人生はギフトか? こんなに問題だらけでも……

2008年10月19日(日) 日本キリスト教団横浜港南台教会 主日礼拝説教
 (『人生はギフト たとえ問題だらけでも』を改題)

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:ルカによる福音書17章1〜8節 (新共同訳・新約)

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
 管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

憎んでは打たぬものなり笹の雪

 職業柄、たくさんの若い人たちと関わって毎日を過ごしています。ついこの前まで小学生だったおチビさんたちから、あと2つ歳をとれば成人式を迎えるという大人寸前の青年たちまで、その幅はたった6年間ですが、本人たちの人生においては、おそらく人生で一番急激な変化、成長を経験する時代なわけで、その激動の時期につきあうことを仕事にしています。
 子どもたちのことを考えるとき、私の頭の中には、ひとつのモデルが浮かび上がります。それは、竹林のなかのタケノコです。大人たちは大きくなった竹です。子どもたちは毎年土の中から現われて来る柔らかいタケノコです。それがグングンのびて、若い竹になっていきます。
 人間の竹に見立てるのは、私のオリジナルな考えというわけではなくて、昔から日本では、「竹を割ったような、まっすぐな性格の人物」といった表現が使われてきております。
 また、ちょっと手前味噌な話になるのですが、私がいま働いている同志社という学校の創立者、今からおよそ130年前の人で、新島襄という人物がおりました。幕末の日本を脱出して単身アメリカに密航し、約10年間学んで、明治維新後間もない日本に、アメリカからの宣教師となって帰り、京都に同志社を創立した人です。
 この人の幼い頃、5、6歳くらいの頃のエピソードで、
「憎んでは打たぬものなり笹の雪」というのがあります。子ども時代の新島襄(子どもの時は新島七五三太〔しめた〕と呼ばれていましたが)は凧揚げが大好きで、あまりに凧揚げに熱中するあまり、夕食の時間も忘れて、家に帰ってこないということが何度もあったそうです。それで、おじいさんが(新島襄は幼い頃おじいちゃん子だったようなのですが)、凧を取り上げて隠してしまうと、今度は自分で勝手に材料を用意してきて、自作の凧を作って、また遊びに行ってしまう、というほど、ひとつのことに夢中になると、とことんまでやるというやんちゃ坊主でした。
 ある日、このやんちゃ坊主、七五三太に、母親が用事を言いつけたそうです。しかし、何度言いつけても、彼は自分が今やっている遊びに熱中して聞かず、しまいには母親に口答えをしたそうです。そのわがままな様子を見たおじいさんは、ある日、七五三太を捕まえて布団でぐるぐる巻きにして、押し入れに放り込んだというのですね。
 それまでおじいさんに怒られた事などなかった七五三太は、押し入れのなかで1時間も泣き通したそうです。そして、やっと押し入れから部屋に出してもらえた七五三太に、おじいさんはいつものやさしい声で言ったそうです。
 「お前は『憎んでは打たぬものなり笹の雪』という句がどういう意味かわかるか。雪を沢山かぶっている笹は、そのまま放っておくと折れてしまう。だから叩いて落としてやるんだ。お前のお母さんに対する口答えは、その雪のようなものだ、放っておいたら正しい心をもった立派な大人にはなれないかもしれない、だから叩いて雪を落とすんだ。わかるだろ」(河野仁昭『新島襄の青春』同朋舎、1998、p.7-8)
 竹林の横などを車で走っておりますと、真冬には雪が枝の上に積もり、道路を塞ぐくらいしなってきて、通り抜けるのに苦労する事があります。雪を落とすためには、笹や竹を叩かないといけません。叩かれて雪を落とされた竹は、ふたたびまっすぐにのびてゆく。それと同じように、まっすぐな心を持った人間に育ってもらうためには、時には厳しいしつけも必要なのだ、ということを私たちに教えてくれるエピソードです。
 まあ笹と竹では似ているようで違うところもありますが、そんなエピソードの影響もあって、私の人間観には、竹を人に見立てる構図がインプットされています。

生命タケノコ論

 もうひとつ、私が人をタケノコのようだなあと思う理由は、ユングの心理学による心の構造の仮説です。ユングという人は、スイスの精神科医で、現在の心理学やカウンセリング、また宗教学、文化人類学にも大きな影響をあたえた人です。
 ご存知の方も多いかもしれませんが、このユングの心理学の説によれば、人間の心というのは、大きく2つの層に分かれています。1つは「意識」、もう1つは「無意識」です。
 「意識」というのは、目覚めている状態で文字通り自分の「意識」にのぼる心の内容のことです。その中心になるのは、いま自分が「これが私だ」と思っている「自我」、それが意識の中心です。
 もう1つの「無意識」というのは、目覚めている状態の自我では直接知る事のできない、まさに意識できない領域のことをさします。そして、人の心は、意識よりも、この無意識のエリアのほうが、はるかに広く、大きく、膨大な複雑さを持つ感情や思考や直観や感覚などが渦巻いているといいます。
 この「無意識」の世界にも、かなり「意識」に近い浅い部分の無意識と、深ーいところに眠っている、決して意識ではっきりと捉えることのできない領域があるそうです。浅い部分の無意識は、眠っているときに見る夢のように、意識に記憶として残るくらい意識に近いです。こういう部分の無意識を「個人的無意識」と呼びます。
 これに対して、深いところに沈んでいる領域にあるものは、個人の意識でとらえることはできません。そのかわり、多くの人びとがいっしょに共同幻想でも見るかのように、神話や伝説の物語のなかに、また神聖なものとして拝んだりする対象に、無意識の中にあるものを投影して見ようとします。
 それは、個人を越えたもので、ある特定の民族文化に限定されるものもありますが、人種や民族の文化の違いを越えて、広く人類に普遍的な内容が発見される事もあります。そのような領域の無意識のことを、「普遍的無意識」と呼びます。
 そしてユングは、この「普遍的無意識」は、単に人類個々人がみな似ているというだけではなく、じっさいに底の方でつながっていて、深い部分で影響を与え合っているのだ、と論じたわけです。
 このような深い部分には、さまざまなエネルギーを持った心のかたまりが動き回っています。そしてそれらは一定の型をもっています。それらを「元型」と呼びます。父なる神、悪魔、ブッダ、キリスト、母なる女神、様々な神々や天使たち、無数の仏たちなどなど……、宗教や神話に登場するそれらの超越的な存在といいますか登場人物たちは、普遍的無意識のなかにある、この「元型」が、この世の何物かの姿に映し出されて、私たち人間の意識に認識されているだと考えられるわけです。私たちは、そうやって十字架や仏像などを見て、神や仏を思いますが、その実体は、自分自身の心の底にある普遍的無意識の中に潜んでいる存在の力なのであります。
 こういう心理学の話を聞いていますと、私は、竹林の竹たちが、みんな土の下ではつながっているように、人間の命もいちばん底の部分で互いにつながりながら生きているのではないかなあと思います。
 先に大きくなって竹林を作っているのは大人たちです。そして毎年、新しい子どものタケノコが生まれてきますが、それは子どもたち、次の世代の人たちです。
 私たちは、生まれたばかりの赤ん坊時代は、よく眠るし、起きているときでも意識や自我がはっきりせず、夢のなかで動いているようなものです。そして、後になって次第に自我が芽生えて、意識が強くなっていく頃には、赤ん坊時代のことはほとんど忘れてしまいます。赤ん坊から少年へと育つプロセスは、無意識の世界から意識の世界へと、タケノコのように地上に出て来るプロセスにたとえる事ができます。
 そして、私たちの一生の終わりには、事故などの理由で即死するような場合は例外として、自然の成り行きに従えば、だんだんの意識の機能が弱くなっていって、やがて無意識の世界に生きるようになり、そしてついには、無意識の世界に帰ってゆきます。
 私たちがやってきたところ、そして最後には帰るところ。それは無意識の世界であり、そこに神もおられるのだろうと、思います。
 土の下の神さまが、私たち一人一人の命の源であり、私たちを地上へと押し出してくれます。私たちは、この地上で、定められた期間の間、目覚めた意識を持つ事をゆるされて過ごし、やがてその一生を終わる時には、神さまのもとに帰ってゆくのだな、と思います。
 したがって、神は天の上ではなく、地の下におられる方、私たちの存在の根底におられる方だという表現もできます。そして、私たち人間はみな神の霊の分身であり、全ての人間が神の子と言えるのであります。
(パウロの手紙とヨハネの手紙には、信仰によって人間が神の子となる、という考えが繰り返し語られている)

人生はギフト?

 さて、本日の説教のタイトルは、もともと「人生はギフト」と名付けて語ろうと思って準備してきました。しかし、タイトルをお知らせしてから、いろいろ考えていて、今日こうしてやってくるまでにも、いろいろ考えているうちに、だんだん「人生はギフト」というタイトルに「?」(ハテナ・マーク)をつけたほうがいいかな、と思うようになってしまいました。
 「人生はギフト」という題名を思いついた当初は、「わたしたちの命は、みんな神さまから贈られた、すばらしいギフトなんですよ。ですから、この命を喜びましょう」みたいな、うまい話に持っていけるんじゃないかなという甘い目論見を抱いていたわけです。ところが、考えているうちに、先ほどもタケノコのお話でも触れましたように、人間というのは、やがて地の下の神さまのところへ帰ってゆかなければならない。人間というのは、いつかはこの地上の人生を終えて、帰るべきところへ帰ってゆかねばならないことに思い至ります。そうすると、私たちが与えられている命というのは、「ギフト」すなわち「頂き物」というよりも、期限つきでいつかは返さなければならない「預り物」あるいは「借り物」という方が現実に合っているのではないかと思い始めたわけです。「借り物」とは、言い換えれば「負債」と言うこともできます。
 考えようによっては、「人生とは、神から借りた、返済期限のわからない負債である」、そう言えるのではないでしょうか。しかも、別に貸してくださいとお願いしたわけでもないのに、気がついてみたら、そういう負債を抱えていた、という状態であります。

人生は借財

 さて、私たちが与えられた人生、この命は、実は神さまから借財なのだ、という発想で私が思い出すのが、マタイによる福音書の25章14節以降の「タラントン」のたとえ話です。本日の課題聖句の「不正な管理人」のたとえがおさめられているルカ福音書にもよく似た話がありまして、こちらは「ムナ」のたとえ、といって、ムナというお金の単位が出てくるのですが、これよりも、マタイ福音書の「タラントン」のほうがよく知られているので、こちらを参照してみたいと思います。
 ご存知の方が多いと思いますが、「タラントン」は現在の英語の「タレント」(つまり、神さまから与えられた才能とか特技という意味ですが)という言葉の語源になった言葉です。この「タレント」つまり才能自体が、神さまからの頂き物、つまり「ギフト」だから、「タレント」と「ギフト」には同じような意味があるということも言われております。しかし、このお話の中で、「タラントン」は本当に「ギフト」なのか……。
 このたとえ話では、主人がしもべたちに5タラントン、2タラントン、あるいは1タラントンのお金を与えて旅に出た、と語られております。実はこのタラントンというお金の単位はたいへん大きなもので、だいたい1タラントンで、1人の労働者が稼げる、それもけっこういいほうの賃金だろうと思われる金額で、年に300日働いたとして、その賃金の約20年分のお金です。ということは、2タラントンは約40年分、5タラントンはおよそ給料100年分ということで、要は、この僕たちは、一生かかっても稼ぐことができないような、とんでもない大金を神さまから与えられたというお話です。そして、そのことから、「タラントン」を私たち一人一人に与えられた「タレント」として解釈すると、私たちはみなとんでもない可能性を神さまから与えられているのだ、ということができるわけです。
 しかし、よく考えてみると、ここで主人が僕たちに与えたお金は、正確には「ギフト」とは呼びにくい性格のものではないか、という疑問がわき上がってまいります。実はこの主人は、ただお金を与えただけではなくて、帰って来てから、僕たちがちゃんとその資産を運用したか、利益を生み出したかをチェックするのです。これは「ギフト」というよりも「出資」、「投資」に近い感覚です。
 そして、この主人は、利益をあげた僕は高く評価しますが、利益をあげるよりも大事に地面の中に埋めて保管していた僕を厳しく叱りつけます。そのときの主人の言葉はこうです。
 
「怠け者の悪い僕だ。〔中略〕それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」(マタイによる福音書25章26?27節)
 こういう物言いひとつとっても、この主人が自分の金を完全に僕に「ギフト」として渡した、という感覚ではないことがわかります。
 ある注解書によれば、この2000年前の経済のあり方からすれば、地面を掘ってお金を埋めておくのが、いちばん安全で確実な貯蓄であったはず、という説もあります。しかし、この物語では、あえてリスクを冒して、自分に貸し与えられたタレント、すなわち才能(それは個人によって差はあるだろうけれども)、それをフル活用して、さらなる富を生み出しなさい、そうでなければ、私たちにタレントを貸し与えた神はお怒りになるだろう、という厳しいお話です。
 私たちは、限られた寿命の間、生きる事をゆるされ、それぞれに生きる条件を与えられて生きていますが、自分に与えられた条件をフルに活かして生きたかを、自分の人生の終わりに清算されるというのであります。

問題だらけの借財

 これは考えようによっては、しんどい話です。すごい物語ですよね。個々人に与えられているタレントは不平等であるということを、この物語は認めています。人間は生まれながらに平等ではない、という残酷な現実を認めている、すごい物語です……。
 とにかく、私たちは生まれながらに差のある条件が与えられていて、どんなに自分が気に入らない条件でも、それを引き受けて生きていかざるをえません。
 もっと男前に生まれたかったとか、もっと美人に生まれたかったとか、もっと元気な身体が欲しかった、もっと頭が良かったらいいのに、もっとお金持ちの家庭に生まれたかった、もっと平和な家庭に生まれたかった、もっといい人と出会いたかった、自分の心が自分の自由にならない……などなど、その他にも人それぞれ、いろんな不満をお持ちの方がおられることでしょう。
 しかし、結局私たちは、自分の置かれた境遇や条件などを引き受けて、生きてゆかざるを得ません。自分が望まなかった条件があったとしても、それを引き受けることが「生きる」ということなのだと思います。
 したがって、たいていの人の人生は問題だらけです。人から見てうらやましがられる要素があったとしても、本人は全然気に入ってない、ということがよくあります。「問題のない人生」というのは非常に珍しいのではないかと思います。ちょっとした程度の不満がある人もいれば、「どうして私の人生はこんな風になっちゃったんだろう?」と毎日泣きそうになりながら暮らしている人もいます。
 そういう悪条件も全て自分が選んだものだ、人生は結局自業自得なのだ、という人もいます。しかし、そういうことが言える人は、自分では気づいていないかもしれないけれど、比較的恵まれた人なのであろうと思います。現実は決してそうではありません。なぜなら、人は生まれる場所、国籍、人種、民族、そして親、兄弟・姉妹、親族を選んで生まれてくるわけではないからです。どんな人と出会うかも、どんな職業につくかも、あるいはつけないかも、どんな人と結婚するかも、しないかも、完全に自分の自由であるとは言いがたいでしょう。そこには自分のコントロールを越えた偶然の力が絶えず働いています。
 そんな自分にとってはありがたくはないタラントンを神さまが、自分の寿命の期限つきで貸してくれているとしても、そんなタラントンはあんまりうれしくはないわけです。それでも、そのタラントンを最大限に活用して、あなたはあなたの人生を生きなさい、と言われているわけです。これはきびしい注文です。
 もちろん、自分にとってマイナスと思われる事が、実は自分の思い込みであって、どんなに困難に思えるような状況にあっても、それをプラスに転じてゆくことができる人というのは、確かにおられます。しかし、そういう風に逆転の発想ができる人は、それ能力自体がとても高価なタレントと言えるでしょう。
 しかし、どんな人でもそういうタフネスを持っているかというと、そうでもないんじゃないのかな、と思うのです。
 そして、ここでやっと、本日の課題聖句のところにやってまいります。

負債を減らす管理人

 本日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書16章1節以降の「不正な管理人」のたとえ話です。
 あるお金持ちのご主人に、何人かの人たちが大量の油や小麦を借りていて、それを返さないといけないのですが、返せずにいるところを、この主人に雇われている管理人が、証文を改ざんして、借りを軽くしてやる、というお話です。
 物語のなかには、「油100バトス」とか「小麦100コロス」という単位が出てきます。1バトスは約23リッターという説もあれば40リッターにあたるとも言われます。仮に23リッターとしても、100バトスだと2300リッターになります。油、これはオリーブ油のことでしょうが、およそ2トン近くになりますから、結構な量です。これがある借財人の負債です。また、1コロスというのはおよそ200リッターから500リッター近くまで説が分かれています。少なく見ても100コロスは20キロリッターですから、確実に20トン以上はあるわけです。これも結構な量です。こういう負債を抱えている人たちがいたということです。
 私には、この負債を抱えた人びとが、神からこの世の人生を与えられて生きている人間たちに思えるのです。その負債は、本人たちにとって、返すあてもない借り物です。それを活用して新たな商売を展開しているかというと、そういう様子でもなさそうです。あるいは商売をしたかもしれませんが、その結果として、100バトス、あるいは100コロスという負債が残っているわけです。
 この物語に出て来る管理人は、主人の財産を無駄遣いしている、と何者かに告げ口をされます。そのため、主人はこの管理人に
「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」(ルカによる福音書16章7節)と申し渡します。この管理人の男も、主人から任されている財産を有効に活用することなく、無駄遣いをしていることを指摘されて、それを否定もせず、管理人の職を取り上げられたらどうしよう、と考えます。この男も与えられたタラントンを無駄にしている一人です。出来の悪い僕です。無駄遣いをしていたというのですから、タラントンを地下に埋める方がまだましです。
この管理人は考えました。
「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」(4節)。そこで、彼は主人に借りのある人びとに、その負債を軽くしてやろうとします。
 この話はあくまで、たとえ話ですね。現実的にはちょっとあり得ない話です。金持ちに雇われた管理人がやってきて、「借用証を書き換えてあげるから、私がクビになったら私を家に迎えてくれ」と言っても、そこまでのお人好しはいないだろうと思われるからです。
 また、主人の財産を無駄遣いしたりしているのに、それに加えて借用証を勝手に書き換えるなどして、更に主人に損害を与えておきながら、それをほめられるというのも、変な話です。
 しかし、「皆いくほどかは、神さまからいろんな重荷を課せられて生きているではないか」という観点から見ると、この管理人がやったことは、一人一人各々の人生の負担を軽くしてやるということだったのかな、とも思えるのです。
 人間の社会のなかで、人の重荷を軽くしてあげる事のできる人は、たいへん貴重な存在だと思います。です。オリーブ油を100バトス借りている人も、小麦を100コロス借りている人も、問題だらけ、重荷だらけの人生を抱えている人のことをたとえていると考えることができます。そのような重荷を軽くしてやるために管理人は立ち回るのです。
 ここには、タラントンのたとえと比べて、出来の悪い人ばかりが登場しています。主人の財産を無駄遣いする管理人、大量の借りを抱えながらもそれを返すあてもない債務者たち。しかし、そんな問題だらけの人生を抱えた人間たちが、少しでも楽になるように、そして少しでも自分の身柄を守るために、浅知恵を働かせるという物語です。
 そんな管理人のめちゃくちゃなやり方を見て、金持ちの主人はそれをほめたといいます。苦笑しながら皮肉まじりにほめたのかも知れません。いずれにせよ、弱い立場にいる人たちが、なけなしの知恵をしぼって生き残ろうとする姿を見て、その生き様を主人も認めざるを得ないだろう、というたとえ話なのです。

重荷を軽くし合う仲間

 私たちのなかで、自分から生まれたいと思って生まれた者は一人もいません。みな気付いてみたら、この世に生まれていたわけです。
 そして、私たちが生まれながらに与えられたもの、あるいは日々の偶然のなかに出会う事のなかには、重荷に感じることも不条理に感じることもあります。
 タラントンのたとえでは、人間が神さまからいただいているのは、基本的に良いものなんだよ、という楽観主義が目立ちます。しかし、この不正な管理人のたとえでは、人生そんなに楽じゃないよ、という、幾分か冷めた現実主義が表れています。そして、多少ずるいやり方であったとしても、お互いの重荷を軽くし合うような生き方があってもいいだろう、
「なんでもかんでもクソ真面目にやればいいってもんじゃないって、助け合いが大事だよ、それくらい神さまだってわかってくれらーな」といった、ちょっとスレた感じが漂うのです。
 しかし、それは、苦労が報われることの少ない貧しい庶民に、ざっくばらんに優しい言葉をかけていったイエスのイメージには合うような気がします。苦しい生活の中で、イエスが笑いながら、こんなたとえ話をして、「こんな風にみんなの借りが楽になればいいのにな」と言ってくれたなら、庶民としてはうれしかったのではないでしょうか。まあこれも、一種の楽観主義といえば楽観主義かもしれません。
 私たちの人生は問題だらけです。しかし、何が何でも正面からぶつからないといけないということはありません。いろんな方法を使って、重荷から逃げてみる、というのもひとつの生き方です。また、もっと楽に生きてゆこうよ、と人に勧めるのも時にはいいことだと思います。
 そんな、肩の力の抜けた生き方も、聖書から読み取る事ができるのではないかと思います。
「もっと楽に生きてもいいんだよ」と、今日の聖書の箇所は私たちに語りかけてくれているのです。
 お祈りをいたしましょう。

祈り

 愛する天の神さま。
 今日こうして、愛する教友の方々と共に、あなたに礼拝をささげることができます恵みを心から感謝いたします。
 私たちの一人一人が抱える重荷を、どうか神さま、御心でしたら、楽にしてください。
 私たちが互いに重荷を軽くし合うようなふれあいができますように、どうか知恵を与えてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール