生きているうちにこそ (II)

2007年5月6日(日) 日本キリスト教団高の原教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書16章19〜31節 (新共同訳・新約)

  「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
  この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
  やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
  そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
  そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
  しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
  金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
  しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
  金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟にところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
  アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

素朴な疑問

  インターネット上の仮想教会:ヴァーチャル教会というものを立ち上げてから7年ほどになります。「三十番地キリスト教会」というのが、そのヴァーチャル教会の名前です。
  最初は「教会仕立てのホームページ」というくらいのつもりで作っていたのですが、最近は一日に100件を越えるアクセスがある日もあったり、「談話室」と名づけた掲示板にも多くの方が書き込みをいれてにぎわうようすを見ていると、本当にインターネット上に教会ができあがっているような感覚をおぼえるときもあります。
  さて、学校でキリスト教の「キ」の字も知らないような人たちと共に暮らし、インターネット上で多くの見知らぬ人とキリスト教についての意見を交換し、ということをしていますと、いろいろ質問をされることがあります。私の聖書の学びは、そのような素朴な疑問に応えていくことで、成り立っているようなところがあります。
  ある日、電子メールでこんな質問が届きました。
  「聖書のなかに、『金持ちとラザロ』というお話があります。貧しいラザロが死んで、天国から地獄に落ちた金持ちを見下ろしています。しかし、自分が天国に入って、他の人が地獄で苦しんでいるのに、どうして「ああ、自分は天国に入れてよかった」と思えるのでしょうか。もし、そんな人がいたら鬼だと思います。ラザロはなんという心の持ち主だろう。苦しんでいる金持ちを見て、どうしてアブラハムのところで平安でいられるのだろう、と思います。
  だから、地獄というものがある限り、天国というのもありえないのだと思うのです。もし天国があるとすれば、すべての人に悔い改める心が与えられて、和解できる場所。そんなところがあれば、天国だと思いますが……」という内容でした。

生きているうちにこそ

  結論から申し上げますと、私はこの方に満足のいくお返事をさしあげることができませんでした。ただ、カトリックやプロテスタントなど、さまざまな教会のホームページにメールでの問い合わせ先が書いてありますが、この方はこれまでどこからも返事をもらえず、どこに質問メールを送ってもなしのつぶてで、返事をしたのは唯一私だけだったそうです。ですから、「何度も読み返して考えてみます」とおっしゃってくださいました。
  私が書いたお返事は、かいつまんで言うと、こういうことでした。
  「『金持ちが天国に入るのはむずかしい』ということは、おそらく主イエスは何度も人びとに語っていたのだろうと思われる。無理ではないが、『むずかしい』と。
  ただ、この『金持ちとラザロ』という物語を読んで、私などが直感的に感じるのは、『この物語は死んだ後のことを教えたいのではなくて、むしろ生きている間に、人間が何に気づかないといけないかを教えてくれる物語ではないのか』ということである」ということです。
  イエス様ご自身は、「人が死んだ後どうなるのか」については一貫したことをおっしゃっていません。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネによる福音書14章2節)という言葉もありますが、その反面、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(マルコによる福音書12章27節ほか)とか、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイによる福音書8章22節、ルカによる福音書9章60節)といった風に、死んだ後のことよりも、今生きている時点でのこと、あるいは復活してまた現世に戻った場合のことをもっぱら問題にしているのであって、死んでいる間のことをどうこう言う姿勢があまり見られないのも事実であります。
  この「金持ちとラザロ」の物語の決め台詞は、物語のいちばん最後にあるアブラハムの言葉です。

  
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(ルカによる福音書16章31節)

  ここで「モーセと預言者」と言われているのは、当時の人びとが礼拝に使っていた聖書、今の我々で言うところの旧約聖書です。ここで物語が結論づけているのは、「生きている間に、聖書の言葉に耳を傾け、それを実行しないならば、何の意味もない。死んでから後悔しても遅いんだよ」ということです。
  ですから、この物語で一番大事だとされているのは、死んでから因果応報の報いが来るということではなく、生きている間に、聖書の御言葉に従った生き方をすることなのであります。

近くて遠いラザロ

  この物語に出てくる金持ちは、自分の家の前で物乞いをしている貧しい人が「ラザロ」という名前の人だということを知りながらも、あえてその人を見捨てていました。毎日のように自分の家の前で物乞いしているので、顔と名前をよく知っていたわけです。ですからこの金持ちは、その日たまたまそこに乞食がいるのが視界に入らなかったというのではなく、毎日、毎回、そこにいつもいる貧しいラザロを、あえて見捨て続けていたというわけです。
  現在の日本社会でも「格差社会」という言葉が昨今、公然と言われるようになってきましたが、貧富の差ということでいえば、当時のパレスティナのほうが、はるかにその貧富の差は激しかったといえます。
  しかもそれは、単に個人として金持ちと貧しい人の差が激しかったというだけではなく、金持ちは金持ちの家系として、家族集団でその利益を守るために一致団結して協力していたし、お互いに家族の利益を損なうこともないように監視もしていたということであります。
  ラザロが、
「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)という言葉は、マルコによる福音書7章24節以降などにおさめられている、「シリア・フェニキアの女の信仰」(マタイによる福音書15章21節以降の版では「カナンの女」)のエピソードを思い起こさせます。そこには、「主よ、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(マルコによる福音書7章28節)という有名な台詞があります。
  「食卓の下の小犬」というと、私は自分の家にもいる2匹の犬のことを思い出します。しかし、この犬たちは、食卓の下でじっとしてはいません。平気で食卓の上に上がってきます。何度叱りつけてもちょっと目を離すと、テーブルの上に上がって、人間の食べ物をむしゃむしゃと食べ始めます。食卓の下の「小犬」とはよく言ったもので、「小犬」でなかったら食卓の上にあがって人間様の食物をあさり始めるのです。ですから、食卓の下に待機して、こぼれ落ちるものを期待して待っているのは、確かに「小犬」に違いないと思います。
  さて、
(金持ちの)食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)ラザロの話に戻りますが、ラザロが金持ちの食卓の「下で」待つということはありえません。
  当時の人びとは、誰と食事をするかということに非常に気を遣いました。食卓を共にする、ということは、その人と自分とが特別に親しい友好関係にある、あるいは、親しい関係になろうとしているということで表しており、この金持ちとラザロのように社会的に格差のある者が同じ部屋で食事をするということは考えられませんでした。もし下の階級の者と食事をしているのを誰かに発見されたら、その人は親族一同や社会的なつながりから排除されることになります。ですから、金持ちは絶対にそういうことはしなかったわけです。
  つまりラザロは、食卓からは離れたところで、犬以下の扱いをうけながら放置されていたということです。それもただ放置されていたというのではなく、ちゃんと金持ちが家の出入りをするときには目にとまるところにいつもいて、名前も顔も知っている人間であるのにもかかわらず、あえて毎回無視され、見捨てられていた、ということです。

死んでからでは遅い

  もしラザロが天国で、アブラハムと神に赦しをとりなしていたら、ひょっとしたら、この金持ちは陰府の炎でさいなまれる苦しみから解放され、天に引き上げられたかも知れません。しかし物語は、その赦しを語らずに終わっています。
  これは、あるいはルカが「悔い改め」というものを大変重視する傾向が強い福音書作家であったことにも関係があるかもしれません。金持ちは悔い改めていない、だから救われないのだ、ということがいいたいのかも知れません。
  陰府の炎のなかで、苦しみを受けながら、遠くアブラハムの宴席に集っているラザロを見たとき、彼の心に浮かんだのは、「ラザロに悪いことをした」という悔悛の思いではありません。
  そうではなく、彼に関心があるのは、自分と同じ金持ちの5人の兄弟たちのことだけでした。ラザロを含めて、自分が見捨て続けてきた貧しい人の苦しみについては、相変わらず見捨てたままです。いや、むしろ、
「ラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います」(27−28節)と言うように、死んでからなお、自分が見捨ててきたラザロまでも利用して、自分の家族を助けようとしています。
  ラザロを見捨て続けてきたことに対する後悔の念は、ここにはみじんも見られません。彼は悔い改めていません。だから彼には救いはない、ということに――ルカ流に言えば――なるのでしょう。
  
「たとえ死者の中から生き返る者があっても」(31節)の言葉は非常に厳しく重い言葉です。「聖書を読んでも、それに従わない者は死者の中から生き返る者があったとしても、生き返った者の言うことを聞き入れはしないだろう」というわけです。
  考えてみれば、この金持ちの家の門前にいたラザロが、すでに神が彼のために遣わした使いかも知れなかったわけです。私たちは、日々出会う人に対して「この人との出会いは神が与えたものかもしれない」と考えることで、その出会いを大切にし、誠実なおつき合いができるものです。
  しかし、この金持ちはラザロを全く気に留めることはなかった。そんな彼が、「私の父親や兄弟のところにラザロを遣わしてください」というのは実に滑稽なことで、彼自身がラザロを見ても悔い改めなかったのに、彼の兄弟が再びやってきたラザロを見て、悔い改めるわけはないのであります。そういう皮肉がこのアブラハムの最後の言葉にはこめられています。

たとえ死者がよみがえっても

  そして更に、このアブラハムの最後の言葉には、もうひとひねり、大きな重い問いかけがこめられています。
  
「たとえ死者の中から生き返る者があっても」(31節)という言葉のなかには、「たとえイエスが死者のなかからよみがえったとしても」という意味も含まれていると考えられるのであります。
  
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)という言葉は、こう言い換えることができます。「もし、聖書に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中からイエスがよみがえっても、その言うことを聞き入れないだろう」
  「主が復活したとしても、あなた自身が聖書の言葉を受け入れて、そのとおりに生きようとしないならば、何の意味があろうか」ということなのです。
  福音書を書いたルカは、もちろん主イエスが復活したことを知っていて、最終的にはそれを福音書のラストシーンで描くつもりなのです。しかし、その前に彼は、「死者の中からよみがえった者がいたとしても、それをただ喜んだり、たたえたりするばかりでは、何の意味もありませんよ。聖書のメッセージにきちんと耳を傾ける生活を心がけないと」ということを私たちに警告しているわけです。
  大切なのは、生きている間に、生きたイエスの言葉と行いに学ぶことです。生きたイエスの言葉と行いに学び、それを自分の実人生に生かそうとする姿勢がなければ、いくらイエスが復活したといっても、それはその人にとっては何の意味も生じさせないでしょう。
  「イエスは復活した。だからすごい方なんだ」などというスーパーマン的な有頂天というのは、まったく我々の人生にも救いにも関係がありません。地上に生きて死んだイエスの生き様、死に様を深く知ることなしに、そのイエスが死者の中から再び起こされた喜びなどはありえません。
  大切なのは、生きている間に、生きているイエスの言葉に問いただされ、そして生きている人と共に、誠をこめて生きること。これに尽きるのではないかと思われるのです。
  願わくば、目の前で苦しむ人、悩む人、困る人を発見したならば、天から送られた使者かも知れないラザロのように、あるいはよみがえられたイエス様ご自身であるかのように、一杯の水を差し出すことのできる(マタイによる福音書25章40節参照)、そんな人間でありたいものであります。
  お祈りいたします。

祈り

  愛する天の神さま。
  本日こうして高の原教会の教友のみなさんと共に、礼拝を守ることができます恵みを感謝いたします。
  私たちが、日々出会う人、毎日会う人、時折会う人、すべての人に誠を尽くし、ともに助け合い、身も心も平安と喜びに満たされつつともに生きることができますように、どうか私たちを支え、導いてくださいませ。
  我らの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
  アーメン。

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