ひとりではない

2005年7月31日(日)日本キリスト教団 光明園家族教会 聖霊降臨節第12主日礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:マタイによる福音書6章5−6節(新共同訳)

  祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
  はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
  だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
  そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

「ひとり」を恐れる若者たち

  今年も同志社国際中高校、同志社香里中高校の2つの学校から、邑久光明園にやってくることができました。こうして家族教会において受け入れていただいておりますことを、心から感謝いたします。
  特に今年は昨年と違い、昨日の午後到着してから、まず今朝、主日礼拝を共にしてから今回の私たちの合宿のプログラムを始めることとしました。まず最初に礼拝、そして交流やワークを始めてゆきたいと思っているわけです。
  最終日には納涼大会が待っています。そのお手伝いをさせていただくことも希望しているわけですが、お手伝いがかえって足手まといにならないように、今から多少緊張しているところでございます。
  聴くところによれば、昨今は、私たちも含めてこうして若い者がたくさんこの邑久光明園にボランティアにやってきますが、「ボランティアにやってきました」と言いながら、結局自分たちの内輪でワイワイと盛り上がってしまって終わっているような団体がたくさんあるそうです。「頼むからそういうのは勘弁してくれ」と光明園の自治会の方々からも釘を刺されています。
  中高生や大学生が、周りが見えないままに、同世代の自分たちだけで盛り上がってしまうという様子は、ボランティアという場所に限らず、どこでも見られる景色です。
  もちろん私も偉そうに言えた義理ではありません。わたし自身も学生時代はそうでした。20年前にこの光明園でのワークキャンプに来ていたときも何度も注意されました。
  園のみなさんとゲートボールを楽しんだときも、内輪で盛り上がっている間に興奮してスティックを叩き折ってしまったり、道路舗装のワークの最中にも、悪ふざけしすぎて舗装用のロードローラーを谷底に転落させてしまったり、さらには、そのローラーを引き上げるためにやってきたクレーン車までがオーバーヒートして動かなくなったり……。そのときばかりは、「おまえは悪魔か!」と園の職員の方に怒鳴られました。私は、間違いなく自分が、一番ここで迷惑をかけた人間のひとりではないかと思います。
  そして、よく先輩たちに、「われわれは、一体なんのために来ているのか、わかっているのか」と叱られていたものでした。
  若い人が群れて楽しそうにしていること自体は悪いことではないと思う。しかし、いま私自身がこのおそらく人生真ん中辺りの年齢になって、若い人たちを見るようになってみると、みんな「ひとり」になることが怖いのかな、と感じるときがあります。
  「ひとりぼっち」になる、ということに耐えられなくて、つい群れてしまうのではないか。
  そう思いながらも、「そうやって群れるのも、いずれが本当に自分が『ひとり』であることを思い知る時が来るまでの、一時的なことなのかも知れないが……」と思いながらながめているわけです。

もうひとつの家族

  私は20年越しに光明園にやってきて、20年前も、今も同じように感じること、考えることがあります。
  それは、ここ光明園に住むみなさんが、それぞれ一人の部屋に戻られたときに、どんなことを考えながら過ごしておられるのかな、ということです。
  みなさんそれぞれに、もと住んでおられた所や、もとの人のつながりから切り離されてここに来られた方がたですから、ご経験された孤独の重さ、辛さは、わたしなどが想像する以上のことであったと思います。
  けれども、ひとりの部屋が与えられなかった時代のお話も、わたしは伝え聞いています。ひとりになりたいときにも、ひとりになれる場所が確保されていないということ、これも辛いことだと思います。
  だから、教会でお話したり、居宅訪問をさせていただいて、別れた後、おひとりでおられるときには、みなさんはそれぞれ、どんなことを思っておられるのかなぁと、いつも考えてしまいます。
  その「ひとり」の瞬間は、寂しさ・悲しさ・むなしさ、という意味での孤独なのでしょうか。それとも、今では、静けさ・落ち着き・やすらぎという満たされた孤独を経験されることもあるのでしょうか。
  この教会は「家族教会」と言います。ここに集う人々は神の家族です。そのことを思うとき、わたし自身、最初に教会につながるようになったときには、自分の産みの家族から離れて、教会の人びととのつながりの中に、もうひとつの家族を見つけようとしていたことを思い出します。
  もっともわたしの場合は強制的にではなく自分からそうしていったわけで、どうしても家の中に居場所が見つけられなくて、家庭に対する反抗の延長線上に、教会があったわけですが。
  なかなか自分の家庭の中に自分の居場所を見つけられなかった私にとっては、教会は、血のつながった家族にも増した信頼と安心を与えてくれた場所でした。
  マルコによる福音書の3章に、イエスが、自分の母親と兄弟たちが訪ねてきたときに、
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコによる福音書3章33節)と言う場面があります。そして、自分の肉親が戸口の外まで来て待っているのに、「自分の真の家族は自分の周りに座っている人たちなのだ」と言ってしまうのであります。イエスと、イエスの家族との間にいったい何があったのかは謎ですが、何か深い亀裂が生じていたことが予想されます。
  イエスにとって、本当に信頼すべき友であり、家族と呼べる仲間は、すでに肉親ではなく、彼の周りで彼と信仰を共にする人びとだったのでした。

「ひとり」でない時と「ひとり」の時

  そんな風に「信仰を共にする仲間を自分の家族である」と言い切る反面、イエスには自分から孤独を求めてゆくようなところもありました。
  彼が群集を解散させたあと、ふと
「祈るために山に行かれた」(マルコによる福音書6章46節)と書かれているところがあります。
  また、時にはイエスも、ある家に入って
「だれにも知られたくないと思っておられた」(同7章24節)時があったとも書かれています。
  そして、最期のときが迫ったゲツセマネの園でも、眠る弟子たちを残して一人祈っておられました。
  そんなイエスが、彼に従う人々に、どのように祈るべきかを教えたのか。それが本日お読みしました聖書の箇所である、マタイによる福音書6章の5節以下です。特に6節にはこう書いてあります。
  
「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイによる福音書6章6節)
  信仰を共にする仲間を、これこそ自分の家族だ、と言い切る反面、イエスには、それでもあえて「ひとりになりなさい」と求めることがあったということです。それは祈りのときです。
  「誰にも見られていない場所に入りなさい」ということは、誰にも飾らなくてもよいということです。他人にいい格好を見せる必要もないし、いい格好ができないからと言って恥じる必要もない。本当のありのままの自分に戻れるような独りの状態になりなさいということです。
  そのような「ひとり」の状態になってこそ、初めて、本当の自分の姿に戻れるし、また、そのような本当の自分の状態になってこそ、やっと神さまと出会う準備ができるというものなのではないでしょうか。
  イエスは、「隠れたところにおられるあなたの父」と言っておられます。つまり、神さまはもっぱら人に見つかりにくいところに潜んでおられるのであって、よく見えるところ、目立つところで神を発見することは難しいということです。
  そして、「神は隠れたところで、隠れたことを見ておられる」。神さまは、誰も知らない本当の自分を知っておられる。「ひとり」になってやっと本当の自分と神さまとの出会いが起こるチャンスが訪れるのであります。

「ひとり」と「出会い」

  本当は、神と人の出会いに限らず、人と人の深い出会いというものも、本当に「孤独」というものを味わって知っている人にこそ可能なものなのかも知れません。
  昨年、わたしたちが訪問させていただいたとき経験してわかったことは、わたしたち訪問者が、何か新しい出会い、新しい発見をするのは、いつも、群れから離れて「ひとり」になった瞬間だということでした。
  ですから、今年のわたしたちのプログラムでは、「ひとり」になる時間を昨年よりもたくさん持つようにしています。
  この園内で、自分たちと同じ合宿メンバーの誰にも会わないように、姿さえも見かけないように、お互いに離れて時を過ごすようにします。群れている状態では、わたしたちは、仲間内のことしか心の入らなくなり、新しい出会いや発見はありえないからです。
  人は「ひとり」になってこそ、本当に人と出会うことができます。自分の全力を使って人と会って、対話をするからです。

  本当に「ひとり」ということを体験し、知っている人が、人にも、神さまにも、出会うチャンスを手に入れます。
  昼間の雑音の中では小さな澄んだ虫の音は聞こえません。夕暮れ時の静かなときにこそ聞こえる。
  「ひとり」の静寂な心の状態で、感性をとぎすましたときに、初めて神さまが自分のありのままの誰も知らない本当の姿をちゃんと知って受け止めてくださっている、ということを感じることができます。
  わたしたちがひとりで苦しみの中にあるときには、同じように苦しんでくださり、わたしたちがひとりで喜びの中にあるときには、同じように喜んでくださる神さまが、そばにいるということを感じることができるようになります。
  そして、「ひとり」のときに、神がそばにいることを信じることができる者は、今度は、どんなに孤独な状況にあっても、神が自分のそばについている、すなわち、自分は「本当はひとりではない」ということに気づいてゆきます。
  キリスト・イエスは、祈りの時にはつとめて「ひとり」になろうとされました。
  それは、人の群れから離れることで、確かに「孤独」になろうとされたのですが、しかしそれは同時に、もっと深い本当の自分を知ってくださって、真実の自分を受け入れて愛してくださる方と出会うために、わざわざ「ひとり」になられたのでしょう。
  「本当は、わたしはひとりではない」。そのことがわかるためには、いったんは「ひとり」になることが必要です。しかし、本当の意味で、人と出会い、神さまと出会うために、「ひとり」になることを恐れないわたしたちでありたいものです。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  神さま、本日このようにして、光明園家族教会の方々と、同志社国際中高校、同志社香里中高校の仲間が、共に礼拝を献げることができますことを感謝いたします。
  どうか、わたしたちのよき出会いに導いてください。よき交わりに導いてください。
  いつもわたしたちのそばにあなたがいらっしゃることの心強い支えを、わたしたちが感じることができますように。わたしたちの心を常に備えさせてください。
  この一言の感謝と願いを、主イエス・キリストの御名において、お祈り申し上げます。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

小チャペル入口(ショートメッセージのライブラリ)に戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール