世界はモザイクのようなもの

2009年6月15日(月)北星学園女子高等学校 礼拝奨励

説教時間:約20分

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
小礼拝堂(ショート・メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の玄関に戻る

聖書:コリントの信徒への手紙T 12章14−19節(新共同訳・新約・p.316)

  体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで髪は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

修学旅行はどこへ行きますか?

 最初にみなさんにおたずねしたいと思います。修学旅行はどこに行くんですか? 広島? そうですか、広島いいですね。たくさん学ぶ事がありますよ。さっき、中学の人たちに聞いたら、中学では修学旅行はカナダに行くんですね。うちの中学校は修学旅行でどこに行ってるかご存知ですか? 知るはずがありませんよね。実は北海道です。函館です。みなさんの地元に来るんですよね。高校では昨年度までハワイに行ってました。今年からオーストラリアに行く事になりましたが、これは本当に行けるかどうかわかりません。新型インフルエンザの影響を受けて、行き先変更になるかもしれません。でも、私は海外に行くのは大好きなので、たとえ仕事であっても海外に行くということになると、心がウキウキします。
 さて、自慢するようなことではありませんが、私は英語が下手です。もちろん観光旅行で街中を一人で行動したり買い物をしたりするくらいは大丈夫ですし、簡単な会話はむしろ好きなんですが、たとえば英語で討論をしたり、英語で授業をしたりというのはできません。恥ずかしいことだとは思っています。しかし、それでも海外に行くのは大好きです。
 実は海外に行くのが好きな理由のひとつに、「同じ人種の人たちがそろっている風景が苦手」という、ちょっと変かも知れない理由があります。いろんな肌の色とか、ひげをはやしているとかいないとか、いろんな人種の人が居合わせているほうが自然な感じがするんです。
 自分の周りにいる人間が全員モンゴル系のアジア人、まあ日本にいるとたいていの場所はそうですけど。それでも最近は都会ではだいぶいろんな顔の外国人を見ることができるようになって面白いな、と思っています。でも逆に、自分の周りが全部コーカサス系の白人だとか、全部アフリカ系というのも苦手です。まんべんなく混ざっていてほしいんです。
そういう意味では、今まで行った外国でいちばん面白かったのはトルコです。白人もいて、黒人もいて、中国系や日系もいて、これに中央アジア系が加わって、本当にいろいろで楽しかったです。

みんな一緒が落ち着かない

 なんで同じタイプの人ばかりそろっていると不安になるのか……。
 実は人種だけが問題なんじゃなくて、思想や行動など他のことでも「みんないっしょ」というのが落ち着かないんです。「全員一致」というものをすごく疑いたくなりますし、「みんながやってるからわたしも」という人ばかりが集まっている場所には恐怖感さえ覚えます。
 たとえば宗教なんかもそうです。
 こういう体験をしたことがあります。
 これは12年ほど前のことなんですが、私の学校にあるアメリカ人の英語の先生がいました。
 ある年の12月末、もう今年は会わないな、と思う先生には「では、よいお年を」と言って別れますね。いろんな日本人の先生に「よいお年を」と言ってから、今度はそのネイティブの先生に、こんな英語があるのかわかりませんが、即座に考えて、「Have a good Christmas!!」と声をかけたのです。その瞬間、それまで笑っていた彼の顔がちょっと曇って、何か変な事を聞いたような困った表情になりました。しかし、彼が何も言わなかったので、そのまま私は「Bye-bye」と別れてしまったのです。
 私は、さっきの彼の曇った表情が気になって、もやもやした気持ちを抱えたまま教員室を出て、校舎を出て、校門を出て、バス通りの横断歩道で信号待ちをしているときに……「ハッ!」と思い出しました。
 「あの先生はユダヤ系アメリカ人だった! そりゃクリスマスはいけない!」
 ユダヤ人は基本的にユダヤ教徒です。ユダヤ教ではイエスは救い主ではありません。だからクリスマスはありません。
 またそれだけではなく、キリスト教が支配した1000年以上のヨーロッパの歴史を見るだけでも、ユダヤ人は長い間、差別されたり、虐殺されたりしてきました。
 そういう重い事情を考えると、私が彼に「クリスマスおめでとう」なんて言うのは、ふざけてるということを通り越して、侮辱しているというか、なんと私は能天気だったのでしょうか。
 私はあわてて走って教員室に戻りました。まだ彼はいてくれるだろうか……。もう帰ってしまったのではないだろうか……。果たして、彼はまだ教員室にいてくれました。間に合いました。
 私は彼にヘタクソな英語で謝りました。「クリスマスおめでとうなんて言ってごめん!」
 すると彼はやっと笑顔になってくれました。私は彼に「こういう年末年始の頃には、君たちユダヤ人は何て言うの?」と訊きました。すると彼は「ハッピー・ハヌカー(Happy Hanukkah!)」と言うんだよ、と教えてくれました。
 ハヌカー祭というお祭りがあって、これはユダヤ人にとっては歴史のある大切なお祝いがあるんですね。ハヌカー・キャンドルなどを立てて灯したり、ハヌカー・プレゼントというのもあります。
 そこで私は「さっきはごめん。ハッピー・ハヌカー!」と言いました。すると彼は笑顔で「メリー・クリスマス!」と言ってくれました。

「みんな」ではない

 アメリカ人だったら、みんなクリスマス。それは間違いでした。それから私はキリスト教の授業をやるかたわら、ユダヤ教についての本を読んだり、イスラームや仏教についての興味を持つようになりました。
 そうこうしていると今度は、1週間だけだけど、マレーシアのムスリム(イスラームの信徒)の家庭でホームステイして、イスラームを肌で感じる体験をしませんか、というコースの話がまわってきました。私は喜んで手を挙げて、即座にそれに申し込みました。マレーシアで1週間、出会う人は全員ムスリムです。
 最初、これも恥ずかしい話ですが、正直に言って、怖いという気持ちがありました。ちょうどそのころ、2001年9月11日の同時多発テロに対する報復の攻撃で、アメリカがアフガニスタンに激しい空爆を仕掛けているときでした。日本のニュースは、テレビも新聞も毎日にように「イスラーム過激はが自爆テロを起こしました」とか、そういった調子の報道ばかりがされていて、それでなんとなくイスラームの信者はみな過激な要素があるのではないか、というイメージを持ってしまっていたんですね。
 でも、じっさいは全然違いました。私が出会ったムスリムはみんな平和が大好きな、穏やかで朗らかな人たちばかりでした。でも、それはちょっと考えたら当たり前なんですよね。だって、ムスリムはクリスチャンに次いで2番目、世界中に20億人近くいます。その20億人がみんな過激な人だったら、地球は滅んでます。過激派というのはごく一部の人のことを言うんですね。そして過激派というのは、イスラームだけではなくキリスト教の中にもあって、そういう人たちがイスラーム圏への爆撃を後押ししていることもわかってきました。
 そういうわけで、私たちはいかに作られたイメージに踊らされているのか、ということを思いました。

「ふつう」ではない

 もうひとつ、自分とは違う人たちに囲まれた経験をお話しします。
 実は私、大学時代に、同性愛者の権利を主張して、差別をはね返そうという活動に参加していた時期があります。
 ある日のミーティングで15人ほど集まったとき、私だけが異性愛者で、周りの全員が同性愛者だというときがありました。
 そのとき私は、そこにいた全員から変態のように言われました。
 「いやだねー、何で男のくせに、女なんか好きになるのよ。女なんて、あんな気持ち悪いものを好きになるなんて、変態よ、変態!」
彼らにとっては同性が好きになるのが「ふつう」で、「自然」で、異性を好きになるほうが気持ち悪いことなんです。そして、そうやって同性愛者に囲まれて、「男なんだから、男を好きになるのは当たり前じゃない! そうでしょう?」と言われると、「う、うん、そうかな……」と思えてきちゃったり……。まるで自分のほうがおかしいのかな、やっぱり、という気分にさせられました。
 そして気がつきました。「ふつう」とか「変」という言葉で、どんなに少数派の人が苦しめられているのかが垣間見えたような気がしました。

「ちがう」ことの面白さ

 そんないくつかの経験を通して、私は、人間というのは自分が想像するよりもずっと多種多様で、本当はお互いに違っているもんなんだなということに気付かされました。
 また、そういう経験に慣れてくると、実は人間は、自分の知らない部分があったり、いろいろ違っているほうが面白いと思うようになりました。
 そして、お互いに「同じ」ということで固まると、「同じ」でない人を仲間はずれにしたり、いじめや差別の原因を作ってしまいますが、「違う」ということに面白みを発見するようになると、そういうことがなくなるように思うんです。
 だから、それに気付いてしまうと、今度は似た人たちばかりが集まっているところに入ると、誰か仲間はずれになっていないか、誰か変わった人がいないか、つい探してしまうようになるんです。その人が孤立してないか、傷ついていないか、すごく気になります。
 そういうわけだから、私は同じ種類の人ばかり集まっているところが苦手で、いろいろかなり違った特長の人が集まっている場所のほうが落ち着く、という話につながってくるんです。
 私は皆さんに訴えかけたいと思います。
 人はみな違います。
 互いに違っているところを尊重し、認めるようにしてください。自分と違う相手を変人呼ばわりするのはおかしいし、相手に自分を無理に会わせる必要も全くありません。
 今日読んで聖書の箇所にも、「手は足ではない。耳は目ではない。でもその全てが集まって、ひとつの体が出来上がっているんだよ」と書かれてありました。
 世界は一つ、地球は一つであることには違いありませんが、それは様々な色や形が混じってできあがっている、モザイクのようなものだということです。
 その違いを面白がり合うこと、そこに平和のカギがあるように思います。
 お祈りしましょう。

祈り

 神さま。
 今日、こうして北星学園女子高等学校のみなさんと礼拝を持てます事を心から感謝いたします。
 ここにいるひとりひとりが、それぞれの自分らしさを大事にして、お互いに違いを尊重しつつ、いっしょに生きることができますように。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

小礼拝堂/ショートメッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール