はらわたのちぎれる想い

2007年8月12日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 主日礼拝説教(「大切なことはなにか」改題)

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:申命記6章4〜9節 (新共同訳・旧約)

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
  今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

シェマー・イスラエル

  本日お読みしました申命記第6章4節以降は、「聞け、イスラエルよ」から始まる有名な箇所で、申命記、ひいては旧約聖書:イスラエル民族が正典として重んじるヘブライ語聖書の中心といってもいい部分です。
  これを唱えることがユダヤ人としてのもっとも基本的な信仰告白で、伝統を重んじる家系のユダヤ人成人男子は朝夕2回これを唱えることが義務付けられているということです。
  
「聞け、イスラエルよ」という言葉は旧約聖書の原典のヘブライ語では「シェマー・イスラエル」といいます。そこで、「シェマー」と呼べば、「ああ、あの聖書の箇所だな」とユダヤ人どうしなら通じるわけです。
  そして、この
「シェマー」の言葉、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4−5節)と書いてある、そのことに対して……「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(6−9節)とありますので、じっさいにユダヤ人の男性は、革でできた小箱にこの聖書の聖句を書いた紙を入れて、一つは左腕に、もう一つは額の上に、革の紐でくくりつけます。これを「テフィリン」というそうです。また、家の入り口につけるのは「メズーザ」といいます。じっさいにはテフィリンには、この申命記6章以外にも他に出エジプト記などからとられた合計4ヶ所の聖句が細かくびっしり書かれたものが入っています。
  比較的リベラルなユダヤ系アメリカ人などなら、人前でそこまではやらないんでしょうが、伝統を重んじるゴリゴリのユダヤ教徒なら、今でも、そしてイスラエル以外の国でも、このテフィリンを実践しています。
  私は3年ほど前にアメリカのボストンに仕事で出張したことがありますが、帰りのボストン・ローガン国際空港の出発ゲートのロビーで、これを着用しようとしているユダヤ人男性を見ました。みんなが出発ゲートのロビーで飛行機の搭乗を待っている、そのときに、やおら上着を脱いでシャツも脱いで、何を始めるのかと驚いていると、荷物の中から長い帯のついた黒い箱を取り出して、まず頭に帯をまきつけて、箱を額の上に固定するんですね。それからもう一個の箱を自分の腕の上にのせて、黒い帯を7回ぐるぐるぐるっと腕に巻きつけて固定します。これで、この人がゴリゴリのユダヤ教徒だということが誰にもわかります。なんでこんな場所でこんな時にやるんだろうと思いました。よりによって同時多発テロに使われた飛行機が飛び立った、セキュリティも一段と厳しい緊張感ただようボストンの空港です。こっちは小心者ですから、反ユダヤ感情を持っている人が見たら、どうするんだろう、こりゃあ完全に挑発じゃないのかなぁとびくびくしていたのですが、何事も起こらず、無事飛行機は出発し、次の乗り換え空港に到着しました。

イエスが律法を要約したのか

  そんなわけで、イエスの時代には、もちろんユダヤ人男性ならみんなこの聖書の言葉を知っていたわけですし、安息日以外の日には、テフィリンを額や腕にまきつけて暮らしていました。「シェマー」の祈りは朝夕2回です。ですから、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉は、誰でも知っている祈りの言葉でした。
  私たちはこの言葉を、新約聖書におけるイエスを交えた問答の中で見ることができます。例えば、
マタイによる福音書22章34節以降、あるいはマルコによる福音書12章25節以降がそうなんですが、とりあえず先に書かれた古いほうのマルコ福音書を見てみましょう。マルコの12章28節、ページは新約聖書の87ページです。読んでみます。
「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになってのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」』」(マルコによる福音書12章28−30節)
  これは、さきほどの
「シェマー」の言葉と比較すると、多少は言葉の違いはありますが、大体言いたいことは同じです。ほぼ先ほどの申命記の「シェマー」を繰り返そうとしていることがわかります。
  そして、加えてイエスはこう続けたと伝えられています。
「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(31節)
この言葉にも旧約聖書にルーツがありまして、
レビ記19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉が収められています。これをイエスは思い起こして話した、というわけです。

律法学者が要約したのか

  ところで、この同じ言い回しが、イエスからではなく、イエスの論争相手であった律法学者から発せられる場面が、新約聖書の中にはあります。……「善いサマリア人」という呼び名で知られる有名な話の冒頭で、イエスと律法学者の間に交わされる会話のなかに出てまいります。
  あちこち飛んで申し訳ありませんが、読んでみましょうか。新約聖書の126ページ、
ルカによる福音書の10章25節からです。では……。
  
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」(ルカによる福音書10章25−28節)
  ある学者によれば、こちらのほうがイエスを交えた実際の問答に近かっただろうということです。
「シェマー」というのは誰でも知っている聖句なので、イエスが口にしようが、律法学者が口にしようが、どちらでもありうるのですが、一つ違うのは、いま読んだルカ版の問答でのみ、イエスが「それを実行しなさい」と言っていることです。
  マタイ版もマルコ版も、
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、主なる神を愛せ。これが律法と預言者が基づいているものだ」(マタイ版)、あるいは「あなたは神の国から遠くない」(マルコ版)と言って終わりです。言い方は悪いかもしれませんが、評論家風な口調です。
  しかし、このルカ版では、唯一イエスは
「実行しなさい」と、この律法学者に迫っています。
  
