品、家具、道具、あるいは教会で使われているもので言えば、礼拝堂にある講壇、聖書台、献げ物を置くテーブルなどが思い浮かんだりしますが……それらの木製品は、もともとあった木の姿から、多くの部分を切り落とされ、削り落とされることによって、人に使われる目的にかなった形へと変えられてゆきます。
  木で創られたものは、その形といい、手触りといい、わたしたちに、なんとも言えない温かさと落ち着きを与えてくれますが、しかし、それは刃物によって無数に傷つけられ、すでに自らは多くのものを失ったり捨てたりしてきた姿なのです。
  そのような木に対する敬意、厳粛な思い、というものを、木工職人たちは覚えて、木に刃物を当てて仕事を創める瞬間をとくにとらえて、
「創」という漢字に表したのかも知れません。

切り分ける神のわざ

  思えば、今日お読みいただいた天地創造の物語においても、神はこの世に刃物を入れるようにしてこの世を創るわざを創めています。
  混沌としたこの世の素材の大きなかたまりを、まず神は「光」と「闇」のふたつに分けることから創めます
(創世記1章4節)。神が、光と闇が互いにそれぞれの領域を侵さないようにしてくださったことは、たいへんありがたいことです。光がなければ私たちの暮らしは成り立ちませんし、かといって闇があるから私たちは休むことができますし、闇の中だからこそできることもあるのです。
  次に、神は天の上の水と、天の下の水を分けられました
(6節)。これもありがたいことです。古代の人びとは、青い空を、天の上にある水だと考えたわけですが、天の上の水が、天の上に留まり、人間の恵みになる程度の量で雨として注いでくれることはありがたいことです。しかし、もし天の上の水が天の下の水と再びくっつこうと一気に落ちてきたら、大災害になってしまいます。ノアの洪水の物語をつづった古代の人びとは、この上の水と下の水がいっしょになる災害の恐ろしさを神の怒りとして表したわけです。
  またその次に、神は、水の領域と乾いた領域を分けられました
(9節)。すなわち海と陸と創造です。海が海の領域に留まってくれていることも、ありがたいことです。しかし、海の水が、神の創造の意図を離れるほどに陸の領域にまで入り込んでくるとどうなるのか。それは、つい先日起ったスマトラ沖地震と津波の被害を見るまでもなく明らかです。
  そうして神はこの世をさまざまに切り分けることで、さまざまな形を作り出し、さまざまな生物を生み出し、そして最後に作った生物である人間をも、男と女に切り分けられました
(27節)。切り分けられたことで、私たちは互いによく理解できなかったりすることで苦しんだりするわけですが、その代わりそれぞれに違う役割を担って助け合うこともできるわけです。

傷つくこと、失うこと、生きること

  切られ、分けられてゆくということは、何かを失うということでもあります。また、「創」という漢字を「きず」と読ませることにも表されているように、まぎれもなく切られることは傷つくことであります。
  英語の「decide」(決定する)という言葉の語源は、ラテン語の「デスィデレ」、すなわち「切る」、「切り落とす」という言葉ですが、それは、人間が物事を決定するという行為、たくさんある可能性のなかで、ひとつを選び取るという決断は、すなわち他の可能性全てを切り捨てるということでもあるからです。
  これは大変痛みを伴うことで、時にこの人生の現実を受け入れることだけでも、人はたいへん傷つきます。しかし、そうやっていくつもの可能性をあきらめて、ひとつを選ぶことで、ひとつの人生を生きてゆくのが私たちの人生のじっさいの姿ではないか、とも思われます。
  そして、何を捨て、何を選んできたのかに、本当のその人らしさ、本物の個性というものが現れているものなのかも知れません。
  人は、人生の途上で、自らの意志にしたがい、あるいは時に自らの意志に反する決断を強いられながら、とてもたくさんの可能性を失う年月を重ねることで、その人自身になってゆくのではないかと思います。
  海が海であるように、陸が陸であるように、空が空であるように、私たちも、否応なく切り捨てさせられることによって、私自身になってゆくのであります。
  あるいは、キリスト教的ではありませんが、たとえば、木で仏像をつくるという行為も、こういう感覚を秘めているのかもしれません。
  木で仏像を彫り出す行為は、木の中にすでに潜んでいる仏の姿を見出す行為という話を聞いたことがありますが、そのためには木に数え切れないほどの傷をつけ、多くのものをそぎ落とさなければなりません。
  わたしは仏教徒ではありませんが、仏を彫るという行為が、多くのものをあきらめ、捨てる、あるいは失うことによって人生を歩んできた人間にとっては魅力なのかも知れないと思うことがあります。仏を木の塊のなかから見出すこと、自分自身の真の姿を見出し、自分自身の魂を救い出すこととつながっているわけです。

人の形、傷の形

  人間はひとつの生き方しかできません。わたしたちはそれぞれ、ひとつの人生しか生きることができません。たくさんの可能性のなかで、ひとつを選ばなくてはならないために、他の多くのことを切り捨てないといけません。それは自分に刃物を当てる行為であり、すなわち自分を傷つけること、痛みをおぼえることであります。
  しかし、
「きず」と読ませる「創」の字が、「はじめ」とも読まれるように、そうやって傷をこの身に受けることによってでしか、私たちは人生の次の段階、また次の段階という風に進んでゆくことはできない、つまり人生の新しい段階を「はじめ」てゆくことはできません。
  永く生きるということは、それだけ、そうやって自分の身に加える傷が増えていくことであるとも言えるでしょう。それ故に、生き続けることで創られてゆく人の個性とは、その人の心に刻まれた傷そのものではないかと思うこともあります。
  木で作られた全てのものの形が、実は刃物で傷つけられた傷の形であるのと同じように、人の個性というものも、多くのものを失って一つの生きざまを選ばざるを得なかった心に刻まれた、傷の形そのものであるとも言えないでしょうか。
  そして、そんな傷だらけの人間は、そのままの姿で神さまに受け入れられ、包まれている。多くの傷によって削り取られた、凹凸のある個性のままで、イエスに愛されているのであります。
  というのも、イエスご自身が、全身傷だらけになることによって、イエスからキリストとなり、自らが本当にこの世に送られてきた目的を達せられたからです。イエスは、傷だらけになりながら人生を生きる人の苦しみを、よくご存知の方です。

「創」と「造」

  ……さて、「創造」の「創」が物を刃物で傷つけることを指すのに対して、「創造」の「造」とは、材料をくっつけ合わせてつくる。寄せ集めてつくる、という意味を持つ漢字です。
  思えば、イエスも大工だったと言われていますが、家を建築するよりは、家庭で使うさまざまな調度品を作ったり、修理したりすることのほうが多い木工職人でありました。木を切り、削り、形をつくる作業だけではなく、そうやって創られた単品の木の作品を、組み合わせて実用品を造り上げてゆくことをやっておられた方です。
  人生を木にたとえるなら、生きるということは、この木に刃物を入れ、さまざまなものを切り落として、ひとつの形に仕上げられてゆくことではないかと、さきほどから申し上げてきました。それならば、自らの人生に刃物を入れてくださる方を、大工のイエスにお願いするのがクリスチャンの生き方ではなかろうか、と思うのですが、いかがでしょうか。
  同じ人生の選択や決断を繰り返して生きるのなら、その決断の基準を「イエスならどうしたろう、神さまなら何を望むだろう」というところに置く。イエスの基準で、自らのなかの余分なものを切り落とし、イエスの基準で自分を研く(みがく)のであります。
  そして、そうやって自分を創り上げてゆく一方で、わたしたちは自分が単品の部品であることにも気づかなくてはなりません。一人でできることには限界があります。しかし、部品と部品が集まり、組み合わさって、それぞれの持ち味を果たしあうことで、より広がりのあるわざも可能になります。そのために自分ひとりがただ美しい木工品であるだけではなく、他の部品ともうまく組み合わされるために形が整えられた存在であることも大切です。
  
「創」によって一人ひとりの人生が創られ、そうやって創られた人間が「造」によって組み合わせられて、さらに大きな群れのわざを成してゆく。それが、イエスを信じる者がともに生き、ともに働くということであり、いまも続いている神の「」のわざなのであります。
  そのような神の、そしてイエスの
「創」「造」の営みに、今年も参加し続けてゆく、そのような一年でありたいと思います。
  お祈りいたします。

祈り

  愛する天の御神さま。
  新しい一年の
めに、信愛なる兄弟姉妹と共に、祈りをあわせることができます恵みを、心から感謝いたします。
  この新しき一年も、自らの人生にとって、また我らキリスト者の群れの歴史にとって大切な一年として、生きることができますように。
  どうかわたしたちを、あなたによって
られ、あなたによって組み上げられ、あなたのために働く群れであらせてくださいませ。
  主イエス・キリストの名によって願います。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール