誰の人生もミッション

2005年7月10日(日)日本キリスト教団阿倍野教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書25章14−30節(新共同訳)

  「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分財産を預けた。それそれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。
  早速、5タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに5タラントンをもうけた。
  同じように、2タラントン預かった者も、ほかに2タラントンをもうけた。
  しかし、1タラントン預かった者じゃ、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
  さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、5タラントン預かった者が進み出て、ほかの5タラントンを差し出して言った。『御主人様、5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに5タラントンもうけました。』
  主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
  次に、2タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、2タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに2タラントンもうけました。』
  主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
  ところで、1タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
  主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外に暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

ミッションを持つ働き人になれ

  五木寛之さんという有名な作家がいらっしゃいますね。もうずいぶn前のことなんですが、あの方が、ある雑誌のコメントでこんなことをおっしゃっていました。
  それは、「ミッションを持った人間として生きなさい」というお話です。
  たとえば、「セールスマンならミッションを持ったセールスマンになれ、職人ならミッションを持った職人になれ」といったことです。
  ミッション(mission)とは、キリスト教的に狭い意味で言えば、宣教、あるいは伝道、つまり、キリスト教の教えを宣べ伝えることです。
  しかし、もう少し広い意味で考えれば、直接神さまやキリストのことを宣べ伝えるだけではなくて、たとえば、なんらかの奉仕をする、という風に、神さまから託された仕事を一生懸命つとめ上げるということも指します。
  神さまから与えられた仕事をつとめる、という意味をさらに広げますと、たとえば一般社会における職業や奉仕活動における、「使命感」や「目的意識」と言い換えることもできますでしょう。
  「自分は、なんのためにこの世で生きているのか」ということを追い求める感覚。あるいは……
  「自分は、このことをするために生まれてきたのかも知れない」。
  「自分は、こういう形で世の中に貢献するために、あるいは奉仕するために、世の中に送り出されているのだ」。
  ……そのような感覚を持つことが「ミッションの感覚を持つ」ということであります。
  わたしはふだん学校という現場に勤めています。あるとき、語学研修の付き添いの仕事で、2週間ほどの短期のホームステイ・プログラムに参加したことがあります。
  カナダの西海岸、バンクーバーという街に行ったのですが、ここは海の幸が豊富な港町です。あるシーフード・レストランに入りました。その店はバンクーバーで牡蠣をあつかっている店としては老舗で、伝統あるお店です。
  その店の名刺をいただきました。裏に「Our Mission is …」と書いてあります。「私たちのミッションは……」つまり「この店のミッションは……」と書いてあるわけです。
  「私たちのミッションは:
   1:よい人材を選び、開発し、力をつけることです。
   2:フレンドリーで温かく、楽しい雰囲気のなかで、上質の食べ物とワインをもって、お客様と共に愛を分かち合うことです。
   3:お客様の期待を上回ることです。」
  このお店がどんな目的意識で開かれているのか、その姿勢がよく伝わってくるステートメントですよね。そのお店の仕事の姿勢を「ミッション」という言葉で表しているわけです。
  たとえばセールスマンであるならば、自分の売ろうとする商品が社会的にどういう価値を持ち、どのような形で顧客の役に立とうとしているのか、自分がその商品を売ることで、どのように社会に貢献しているのか、という展望がしっかりと持てていることが大事だということ。
  あるいは、たとえば医師ならば、自分がどういう形で地域の医療に貢献し、地域の人びとの健康の増進に奉仕してゆくのか、その目的に向かう姿勢と具体的な方法を、明らかにすること。最近は、そういうことをきちんとわかるように、待合室の掲示板やテレビ画面、あるいはパンフレットなどで表明している町の個人医院なども増えてきました。
  あるいは、学校や教師ならば、子どもを育てるということは、そのまま未来の自分たちの社会を作るということと同じことなので、どのような形で社会に貢献する子どもを育てようとしているのか、どんな人間形成を目指しているのか、そのために何をしているのか、ということが問われるでしょう。
  そのような使命感を持つ人間として生きてゆくということ、それが「ミッション」をこころに抱く生き方であります。

自分を超えた存在を意識する

  五木寛之氏は、そのような使命感を持った生き方を獲得するためには、どうしても、自分や他人や、そして人間社会全体を、超越したところから見下ろす目が必要だ、ということを言っておられます。
  それが神さまでもいい、仏さまでもいい、なにか人間を超えた、大きな視野、大きな時間の立場から自分を見ている存在を信じて、ものを考えることが大事だということを、五木氏は述べておられ、これにはわたしも大いに共感しました。
  自分を超えた大きな存在に見守られていることを感じながら、その大きな存在から見たら、いったい自分はどういう位置づけになるんだろうと考えて、「その大きなお方から見ておられたら、きっとこのように私が進むのがよいのだろう」ということを思い描きながら進んでゆくことが大切であり、またそうすることで自分のやっていることや、生きていく方向性に意味が出てくるのであります。
  人間関係の横のつながりだけを見て、右往左往ふりまわされていると、自分が生きるうえで「何が大切なのか」という価値観がぐらつき、結局「自分はなんのためにがんばっているのか」とむなしい気持ちに陥らざるを得ません。
  自分を超えた大きな存在に見てもらえるような、はるかな目的、使命感があって、初めて人間は、自分が何のために働くのか、何を求めて生きていくのかがハッキリして、自分が生きている意味をつかむことができるのであります。
  そして、聖書は、そのような私たち一人ひとりに、生きてゆくための賜物、すなわち、才能、能力、あるいは適性といったものを与えてくださっているのだ、と語っています。

「タラントン」のたとえ

  本日お読みいただいた聖書の箇所は、有名な「タラントン」のたとえ話です。同じようなお話で「タラントン」ではなく、「ムナ」のたとえというのがルカによる福音書にあるのですが、こちら「タラントン」のほうが、「才能」を意味する「タレント(talent)」という英語の語源になっていることもあり、よく知られていることと思います。
  ある人が旅行に出るとき、その僕たちに、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金を預けました。すると、5タラントンもらった人は商売をしてさらに5タラントンをもうける。2タラントンもらった人も同じようにさらに2タラントンもうける。ところが1タラントンもらった人は、穴を掘ってお金を埋めてしまった。
さて、主人が帰ってきてみると、これらの人びとの様子を見て、1タラントンもらっていながら何もそれを活用することのなかった人に大いに怒り、その1タラントンさえも取り上げられて、10タラントン持っている人にお与えになった……というお話ですね。
  「せっかくいいものをいただいているのに、あなたはなぜ活かさないのか」というメッセージが伝わってくるたとえ話です。
  タラントンというのが、どれほどの大金か、みなさんはご存知でしょうか。1タラントンというには、イエスがこの地上で生きておられた2000年前の当時で、およそ6000デナリオンという貨幣価値に相当します。
  6000デナリオン……。デナリオンというと、一日の労働者の賃金に相当するのが1デナリオンです。もっとも労働者の賃金と言っても、収入のいい労働者もいれば低い労働者もいるでしょうけれど、とにかく6000デナリオンだというのですから、6000日分の賃金だと思えばよいわけです。ご自身の、あるいはお仕事を持っていない方でしたら、誰か収入のある自分の家族の方の賃金を日割りにして6000日分と考えたらいいわけです。365日年中無休で働いた計算でも、16年半くらいの分の収入です。
  ユダヤ教の安息日の戒律にならって週休1日で考えましょうか。それに夏休みと正月休みを6日ずつ休んだ、あるいは病気や怪我で休むこともあるかも知れないと仮定して、一年に300日程度働くとします。
  すると、6000日分というのは、実に20年分の収入であるということになります。みなさん、自分の年収の20年分というのが、1タラントンだと考えてください。
  つまりこのお話は、1タラントンすなわち20年分の賃金を前払いでもらった僕(しもべ)と、2タラントンつまり40年分の収入の額を前払いでもらった僕と、5タラントンつまり年収100年分の額を前払いでもらってしまった僕とがいる。そういうお話なのです。
  わたしたちがもし大学まで進学することができたとしまして、大卒で無事に就職できたとしましょう。定年までの勤労年数はどれくらいでしょうか。これも会社によってずいぶん違いますが、仮に60歳定年であったとしても、40年も働けません。ということは、たとえ2タラントンであったとしても、現代のわれわれでも、実は一生かかっても稼げないほどの額という意味を持つことになるわけです。
  さらには、この物語が聖書に記されたのは、今からおよそ2000年ほど昔です。主イエスがこの地上に生きておられた時代。現在のわれわれからすれば途方もなく平均寿命が短い時代です。
  赤ん坊は3割は死産、無事に生まれて結婚ができる14から15歳ごろまでに病気や怪我で死ぬのがさらに3割、20歳をすぎるころにはおおよそ8割がたの人が亡くなっていたというような状態の時代のことです。(まぁそれを考えると、イエスという方は十字架で殺されるという不自然な亡くなり方をされたとは言え、34歳は生きられたわけですから、当時としてはかなりの長生きだった、と言わざるを得ませんが)
  そうなると、たとえ1タラントンであったとしても、20年分の収入と考えると、20歳を超えることのできない8割がたの人にとっては、やはり一生かかっても稼げない大金だということになります。
  というわけで、このタラントンの物語は、「あなたがもらっている資源というのは、それほど大きいものであり、価値のあるものなんだよ」と教えているのであります。たとえ1タラントンといえども一生かかっても稼げない人がほとんどだという前提で、2タラントンも5タラントンももらっている人もいて、その人たちに対してご主人様が「お前は少しのものにも忠実だったなぁ」とほめているという、このご主人様のスケールの大きさ。
  それだけ、大きな恵みを私たちは神さまからいただいている。それを地中に埋めて眠らせているような人がどんなに多いことでしょうか。

賜物に差があったとしても

  このお話で、もうひとつ大事なことがあります。それは、2タラントンをもらった人と5タラントンをもらった人は、その差が倍以上もあるにもかかわらず、お互いそれを比べてはいない、ということです。
  人それぞれが与えられたタラントン、すなわちタレント、賜物は、人それぞれに違っているものであり、それは私たちがお互いを比較すれば、「あの人はたくさん恵まれている」という風に見えたり、「わたしはあんまり恵まれていない」と思いがちなものですけれども、人それぞれに与えられたものは、それぞれに違った当たり前なのだ、ということをそのまま受け入れて、それなりに活かして生きるのがよいのだよ、ということなのであります。
  自分のことが嫌いになってしまうことが、人には時々あります。
  わたし自身も(見かけからはそうは見えないとよく言われますが)そういう風に落ち込んでしまったりすることがよくあります。
  学校に勤めていると、ときどき自分のオフィスにふらりと立ち寄る生徒が、「オレって、どうしてこんな人間なんでしょうね」と話しかけてきたり、「つくづく自分のことがいやになりました」とメールを送ってきたりする生徒がいたりします。きっとこんな風に悩みを漏らすことのできる人というのはほんの一部で、もっとたくさんの子どもが、何度も「なんで自分はこんな風に生まれたんだろう。こんな自分なんていやだ」と思っているのだろうと思います。
  まだまだ人生の駆け出しの時期で、自分にはどんな贈り物が神さまから与えられているのかも手探り状態で、自分でもわからない。そんなもどかしさが伝わってきます。
  そして、自分よりも、他の人のほうが、自分よりもよい性質、優れた才能を持っているように見えて、自分らしさというものがなかなか発見できないでいるのです。
  いや、これは思春期の子どものこととは限ったことではなく、年齢とは関係なく大人でも、人のタラントンがうらやましく、自分のタラントンがうとましく思えてきたりすることはよくあります。
  しかし、1タラントン持っている人は、2タラントン持っている人を「あいつはオレの倍じゃないか」とうらやましがっているけれども、そのうらやましがられている2タラントンの人が、5タラントンの人に「あの人は私の倍以上持っている」とうらやましがっていたりする。
  2タラントンの人が「こんな自分は嫌だ」と思っていても、1タラントンの人から見れば「うらやましい」となるように、私たちの現実も、そのように、自分では「自分のこんなところが嫌だ」と思っているようなことが、他の人から見れば「いいなぁ」と思うようなことであったりするわけです。
  「自分はペラペラおしゃべりで、損ばかりしている」と思っている人が、「あの人は人前で話をする賜物をいただいている。うらやましいなぁ」と思われているのであり、「自分は無口で無愛想で、損ばかりしている」と思っている人が、人からは「あの人は無駄口をたたかない、信頼できる人だ」と思われていたりする。
  「自分は計算高くて、利己的な人間だ。自分はこんな自分がイヤだ」と思っている人が、他の人からは「あの人は合理的な判断ができる、実に有能な人だ。ああいう才能があったいいのにな」と思われていたり、「自分は美しい容姿に恵まれなかった」と思って嘆いている人が、「あの人は安心して近づきやすい人だな」と思われていたりする……。
  人間同士の感情なんてそういうものではないでしょうか。

賜物の「管理者」であるわたしたち

  賜物について、ペトロの手紙(一)の4章10節には、このように記されています。
  
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みのよい管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力が、世々限りなく神にありますように、アーメン」
  「あなたがたは、自分に与えられた恵みの
管理者として、その賜物を生かしなさい」と書いてあります。
  わたしたちは、自分に与えられたタラントンの「管理者」です。
  自分には何ができるのかを探し出し、力の強い者・弱い者、器用な者・不器用な者の差はあっても、自分に与えられたかぎりの能力をしっかりと生かして使う責任が、神さまから与えられているのだ、と言い換えることもできるでしょう。
  そういう生き方が、私たちの人生を張り合いのあるものにしてくれ、生きている手ごたえを感じさせてくれるはずです。
  「語る者は語り、奉仕する者は奉仕する」、これは教会の中でのことを指しています。
  しかし、教会の外に出て行っても、わたしたちは、物を売る人は神さまの与えてくださった才能を生かして売るのであり、教える者は神さまの与えてくださった才能にしたがって教えるのであり、物を作る人は神さまの与えてくださったインスピレーションによって物を作るのであり、癒す人は神さまの助けを祈り求めながら癒すのであります。
  そして、わたしたちは、愛そのものである神さまの力をいただいて、それを上手に用いながら、互いに愛し合って生きることができるのであります。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日は阿倍野教会の皆様と共に礼拝を守ることができ、心から感謝申しあげます。
  私たちが同じあなたの愛に守られて、支えられて生き、こうしてひとつの礼拝においてつながりあうことができます恵みを感謝いたします。
  わたしたちがあなたに与えていただいた命の時間、ひとりひとりが与えられておりますタラントンの恵みを、わたしたちが埋もれさせているとしましたら、どうかそのことに気づかせてください。
  わたしたちが、自分でもあなたの贈り物に気づかずに日々を送っているとしたら、どうか、わたしたちにそれを気づかせてください。そして埋もれている自分のタラントンを掘り起こさせてください。
  そして、すでに自らの使命を見いだしている者には、末永くあなたの恵みに応えて、自らのこの世での使命を全うすることができますように、どうか支え導いてください。
  この足らざる感謝と願いの祈りを、わたしたちの主、イエス・キリストの名によって、お聴きください。
  アーメン。

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