よくわからない先生

2005年3月26日(土)キリスト教学校教育同盟第46回中高研究集会・第3日目朝礼拝奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 8章1−11節(新共同訳)

  イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
  そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人びとが、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
  「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたがどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
  イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
  しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
  「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
  そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
  女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
  「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

よくわからない先生

  思想は継承できない、と言います。弟子は師匠のことを正確に理解できるはずはない。
  「人が別人のことを完全に理解することなどできるわけがない」、というのは当たり前のことですが、その前提に加えて、何かを他者から学びとったり、意味あるものを読み取ろうとするものは、必ず自らの解釈を加えてしまいますから、絶対に師匠のメッセージは、正確には伝達されえません。
  それはわたしたち教師が常に痛いほど生徒たちや、他の教員たちに対して感じていることではないでしょうか。
  授業のあとに感想のレポートなど書かせてみると、あるいは、礼拝説教のあとの茶話会で、あるいは講演会や発題のあとの懇談会などで、私たちは人ひとりが考えていることが、いかに他者に伝わらないか、ということを思い知らされるのであります。
  そしてそれはまた、イエスと弟子たち、あるいはイエスと彼を取り巻く人びとにとっても同じことだったのではないか、と思われます。

「居着き」

  最近読んだある本に、「解釈者の位置に身を固定されるということは、武道的には必敗の立場に身を置くということ」(p.162)と言う言葉がありました。
  武道の世界では、「人は解釈者の側に回ってしまうと、必ず負ける」ということです。
  相手が「どう出るか」と考えて身構えてしまった状態を、武道では「居着き」と言うそうです。
  「居着き」、「居着いてしまう」。それは、足の裏が地面にはりついて身動きならない様子のことをさしますが、要するに「相手がどう出るか?」ということに心がとらわれて「待ちの状態に固着してしまい」自由を奪われた状態で、武道としては最悪の状態だそうです。
  こうやって「待ち」に居着いてしまいますと、絶対に相手の先手を取ることができず、まず相手が何かしてから、それに反応するようにしてしか動き始めることができない。
  これは勝負の世界に関わらず、たとえば人に恋をしたときでもそう。相手に「魅入られてしまう」というのは、実は恋した相手のことが気になって自分の精神の自由が奪われてしまう、一種の「居着いて」しまった状態です。
  また人と人の対話、問いを出す者とそれを解く者の関係においても、同じことが言えます。「謎」の解釈者は、かならず「謎」をかけてくる人に対して、絶対的に動きが遅れてしまう。そうなると、「謎」のメッセージを発信している(ように見える)先生が、にっこりと近づいてきたかと思うと、突然、刀を抜いた……! こちらはあっという間にばっさり切られてしまう。そういう可能性もあるのであります。

落書き

  わたしがここから連想するのは、本日お読みしました聖書の箇所、ヨハネによる福音書の8章、姦淫の現場で捕らえられた女性がイエスの前に連れてこられたときのことです。
  そこに居合わせた男たち全員が、「おまえならどうするのか?!」と問いを浴びせかけました。イエスを罠にかけるために、謎を投げかけたのですが、イエスのほうがはるかに上手(うわて)でした。
  イエスは沈黙したまま、地面に何かを書いています。
  その予想を全く外したイエスの行動に、イエスをハメようとした男たちは、じりじりと時間がたつほどに「こいつはいつ、何を言い出すのか」「次にどういう動きに出るのか」と、イエスの一挙手一投足に注目してしまいます。自分たちのほうからまんまと、「居着き」の状態にハマっていったわけです。
  わたしが運営しているホームページの掲示板で、「この時イエスは何を書いておられたのか」ということが話題になったことがあります。けっこう盛り上がりました。
  インターネットを通じて話題に参加していた参加者の多くの方が、何か文字を書いておられたように想像しておられたのはおかしかったです。たぶん、みなさんネット上で文字を介するコミュニケーションをしているので、書くのが好きであるか、得意であるか、そういう人が多かったから、「このときイエスは文字を書いておられたのだろう」と予想されたのではないか、と思っています。しかしぼくは、こんな風に発言しました。
  「ぼくが授業をしている時などに、ぼくの話が『つまらないなぁ』と思っている生徒が落書きをしていた場合は、それが文字であることは少ないですね。たいていはマンガとか似顔絵です」
  まぁじっさい、何を書いていたかということは、わかりませんけれどね。
  とにかく、イエスという先生のやることは謎めいている。この「謎めいている」というところが大事なんだろうと思います。

「勝負あり」

  人間は「意味がない」ということに耐えられない人が多いです。
  ですから、ついこういうイエスの謎めいた行動のなかにも、「何か深い意味があるのではないか」と思ってしまう。
  しかし、実はぜんぜん意味なんかなくて、彼はただ「くだらないなぁ」と思いながら、うんざりと落書きをしてしまっていたかも知れないのですね。
  それに対して、「こいつ本当は何が言いたいんだ」という思いにとらわれてしまった時点で、すでに周囲の人間たちは、イエスに負けていたのであり、また「このイエスの行為に深い意味があるのかも知れない」と思った時点で、わたしたち現代の読者もイエスにハメられているのかも知れません。
  ですから、不意に、不図(ふと)立ち上がってイエスが、ぼそりと「あなたがたの間で、罪のない者から、石を投げたまえ」と言った瞬間、完全に勝負はついたわけです。
  周囲の人びとは、年寄りから去って行ったといいますが、それは年寄りほどおのれの罪深さを知っているから悔いながら去って行った、とかいうのではなく、年寄りはこの「負け」の状況を悟ったから、ということではないのかな、と思うのです。
  このバカバカしさに気づかない小僧か、あるいは意地っ張りで血の気の多い若造たちだけが、なんとか反撃したくて、なかなかそこから立ち去ることができなかったというだけのことなのではないか。
  いや、もちろん、これも解釈のひとつに過ぎませんが。

勇気ある誤解

  さて、先にわたしが引き合いに出したには、「(どうせ先生の思想は、誰も正確に継承できないし、正解というものがそもそもありえないのだから)、あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で誤解した」者が、そのメッセージの「受信者の独創性とアイデンティティを基礎づける」(p.151)というようなことも書いてありました。
  「もっとも個性的、独創的に師匠の思想を解釈した者が勝ちだ」ということになりましょうか。
  となれば、たとえばキリスト教で、いちばんイエス先生のことを個性的に誤解して、しかし、そのあまりに強烈に個性的な誤解のゆえに後々の人に(まぁ悪影響も含めて)世界的な大影響を与えてしまったのは、なんといってもパウロだろう、ということになるのかもしれません。
  もう少し、今回のこの3日間の研究集会の趣旨に沿って考えても、考えてみると、わたしが勤めている同志社という学校にしたって、創立2年目にどよどよと九州からやってきて、一気に生徒の過半数を占めてしまった肥後もっこすたち、すなわり「熊本バンド」の面々などは、新島襄という先生を偉大な師と仰ぎながらも、ぜんぜん新島襄と思想も行動も違っていたりするわけですが、その人たちが後の同志社を大きな力で導いていくわけです。
  大事なのは、「勇気ある誤解」……なのかも知れません。
  誤解を恐れず、誤解を許しあい、しかし、一生懸命に、「わたしたちの学校の、本当に拠って立つべき基礎とはなんなのか」という事を、懸命に、口角泡を飛ばして語り合うことをやめないこと。そうやって語り合おうじゃないかと、他の教員たちに呼びかけること。その勇気を持つことが、実はものすごく大事なことではないかと思います。
  もちろん、いくら「個性的な誤解」とは言っても、それが未来を生きる子どもたちへの愛に根ざしているかどうか、という問いに応えうるものでなければならない、ということは大前提です。「この学校は自由の学校だから」と言いながら、教師がわがまま勝手にやりたい仕事とやりたくない仕事を自分の都合で選んだり、「ゆとりの教育」と称して、教師のほうがゆとりを確保するのに一生懸命になっていたりというようなことは本末転倒です。
  けれども、その反面、全く希望がないわけではありません。現に、わたしの学校の若い教師たちの中には、ごく少数ではありますが「学校は危機に陥っているのではないか」と敏感に感じ、創立者とその精神のことを学びたいと言い始めている。
  わたしは、それに応えることができる、応えなければならない立場にいるクリスチャンであり、聖書科の教員であるということを、とてもありがたいことだと感じ始めています。
  自分も含めて、創立者の創業理念、建学の精神を学ぶ者には、かならず大いなる誤解を自ら犯す可能性が多々あるでしょう。しかし解釈の多様性が放射状に伸びていったとしても、出発点が「点」として、存在している限り、そこから出発しているのだ、という信頼感を共有することは、気づいた者から同僚に呼びかけてゆかねばならない、と思います。
  そして、生徒ひとりひとりへの、心からの愛をもってってこれを貫くならば、「大胆なる誤解」も許されるのではないか、とも思うのであります。
  正解のないキリスト教教育。それをスローガンに陥らない形ある実践に変えてゆくのは、わたしたちの生徒一人ひとりへの愛、独創性を恐れない勇気と、そして実行力なのではないかと思います。
  それらを日々、お与えくださいますように、共に神さまに祈りたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  荒々しさと混迷とが増し加わる世の中で、わたしたちが、新しく生まれてきた小さな魂を育て養うということは、日々とても難しい状況になってきています。
  そのような中で、時に弱さをおぼえ、手を抜こうとしたり、子どもたちを愛しきれないこともありうるわたしたちを、どうかお赦しください。
  このような弱さにも関わらず、わたしたちを教育のわざに用いようとなされる、あなたの憐れみと不思議な恵みを感謝いたします。
  神さま、どうかわたしたちをお見捨てにならず、希望を自らの中にかきたてる勇気を与えてください。
  子どもたちへの愛と、世に流されぬ勇気と、信仰を行いに変える実行力をどうか与えてください。
  わたしたちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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