大切なものは近くにある。

2005年6月12日(日)キリスト教学校教育同盟 若手教師 祈りの会 奨励

説教時間:約15分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:創世記21章9−21節(新共同訳)

  サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。
  「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ後継ぎになるべきではありません。」
  このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
  神はアブラハムに言われた。
  「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
  アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。
  ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。
  革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。
  神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
  「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
  神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。
  彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。

泉を見つける

  今日読んだ聖書の箇所は、追い詰められた状況の中で、周りが見えなくなってしまった人のお話です。
  この物語の主人公であるハガルという女性は、もともと奴隷です。アブラハムの妻である、サラという人についていた奴隷でした。しかし、このアブラハムとサラの夫婦の間になかなか子どもが生まれないので、代わりに子どもを産まされるのですね。古代のヘブライ人の間には、こういう代理母出産の制度があったわけです。妻に子どもが産まれないときには、妻の奴隷を使うという。だから夫は、妻の奴隷と関係を持つわけです。
  これは今から3000年近く昔の話で、当時としては一応制度として認められているわけですから、妻もそれを承諾はするわけですが、当然、内心ではおもしろくないわけですよね? だから、妻のサラは奴隷のハガルをなにかにつけいじめるようになります。もちろんハガルのほうも、サラにはできない子どもが自分にはできたということで、ちょっと鼻高々という態度をとったから、余計いじめられたという面もあるわけですけどね。
  で、今日読んだ場面ですが、ついにアブラハムの妻サラは夫に「あの女とあの子を追い出してください」と要求し、苦しみ悩んだあげくではありますが、アブラハムはハガルを追放してしまう、という場面です。
  ハガルは、たったひとりで子どもを守りながら荒野をさまよううち、やがて食糧も水もつきてしまいます。荒野のただ中で彼女は、「このまま自分の赤ん坊は死ぬのだ。自分も荒野で野垂れ死ぬのだ」と絶望し、子どもを一本の小さな木の陰に寝かせて、
「子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と泣きます。「彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(16節)と書いてあります。
  すると、そこに天使の語りかけがハガルの耳に聞こえてきます。
  
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかりと抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17−18節)
  すると、その次の瞬間、
「神はハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」(19節)と書いてあります。彼女とその子は救いの泉を見つけたわけです。

泉は近くにある

  荒野をさまよっていたとき、ハガルは、自分の置かれてしまったつらい状況の中で、追い詰められた精神状態の中で、いわば「心の視野狭窄(しやきょうさく)」に陥っていたといえます。
  あまりにつらい、希望も全くない、と感じる状態のなかで、希望を発見しようとする心さえも失ってしまう。心の視野がせまくなってしまって、だんだんと周りが見えなくなってしまい、希望などあるはずがない、喜ばしいことなど今後あるはずがない、と思ってしまう。
  これはわたしたちが、じっさいにつらく追い詰められた状態を長く続けていると陥ってしまう欝(うつ)状態とよく似ています。
  しかし、神はハガルに「水はすぐ近くにあるのだ」と教えました。
  神はわざわざハガルとその子のために、水のある井戸を作って与えたわけではありません。井戸はもともとそこにあったはずです。ただ、ハガルが絶望のあまり周りが見えなくなっていたので、発見できなかっただけなのですね。
  ここで神は何をハガルにしてくださったかというと、井戸が実は近くにあるということを気づかせるために、
「目を開かれた」(19節)だけでした。
  希望は実は近くにあるが、わたしたちはそれを発見できないときがある。それを発見するために心を変えてくださるのが神さまだということです。

心の視野がせまくなるとき

  われわれは教員という仕事をしているわけですが、日々子どもたちと接して生活しているなかで、まるで自分が荒野のなかをさまよっているような、希望のない状態で歩いているような気分になることはないでしょうか。わたし自身は時々そういう風に感じることがあります。
  特に、何度言ってもこちらの言っていることをわかってくれない、わかろうとする気も見せない生徒、話しかけようとすると心を閉じる生徒、あるいは生徒同士で先生に隠し事をすることを楽しんでいるような素振りを見せる生徒、こちらを挑発するかのようにわざと怒らせて出方を見ようとしているような生徒の姿に立て続けに出会うと、本当にむなしくなったり、自分のやっていることに意味があるんだろうか、すべてが徒労に終わっていくのではないかと思うことがあります。
  こちらも正直人間ですから、傷つきやすい心を持っているのですが、本当に生徒は人の心を傷つけることを平気でやってくれます。特に、自分が大切にしているものの考え方や価値観を生徒に踏みにじられたときの屈辱感というのは耐え難いものがあります。
  そういうとき、心の視野が狭くなります。みなさんはわたしなどよりも大きな心の持ち主でしょうから、そういうことはないかも知れませんが――そういうことは年齢に関係なく個人の性格としてあると思います。わたしはもともと心の余裕がない人間ですから――心が閉じてしまいそうになります。
  生徒の無関心、無感動などを指摘する前に、自分のほうが精神的に疲れてしまって、無関心、無感動になってしまい、たいへん投げやりな気持ちになってしまって、何もやる気がおこらない、というようなことが起こってしまったりするのですね。

心の目が開かれるとき

  ところが、実は、そんな自分の閉じてしまった心の目を、開いてくれるような小さな出来事も、学校ではちょこちょこと起こっているのですね。それはなんでもないような小さな出来事なのですが、それでも、確かに起こっているわけです。
  たとえばそれは、こちらが予想もしていなかったような質問をぶつけてくる――それは授業と全然関係のない話であったりする――意外な生徒の眼差しであったり、こちらが忙しいなと思っている時間帯に、わざわざやってきてとりとめもない話をしてなかなか離れない生徒であったりする。ちょっと見方を変えると、「そういう形で自分は必要とされているのかも知れない、もしもこうすることがこの子にとって今必要なのならば」と思わせてもらえるわけです。
  あるいは、「今日もまた一日が始まるのか」と重い気持ちで迎えた朝であったとしても、そして、そんな気分で学校に出てくるなんて、自分はよくない教師だなと思いながらも、そんな自分に元気よく挨拶をしてくれる生徒が一人でもいたら、その「おはようございます!」の一言を聞いた一瞬で、計り知れない勇気を与えられたりもするのです。
そんな風に、わたしたちは実に、何気ない小さな出来事によって魂が救われたり、癒されたりしているのではないでしょうか。
  たしかにわたしたちは生徒に傷つけられる。しかし、それと同じくらい生徒になぐさめられ、はげまされ、勇気づけられているのではないだろうかと思います。
  そして、もっともなぐさめられるのは、卒業していった生徒が帰ってきたときです。
  在学中、あれほどまでに聞き分けなく、反抗的、挑発的だった、荒れ果てた精神の持ち主に見えた人間が、時を経て、とても落ち着いた、力にあふれた、魅力的な人物になって帰ってくることがあります。そして、「あのときの苦しみはなんだったんだ」と笑いたくなるくらい、子どもというものは成長する可能性を秘めているものだと思い知らされるのです。
  「そんなに立派に育つんだったら、もとからもう少し落ち着いていてくれたらよかったのに」と言いたくなるときも正直あるのですが、そういうわけにはいかないものなんでしょうね。嵐のときを経験したからこそ得ることができる大人の静けさであり、わたしたちの仕事は、人生の前半の最も激しい嵐の時代につきあう仕事なのです。

大切なものは足もとにある

  最後に絵を一枚紹介したいと思います。
  「大切なものは足もとにある」という作品。わたしの友人が描いた絵です。
  大切なものはすぐ近くにある。だけど、わたしたちはそのことに気づかないで暮らしていることが多い。そして、つらいことが続くと、「希望なんか見つかるはずがない」と思い込んでしまうことがあります。
  しかし、水をたたえた井戸が、実はハガルの近くにあったのと同じように、私たちの希望も実はなんでもない身近なことのなかにある。そして、それは自分が予期していなかったときに、ひょんなことから見つかるものかも知れない。
  この絵に描かれた宝物のように、ちょっと体をズラして物を見る方向を変えてみるだけで発見できるものかも知れない。
  だから、そんな発見のときもまたあるさ、と、あきらめないで生きて生きたいと思うのです。
  祈りましょう。

祈り

  わたしたちを日々生かしてくださる神さま。
  わたしたちを日々、出会いと発見の可能性に満ちた働き場に置いてくださり、ありがとうございます。
  神さま、わたしたちをどうか耐えられないような試練には合わせないでください。あるいは、どのような試練にあっても、すぐ近くにあるはずの希望をも見失うほどに心を閉じてしまう弱さから救い出してください。
  いつも、小さなことに喜びを見いだすことのできる柔らかい心を与えてください。
  主イエス・キリストの名によって願います。
  アーメン。

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