なんとなくクリスチャン

2005年1月14日(金)同志社香里高等学校ショート礼拝奨励

説教時間:約9分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:テサロニケの信徒への手紙(一)5章16−18節(新共同訳)

  いつも喜んでいなさい。
  絶えず祈りなさい。
  どんなことにも感謝しなさい。
  これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

よくわからないキリスト教

  最近は便利なもので、インターネットの本屋さんのサイト、たとえば「Amazon.co.jp」なんかで、「キリスト教」という言葉と、「わかる」という言葉を打ち込むと、こんな風にたくさんの本が出てきます。
  『この一冊で「キリスト教」がわかる』、『この一冊で「聖書」がわかる』、『よくわかるキリスト教』、『よくわかるキリスト教@インターネット』、『キリスト教がよくわかる本』、『よくわかるキリスト教の礼拝』、『よくわかるキリスト教の暦』、『よくわかるキリスト教の音楽』、『よくわかるキリスト教の教派』、『キリスト教のことが面白いほどよくわかる本』、『キリスト教ハンドブック-聖書の世界がわかる本』、そして『疑問がハレルヤ キリスト教』……。
 
 (以上の本は、「三十番地図書館」にまとめて表紙写真を紹介しています→
  いやー、なんとも……。
  これだけ、似たような題名の本がたくさんある。しかも、みんな「よくわかる」と書いてある。こういう本がよく出ているということは、よく売れてるんですね。買う人がいるから、売る側も出すわけです。
  これだけ「よくわかる、よくわかる」という本が繰り返し出されているということは、「よっぽどキリスト教というのは、わからん宗教なんやろなぁ」と思いますね。
  それで、キリスト教がわかるってどういうことなんやろうと思って、ぼくもいろいろこうして読むわけです。すると、一応ぼくもキリスト教の教師ということになっていますけど、そんなぼくでも「ほうほう、なるほど、なるほど」と思うようなことまでたくさん書いてあります。
  で、読み終わって、パタンと本を閉じるわけです。そして、考える。
  「さーて、これでキリスト教のことがわかったことになるのかな」と。
  すると、何か物足りないんです。
  たとえば、自分はクリスチャンですけど、こういう本が自分が信じていることについて紹介してくれた感じがしないんです。
  「クリスチャンって、ここに書いてることを毎日マジメに信仰して生きてるんやろ?」と聞かれても、「さぁ……」という感じです。
  たぶん、ほとんどのクリスチャンが、こんな本に書いてある知識なんか知らないんじゃないかと思います。クリスチャン自身が「よくわかるキリスト教」の本を読んで、「へー、へー」と言っているわけです。
  じゃあ、クリスチャンって一体なんなのか?

なんとなく信じている

  ぼくはホームページを開いていて、その筋ではある程度有名らしいですけど、いろんな人がメールを送ってきてくれます。
  最近のメールで印象的だったのは、大晦日の夜にいきなり届いた、ある大学生の方からのメールでした。こんな言葉が書かれていました。
  「クリスチャンの皆さんは本当に神を信じ切っているのでしょうか。どうやって信じたのでしょうか。とても不思議なんです。何故、すんなり認めることができたのか」
  ぼくは返事を書きました。
  「人それぞれですが、信じ切ってしまっている人というのは、ほとんど自己暗示に酔っているようなもので、そんなものは参考にもならないし、見習う必要もありません。多くのクリスチャンは、神の存在を『なんとなくいるような感じ(じゃないかな)』くらいの感覚でいます。人前では、神さまがいることを前提にお話したりしますが、ふと一人でいろいろ考えたりするときには、『でも神さまなんていないんじゃないかな(苦笑)』と思うことも、よくあるんですよ。まあ、ふつうの人間だということです」。

神さま、たとえあなたがいなくても

  じゃあ、どんなときに自分は「でも神さま、おるんとちがうかなぁ」と思うかというと、たとえば、自分が危機に陥ったときです。
  自分がまったくこれっぽっちも予想もしていなかったようなトラブルが突然発生して、一瞬どうしたらいいのかわからなくなった時、それでもそのトラブルに立ち向かってゆかなければならなかった時、思わずぼくは祈るときがあります。
  けど、決して「神さま、助けてください」とは祈らないです。
  そのかわり、「神さま、どうかこれを乗り超える力を与えてください!」と歯を食いしばって祈ります。そして自力で立ち向かう。自力で立ち向かわないとしょうがないもんね。でも、その自力のクソ力を「支えてくれ!」と、おるかおらんかわからん神に呼びかけるんです。そうやって神を意識すること自体が自分を支えている、と言ってもいい。
  そして、じっさいに危機を乗り越えて、すべての力を出し尽くして、やっとホッとすることができたときに、また再び神さまのことを思い出す。「ああ、なんとかなった。ええ経験できたなぁ。またオレは強くなったなぁ。神さま、ありがとう」と思って、ほんで「感謝します」言うて祈ります。
  「そんなもん、ただの自己暗示や」と言う人もいると思いますが、自己暗示でもなんでも、「オレには神がついとるんや」と思ってがんばれるか、それとも「神さまなんかおらへんわ。誰も味方なんかおらへんわ」と冷めた気持ちでつぶされてしまうか、言うたら、やっぱりつぶれてしまうより、自分より大きなものに支えられて乗り切るんや、と思うてるほうがトクやと思います。
  たとえ、神がいなくても、神に祈るというのは、悪くないことやと思います。
  というわけで、最後に一言お祈りをさせてください。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日、こうして自分の思いを語ることができましたことを感謝します。
  また、聞いてくれる若い人たちと、こうして共に時を過ごせることを感謝します。
  ここにいる一人ひとりの日々の暮らしを、神さまどうか守ってください。
  生きるための強さと、優しさを、私たち全ての者に与えてください。
  イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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