「実行しなさい」
  この言葉の与えるプレッシャーは大きいです。「あなたは正しいですね。それでいいんではないでしょうか」と認めるのは比較的簡単なことです。しかし、「いいんじゃないですか。じゃあ、それを実行してみてくださいよ」とくれば、一歩自分の懐にズカッと踏み込まれた感じがしないでしょうか。
  イエスが「それは正しい答えだ」で言葉を止めていたら、この問答は無難な会話で終わったのです。しかしイエスは、さらに一歩踏み込んで「じゃあ、それを実行してみなさい」と迫ってくるわけです。
  このプレッシャーを、この律法学者も感じたのでしょう。イエスに尋ね返します。
「では、わたしの隣人とはだれですか?」(29節)。そこで彼はイエスに、「善いサマリア人」として、私たちがよく知っているたとえ話を聴かされることになります。
  ここでは、私たちが普段読んでいる新共同訳の聖書ではなく、佐藤研さんという立教大学の教授が訳した日本語訳で私が朗読してみます。

サマリア人に親切にされたユダヤ人のたとえ話

  「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだってきた。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いでその傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って、その介抱をした。そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」(佐藤研「キリスト教はどこまで寛容か【その1】」『福音と世界』2007年8月号、新教出版社、p.41)

あなたも行って、同じようにしなさい

  律法の専門家は言います、「その人の痛みを分かって、行動に移した人です」。すると、イエスは改めて、「あなたも行って、同じようにしなさい」と告げます。やはり「実行しなさい」とたたみかけているのです。
  この物語には、象徴的で神秘的な意味とか、抽象的な宗教の理念とかいったものは関係ありません。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛する」とはどういうことなのか、「隣人を自分のように愛する」とはどういうことなのか。それを具体的に例をあげると、こういう事になるわけで、それを「あなたもやってみたらどうですか」という単純明快なイエスの問いかけなのです。
  このたとえ話の中で、追いはぎに襲われた人というのは、当然ユダヤ人であることが想定されているでしょう。サマリア人というのは、ユダヤ人とは互いに非常に反目しあっていた民族です。それも他の民族と違って、もともと祖先も宗教も同じだったのに、歴史のある時点から互いに袂を分ち、似たような別の宗教を作って分裂しましたから、一種近親憎悪のような感も否めません。他の民族ならともかく、サマリア人はいけない、あいつらは裏切り者だという感じです。もちろんサマリア人も、ユダヤ人といっしょにしないでくれ、という感覚です。
  ですから、本当なら、ユダヤ人が半殺しにされて倒れているなら、道の向こう側を通って知らんぷりをして去って行くのはサマリア人のはずなのです。
  しかし、ここではまったく逆に、このサマリア人が
「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られて」(33節)います。新共同訳聖書では「憐れに思い」(33節)としか訳してありませんが、もとのギリシア語では「はらわたがちぎれて」という意味の言葉になっているのです。
  民族が違う、宗教が違う、そんなこと全然関係ない。今、目の前で苦しんでいる人を見て、あなたは「内臓がちぎれる想い」を抱くことができるか。そして、即座に助けることができるか。それは、自分はなに人だからとか、あいつは何教の信徒だからとか、あの人とは宗教観が合わないだとか、そういうことは、イエスにとってはまったく問題ではないのです。
  イエスにとって大切なのは、「人の痛みをわかることができるのか」、そしてその痛みに押し出されて、人を助けることを「実行するのか、しないのか」、それだけです。

イエスからの問いかけを受け止める

  「実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)とイエスは言います。
  それでは、実行しなければどうなるのか。そのことについては、イエスは何も言っていません。そもそも
「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)という律法学者が発した、その問い自体が愚問であるということをわからせるために、イエスはこのような受け答えをされたのではないかと思われます。
  日々を何とか生きている者にとっては、永遠の命がどうのこうのと言う前に、まず今日を生き延びることが大事です。
「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)ともイエスが言ったとおりです。
  どうすれば救われるだろうか。どうしたら永遠の命が得られるだろうか。そんなことを悩むようなヒマも余裕もない人間がたくさんいるのです。また半殺しにされたような痛手を負っている人がたくさんいるのです。自分で自分の命を傷つける人もたくさんいます。
  この日本は、1年間に3万人近くの人が自殺をするという、交通事故で死ぬ人の倍以上、文明国の中でも特に自殺者の多い、自殺大国です。永遠の命についてあれこれ悩める人はそれだけでじゅうぶん幸せなのであって、生きていたくない、早く死んでしまいたい、早く自分を終わらせてしまいたい、そうまで思い悩んでいる人が世の中にはたくさんいるのであります。
  そんな現実に対して、あなたが命のためにできることはなにか。永遠の命という前に、まずは今日、明日を生きる命のためにできることはなにか。それは、痛みや苦しみを持っている人の隣人に自らなること以外にはないんだよ、とイエスは教えてくれています。
  そして、自分から誰かの隣人になる、ということに、神を愛することも、人を愛することも、含まれているのだよ、とイエスは教えてくれているのであります。
  まだまだイエスの教えた境地には、私自身ほど遠い者です。しかしそれでも、人の痛みに自分の「はらわたがちぎれる」ような思いを抱き、その感情に基づいて実行ができるような、そんな人間を目指して生きていきたいと思うものです。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  恵み深い父なる御神さま。
  日々私たちを養ってくださり、心から感謝いたします。
  今日、明日を生きることも余儀なくされている人びとがたくさんおられることを思います。しかし、そこに私たちがあなたの御心にしたがって生きるチャンスも与えられていることをも思い起こす者です。
  どうか、どんなに小さくてもあなたに従い、あなたの愛を実行する者となれますように、私たちに勇気を与え、支え導いてください。
  イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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