「ミレニアムはどこに」

2001年1月1日(月)日本キリスト教団河北地区・新年礼拝説教(日本キリスト教団四条畷教会にて)

説教時間:約25分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネの黙示録20章1−6節(千年間の支配)(新共同訳・新約・p.476-477)

 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

サード・ミレニアムの到来?

 みなさま、明けましておめでとうございます。
  本日、紀元2001年の1月1日は、新しい世紀:21世紀に突入するというだけでなく、新しい第3の千年紀:サード・ミレニアムの幕開けの日でもあります。
  このような日に、礼拝のご奉仕をさせていただけるとは、まさに文字通りの「千載一遇」の機会でございますので、なにやら嬉しいような、気恥ずかしいような、妙な気分でここに立っております。
  世の中では、確かに
「ミレニアム」という言葉が流行しました。特に昨年、まだ新しいミレニアムが翌年から始まるというのに、もう第2ミレニアムの終わりで大騒ぎしてしまって、今年はあちこちの広告宣伝を見ていても、いまひとつ「ミレニアム」という言葉を見かけることは少ないような気がします。
  また、それだけではなく、21世紀の始まりだというのに、どこかシラケた気分が漂っているようにも感じます。おそらく日本の社会がどこか行き詰まった、希望が見出せない状況にあるという閉塞感があって、浮かれた気分になどなっていられない、ということなのかも知れません。
  元来、「ミレニアム」という言葉は、本日お読みしましたヨハネの黙示録の20章1−6節、特に4節の後半……
  
「この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった」――これは、おそらく黙示録がかかれた時代、紀元1世紀後半にローマの皇帝礼拝を強要されながらも、これに屈しなかった人びと、そしてその結果として首をはねられた人々の事ですが――「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した」
  ……と記されている、この「千年間の統治」「千年王国」のことを指す言葉でした。
  これに対して、世の中での「ミレニアム」という言葉の使われ方は、ご存知のとおり、キリスト教における本来の言葉遣いからはずいぶんかけ離れてしまったところで、コマーシャリズムにまみれた使われ方をしているわけで、ただ単にキリスト教を後にして行ってしまったということなら、クリスマスだってそうじゃないかとも言えるわけですが、「ミレニアム」という言葉は、本来、正義と平和と繁栄と幸福が実現される「至福の千年間」の到来という意味なのに、世の中がちっとも至福でもないにも関わらず、「ミレニアム」「ミレニアム」と連呼するのは、実はとても皮肉なことのように感じます。
  街には失業者があふれ、凍死する危険の中で野宿している人もたくさんいます。そんな状況でなんとか生きている人間に、さらに暴力をふるう人間がいます。勤め人の中には、リストラされるか、会社に残って殺されるまで労働させられるか、退くも地獄、進むも地獄といった状況に立たされている人がいます。政治権力者たちは、国家主義や天皇崇拝を振りかざしたり、どうやって消費を拡大させるかとか、どうやって子どもたちを動員させるかとか、国民から金と労働力をたかり取ることばかり考えています。そんな時代・社会のどこを取って「ミレニアム」と呼びうるのか。単純に西暦で数えて1000年区切りになるから、これを「ミレニアム」と呼ぼうというのでは、短絡的という以上に哀しいほどにブラック・ユーモアではないかとも思うのであります。
  「ミレニアム」という言葉の意味と、この世の現実は、おおよそかけ離れています。ミレニアムは未だ来ていない。ミレニアムは未だ現在の世の中には見出しえない、と考えざるを得ないのであります。

希望のない時の希望

 しかし「ミレニアム」という言葉は、本来、希望の言葉であります。
  じっさい、この至福の千年期を描いたヨハネの黙示録は、教会にとって存亡の危機にさらされた時代に書かれたものです。ある教会は圧迫と迫害にさらされ、ある教会は周囲の文化と妥協して教会の独立した基盤を失おうとしていました。そんな中で、この手紙は「近い将来、キリストと、キリストへの信仰のために命を捨てた者たちが、千年間統治し、その後サタンは完全に滅ぼされ、
新しい天と新しい地がこの世に実現するはずだ」(黙示録21章1−8節)という希望のメッセージを携えて書き送られたのでした。
  
「新しい天と新しい地」が来る、という考え方そのものは、旧約聖書の時代から見られるものです。イザヤ書65章17節以降には、このように記してあります。

  
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
   初めからのことを思い起こす者はない。
   それはだれの心にも上ることはない。
   代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。
   わたしは創造する。
   見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
   その民を喜び楽しむものとして、創造する……」
(イザヤ書65章17−18節)

  ここでイザヤ書は何度も
「創造する」という言葉を用いております。この「創造する」という言葉は、旧約聖書では常に「神が創造する」という意味で用いられます。「神が創造する、新しい天と新しい地」。これをイザヤ書が語ったのは、バビロニアへの強制連行から形の上では解放されたものの、多くの者がバビロニアに残ると言って団結は図れず、国を復興しようにも混乱が相次ぐ不安定な社会情勢にあった紀元前6世紀から5世紀のユダヤ人社会においてでありました。
  さらに、
「創造する」という言葉に関して言えば、イザヤ書に次いでこの言葉が多く使われている文書が創世記ですが、創世記で「創造する」と言えば、もちろん冒頭の天地創造の部分。神さまが1週間で天地を創造された物語でありますが、これもまた、バビロン捕囚の辛い時期を経て、復興しようとする途上の苦悩の時代に綴られていったものであると言われております。
  聖書のいちばん最初に書かれた天地創造の由来、そして聖書のいちばん最後に書かれた新しい天地の到来。このふたつをつないでいるのが、真ん中にあるイザヤ書の
「新しい天と新しい地を創造する」という御言葉であります。
  聖書は一貫して、社会が苦しみと悩みに満ち、希望を見失いそうになっている時にこそ、
  「この世は神によって造られたはずではないか! この世は、神に『良し』とされたはずではないか!」
  「この苦しみはやがて終わる。やがて新しい天と新しい地がやってくる。神がそれを創造してくださる!」
と、そのように希望を語ってきました。
  いわば、
「新しい天と新しい地」あるいは「ミレニアム」とは、希望を見失った時代にこそ希望を語る言葉であり、いまの苦しみが、新しい社会が到来するための産みの苦しみであることを教えてくれる御言葉であったわけであります。

