いと小さき者に仕える

2006年7月30日(日) キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第2日目 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書25章31〜40節 (新共同訳・新約)

  「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。
  『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
  すると、正しい人たちが王に答える。
  『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしているのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
  そこで、王は答える。
  『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」。

王のさばき

  今朝読んだ聖書の箇所には、不思議なことが書いてありました。
  おそらくこの世の終わりの場面を描いているのでしょうが、「人の子」と呼ばれる王が天使たちを従えてやってきて、栄光の座につきます。そして、この世で生きていた人間の裁きを行います。
  洋の東西を問わず、「人間死んだら、こういう裁きを受けなきゃならないんだよ」というお話はあるものなんだなぁと思わされますが、要するに閻魔大王(えんまだいおう)の話と同じなのですね。人間一人ひとりの人生を、どうであったか判定するわけです。
  そして判定の結果、大王は右と左に人間の集団を分けます。右は天国行き、左は地獄行きです。ちょうどここにいらっしゃる皆さんも、うまく右側と左側に分かれておられますね。右側の皆さま、おめでとうございます。みなさんは天国行きです。左側の皆さま、残念ながら地獄行きです。申し訳ありません。
  右側に判定された人たちに、大王はこう言います。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイによる福音書25章35−36節)
  そう言われた人々は不思議に思って、「主よ、わたしたちはいつあなたにそんなことをしましたか?」と問いかけます。
  すると「主よ」と呼ばれたこの王は、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(同40節)と答えた、と。
  このお話は、さきほど読んでいただいた先に、まだ続きがあります。王は左側に判定された人たちにこう言います。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(同42−43節)
  左側に判定された人たちはこう言います。「主よ、わたしたちがいつあなたに会いましたか」と。
  すると王は言います。
「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(同45節)
  とても単純なお話ですが、イエスが語ったこのお話は、大切なことを私たちに教えてくれています。

小さくされた人たち

  私は大阪の学校からこの夏期学校に参加しているのですけれども、大阪には「釜ケ崎」と呼ばれる、日雇い労働者の町があります。関東のほうでは山谷(さんや)や寿(ことぶき)といったところと似た町で、朝早くに建築や土木の労働者を連れてゆく「寄せ場」という場所があります。
  寄せ場といってもピンと来ない人もいらっしゃるかも知れませんが、こんな情景です。朝の4時からライトバンやワゴン車がドドドーっと建築職人を求めてやってきます。そして、若くて体格のいい元気そうなお兄ちゃんから連れてゆきます。年配のおじちゃんや体の弱そうな人、病気しているように見える人は、仕事がもらえない:つまりアブレてゆきます。寄せ場で仕事にアブレた人たちは、行くあてもなくたむろするしかなく、一日を過ごしている、仕事に長くつけない人はホームレスとなって野宿をするしかない、そんな人びとの姿が見られる町です。
  よく、「あいつらは昼から酒を飲みながらサボっている」とか、「ホームレスは3日やったらやめられへんらしいな」とか軽蔑しますが、本当はみんな、働けるものなら働きたいのです。高齢であることと病弱になってしまったことでアブレてしまうのですが、それは必ずしも自分のせいとはいいがたいでしょう。
  私の学校からも年に何度かボランティアで炊き出しのお手伝いをやらせていただいたり、文化祭のときにお米を集めて寄付させていただいたりして、細い糸ではありますがつながりを続けています。
  この釜ケ崎に本田哲郎さんとおっしゃるカトリックの神父がおられます。およそ20年近く釜ケ崎に入って失業者や野宿生活を強いられた人びとと共に生きてこられた方です。
  この方が最近『釜ケ崎と福音』という本を出されました。
  その本の中で本田神父は、信仰を持っている人間とか、そこそこ教育を受けて、ある程度の地位もある人間が、貧しく、教育もなく、みすぼらしい生活をしている人たちに何かをおすそ分けして施してあげることができるとか、何かを与えることができると思うのは間違いである、というようなことをおっしゃっています。
  そうではなく、むしろ私たちよりも、世の中で小さく、弱く、貧しくされてしまった人びとのほうが、はるかに感性が豊かで、人を生かす力というものを持っていて、私たちはその人たちに尊敬の心で関わることによって、初めて人として生きてゆく力を得ることができ、心から解放されてゆくのだ、ということもおっしゃっています。
  この本田神父の本は、大阪の釜ケ崎に住む日雇い労働者や、野宿生活を強いられている人びとについて書いておられるのですが、私は、小さくされた者、弱い立場におかれた者として私たちが関わるべき人たちの中には、私たちの学校にやってくる子どもたちも含まれるのではないかと思っています。

本当は貧しい日本の子どもたち

  今の時代の日本の子どもたち、特に私たちのキリスト教学校のような私立学校に来る子どもたちは、経済的には恵まれている子どもが比較的多いと思います。
  しかし、私は思うんです。「子どもというのは、本当は貧しいんじゃないのかな」と。
  だって、自分で食べている子どもっていないでしょう? いや、もちろん世界を見れば、自分で稼いで食べていかなければならなくなっている子どもはたくさんいますよ。ストリート・チルドレン、少女売春、少年売春……。労働を搾取されている貧しい子どもたちは、世界にたくさんいます。日本にはそういう子どもはそう多くはない。
  日本の子どもの多くは、親やその他の大人たちによって経済的に支えられているのであり、自分で自分の生活を立てる必要はありません。
  しかし逆に言うと、食べるものも学費も、周囲の大人に依存しながら生きていかざるをえない存在とも言えます。ですから、自分の生活費や学費を出してくれている大人の思惑や期待に反して生きることはとても難しい人たちだと言うことができます。
  特に思春期を迎えて自立心が芽生えてきたときに、自分らしい夢や希望が育ってきたとしても、それが学費を出してくれる大人の納得が得られない場合には、その夢をあきらめざるを得ない、そのために悩み苦しむ。あるいは、高い学費を出しているのだからと期待する両親の、その期待にじゅうぶん答えることができない時、本来の自分を見失ってしまったり、周囲の大人に対して心を閉ざしてしまったり、あるいはグレたり、暴れたり、そうやっていよいよ自分の居場所を失うこともあります。
  学校においては、最近は教師も評価採点をされる場合も出てまいりましたけれども、それでも基本的には、生徒のほうが圧倒的に評価をされる立場であることには違いありません。自分の勉強のできぐあいを試験によって評価され、冷たい数字で表された成績で否応なしに序列をつけられてしまいます。
  私はある生徒からこんな訴えを聞いたことがあります。「キリスト教主義」とか「知育や体育だけでなく徳育も大事だと言ったって、なんだかんだ言っても最終的には試験の点数だけで評価されるしかないじゃないですか」、「人間の徳を評価する基準がないんだから、キリスト教学校がやってる徳育なんて、ぼくらに根づくわけがないでしょう」。
  私は、そんな子どもの訴えを聞くたびに、生徒たちは教室で騒いだり、反抗的な態度を取ったり、挑発的な態度をとったりするけれども、基本的には弱い立場におかれているのだなと思うわけです。
  「生きる力」とはよく聞く言葉ですが、年間に自殺者が3万人を超えるというこの超ストレス社会、余裕のない社会の中で生きるために、子どもたちは親たちに、「絶対に負けるな」、「気を抜いたら負けるぞ」、「人を出し抜いてでも、人の前に立ちなさい」と教え込まれ、子どもたちなりの競争社会を必死で生きています。
  そんな子どもたちの姿を見るたびに、私は、大人の利害に翻弄されて生きている、本当に小さく弱い立場に立たされている子どもの現状が痛ましく思えてきます。
  経済的にはある程度恵まれていたとしても、やがて社会に出て戦う将来のために、兵士の予備軍のような育てられ方をする子どもたちは、実は本当の意味で貧しいのではないだろうか、と私は感じることがあります。
  さっき私は、労働を搾取される子どもたちのことを少し話しましたが、実は日本の子どもの多くは、「勉強」という形の労働を搾取されているんじゃないだろうか。「学ぶこと自体の喜び」なんてことはどこかに置き忘れられて、ただ命令どおりのノルマをこなし、点数をかせぐための労働を課された貧しい人びとなのかも知れない、と感じるんです。

小さい者から力をもらう

  しかしですね。そうは言いながら、子どもたちは、彼ら彼女らを押さえつけてしまいがちになる私たち大人の思惑に反して、時折すばらしいたくましさや面白さを示してくれることがあります。
  大人たちがこうあってほしい、こうしてほしいと思う隙をついて、子どもたちはとんでもないアイデアを思いついたり、こちらが驚くような計画を立てていたりします。
  「今度の体育祭では、こんなプログラムを用意したらいいんじゃないですか」とか、「次のクリスマスにはこんな歌を歌いたい。おそろいのユニフォームも作りたいんですけど、いいですか? あと、ユニフォームだけではなく、おそろいのリストバンドも作りたいんですけど」といった具合に。
  いやいや、そんなかわいい話だけじゃないんです。例えば昔担任をしたクラスでは、「教室の中にくつろぐ場所がほしい」と、どこかのゴミ置き場からソファーを拾ってきて教室の後ろにおいていたり、それを「運び出しなさい」といって出させると、今度は学校の裏の雑木林から、枯れて倒れた木で10メートルくらいのものを引きずり込んできたりして、「あーやっぱり自然はええなー」などと言っていました。もちろんその時は怒るのですが、後から考えると、「よくあんなこと考え付くよなぁ」と感心させられてしまいます。
  それは、硬直化してしまった大人の心からは出てこないような、柔らかい遊び心に満ちた発想です。大人にとっては、毎年同じような仕事として片付けてしまえるようなことでも、子どもたちにとっては、一生に一度しかない大事な学校生活のひとつひとつであるわけです。将来のためにガマンしたり、努力したりすることも大切なのですが、子どもたちにとっては「いま」この時間をどう過ごすかということも、とても大切なんですね。
  子どもたちが「今これをしたい」と思うことを実現できるように、大人の私たちが手助けし、仕えてゆくこと。子どもたちが「今こうありたい」と願うことに協力すること。そうすると、子どもたちは本当に生き生きとした姿を私たちに見せてくれるようになります。
  そして、その生き生きする姿によって、逆に私たちは、人間とはこんなに生き生きと生きることができるものなんだ、ということを教えられるわけです。
  大人が子どもを指導するだけではなく、子どもによって大人が教えられる、ということが起こるのが学校という場所だと思います。

小さい者に仕える

  今日お読みしました聖書、マタイによる福音書25章40節には、「これらの小さい者にしたことは、わたしにしてくれたことなのである」と記されています。
  わたしたちは、目の前の小さな存在、もちろん見かけ上は私たちよりも体格の立派なゴツいやつもいますが、しかし、社会的には私たち大人よりもはるかに弱い立場におかれている生徒たちに向かって、何ができるのでしょうか。
  あれこれと教え込み、指導し、しつけなければ、ということもあるでしょうが、この聖書の箇所で教えられるのは、最低限その人の命を支えてあげることだということです。
「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて」あげる(35−36節)……それらはいずれも、相手におせっかいなことをすることではなく、相手が本来の姿を損ねているときに手助けをすることに他なりません。その人が自由を奪われていたり、自分のありのままの力を発揮できずにいるときに、その自由と本来の力を取り戻すための手助けをすることです。
  そのことによって、私たちの前にいる小さな者、子どもたちが本来の力を取り戻して、自由に自分の可能性を広げることができれば、彼ら彼女らは私たちの予想を上回って大きく成長し、私たちに大きな喜びを与えてくれます。私たちは目の前の小さな者たちに、実は大きな希望を与えられるのではないでしょうか。
  私たちはキリスト教学校で働くことによって、事務職員や教員など、さまざまな立場に分かれて働いていますが、それぞれの立場において共通しているのは、子どもたちに仕えるということではないかと思います。子どもたちに対して、上からものを言い、ひっぱり導くという風に一見見えるかもしれませんが、そうではなく、子どもたちと共に、子どもたちに教えられながら、子どもたちの夢を実現してゆくために奔走することも、大切なことなのではないでしょうか。
  子どもたちが自由に生き生きと、自らの可能性を広げることができるように、それぞれの持ち場で「仕える」者でありたいものです。そうすれば、きっと何倍もの喜びが、私たち自身に返ってくるはずです。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日ここにあなたの御前に、主日の礼拝をおささげすることができますことを感謝いたします。
  わたしたちは、職員・教員、さまざまな立場においてキリスト教学校の働きに押し出されているものですけれども、本当に子どもたちのために奉仕する気持ちで働くことできていますでしょうか。
  もし、私たちが本当に仕えるべき相手を見失っているのならば、それを改めて発見させてください。私たちの働きが、子どもたちのために真に益となることができますように、どうか私たちを用いてください。
  この感謝と願いの祈りを、主イエス・キリストの名によって、お聞きください。
  アーメン。

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