しかしミレニアムはどこに

  残念ながら、その希望の未来はまだ実現しておりません。初期のキリスト者たちが、「もう来る」「すぐに来る」と持ち望んでいた世の終わりは、どんどんその到来が遅れて、やがて2000年近くが経過し、そうして現在にいたっております。
  そして私たちは、キリスト教の考え方では、始まりがあって終わりがある、直線的な時間・直線的な歴史の観方をするんだよ、ということは頭ではわかっていても、じっさいの自分たちの生活においては、テレビで『ゆく年くる年』など観ながら、毎年毎年の循環的な時間の感覚のなかで暮らしています。
  世紀末には、世界の終末とか滅亡の予言などが大流行でしたが、それもことごとくハズレましたし、正直なところ「終わりなど来ないのではないのかなぁ」と思いつつ過ごしている人も多いのではないでしょうか。
  果たして、ミレニアムは単なる幻想に終わるのか。新しい天と新しい地は来ないのか。神の国・神の支配は実現しないのでしょうか。
  イエスが、
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9章1節)と言ったのは、ウソだったのでしょうか……。

イエスにとっての「神の国」

  イエスは、そのご生涯のはじめから、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と宣べ伝えておられました。イエスは、神の国の福音を告げ知らせるために遣わされたともご自身で言っておられます(ルカ4章43節)。そしてイエスは、からしの種やパン種など、さまざまな「たとえ」を使って、当時の人に神の国の事を説き明かしていました。
  ルカによる福音書には、イエスが「神の国は、見える形では来ない」と語ったと記されています。
  
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20−21節)と。
  これは今の時代に生きる私たちにこそ、大きな示唆なのではないかと思います。神の国はある特定の場所や時代、あるいは未来にやってくるのではなく「既に私たちの間にある」と。既にあるのですが、それを私たちはまだ発見し、取り出してはいないのであります。
  加えて、私たちの「中に」あるのではなく、
「間にある」と言われているということにも注目しなければなりません。私たちの「間にある」とは、個人の心の中のことではなく、私たち人間どうしの関係の本質について語っているのではないかと思われるからです。
  それはあえて一言で言うならば、
「愛」という言葉で表現されるものなのかも知れません。しかし、あらゆる場所で安易に使い尽くされているにも関わらず、この「愛」という言葉を、言葉だけに終わらない現実にしようとするのは、どんなに困難な事でしょうか。
  しかしその一方で、
「愛が本当にこの世に浸透したならば、この世は本当に神の国になる、この世に神の国が現れるとも言えるのではないでしょうか。少なくとも、「そんなことは非現実だ」と心のどこかで思っているならば、それは決して実際には起こりえないでしょう。しかし、信じて生きてゆくならば、ひょっとしたらいつか本当の事になるかも知れません。

新しい人

  私たちの教会は土の中の小さなからしの種つぶやパンの中の菌のように、決してこの世の中で大きな勢力ではありませんし、ともすれば存在さえも無視されがちであります。しかし、神の国の種はすでに私たちの間に蒔かれております。
  その種は、人間の知らないうちにひとりでに成長する、とも書いてありますが(マルコ4章26−29節)、それは、私たちの
「間」、私たちの関係が、道端でも、石だらけの土地でも、茨が覆い繁った土地でもなければ(マルコ4章13−20節、マタイ13章18−23節、ルカ8章11−15節)、という条件のもとでの事です。
  私たち自身がよい畑であるならば、私たちの間で神の国の種は、成長してゆくことでしょう(マルコ4章26節)。そして、「この世」というパン全体を大きく、そしておいしく膨らませることができるでしょう(マタイ13章33節、ルカ13章20節)。すなわち、本物のミレニアム――正義によって治められ、平和と自由と繁栄のうちに人間が祝福されて生きる、そんな理想の社会――がこの世に実現するでしょう。
  神の国は、ただ口を開けて待つものではありません。私たち自身が神の思いに応えて新しくされよう、新しく生まれ変わろうとする意志によって、神の支配の実現は近づくと言えます。
  すなわち、
「新しい天と新しい地」を到来させるのは、「新しい人間」なのであります。
  ヨハネによる福音書3章3節には、
  
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
とあります。
  新しい千年紀の始まりにあたって、私たちの言葉でいうところの「本物のミレニアム」を迎えるために、「心から、魂から神さまに新しく作り変えてもらおう」、「新しい人間に生まれ変わらせてもらおう」、そして「新しい人間になって、新しい天と新しい地を、この世の私たちの間に、築かせてください(気づかせてください)」と祈る新年でありたいと思うのであります。
  皆さん、いかがでしょうか。

祈り

  祈ります。
  天地を作り、また新しい天地をも、もたらしてくださる神さま。
  この新しい一年の始まりに、こうしてあなたに連なる私たちが一堂に会し、共にあなたに礼拝を献げることができます恵みを、心から感謝いたします。
私たちの内なる人をどうか新しくしてください。そして、あなたによって変えられた者として、この世に関わってゆく人となるべく、あなたの御言葉の呼びかけに素直に心を開く者であらせてください。
  そして、どうかこの私たちの教会を、この世を膨らませるパン種として用いてくださいますように。
  私たちの主、イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。



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