すがりつくのはおやめなさい

2001年8月12日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約35分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:創世記 4章1−16節(カインとアベル)(新共同訳・旧約・p.5−6)

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
 主はカインに言われた。
 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
 カインは答えた。
 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
 主は言われた。
 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
 カインは主に言った。
 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
 主はカインに言われた。
 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

「えこひいき」する神?

 教室で高校生といっしょに聖書を読んでいて、いちばん楽しい聖書の箇所のひとつが、本日の聖書の箇所です。
 現在、私が担当している高校2年生の授業では旧約聖書を読んでいて、全員に毎週の授業ごとに小さなレポートを書かせていますが、いま夏休みに入って1学期の授業を思い返してみても、この「カインとアベル」の物語ほど生徒たちの反応がエキサイトする箇所はありませんでした。
 それは、おそらく彼らが、親たちや、塾や学校の教師たちという大人から評価されること、人から比較されることに、人一倍敏感にならざるをえない時期を生きているからかも知れません。
 創世記4章4節後半以降、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」。ここでかなり多くの生徒がつまずきます。
 レポートに書かれた生徒たちの意見を、いくつか紹介してみたいと思います。
 「カインが弟を殺したのは確かに悪い。しかし、ぼくにはカインの気持ちがわかる」。
 「カインは一生懸命作った作物を神に献げるほど尊敬しているのに、その神に裏切られてねたむのは、当たり前だと思います。いくらいらなくても受け取るのが最低の礼儀だと思います」。
 神さまに礼儀を説いているわけですね。
 あるいは「本当に悪いのは神ではないのか。神がおこなったことはどう説明しても差別としか言いようが無い。それでも神か」とか、
 「神は自分が神であるという立場を忘れてはいけない。神は神としての自覚に欠けるのではないか」と、まぁ言いたい放題の意見もあります。
 ここまで言わせておいていいのか、とお思いの方もおられるかもしれませんが、一般人の感覚というのは大体こんなものでありまして、こういう疑問をじゅうぶん吐き出させてからでないと、本当に聖書を自分のものとして読んでいこうという段階に入れません。
 それよりなにより、普段「ぼくは神を信じない」とか「神などいない」と吹聴していた生徒たちが、このカインとアベルの物語を読んだとたんに、「神は中立・平等・公平であるべきだ。こんなえこひいきをするようでは、神の名に値しないではないか」と、いっしょうけんめい論じ始めるのが面白いのであります。
 なぜ主なる神は、アベルの献げ物に目を留め、カインのそれには目を留められなかったのか……?
 ここでひとまず私は、「神さまはね、お肉が好きやったんやろね」と言い放ちます。生徒らは最初はいつものしょうもない冗談かなと思っているのですが、本当に黒板に「肉が好き」と書き始めると、「マジですか?」とまた憤慨し始める子が出てきます。

契約制の神

 「そう、肉が好きなんや。たぶんな。いや、学問的根拠が無いわけじゃない。これは遊牧民の視点から書かれた物語がベースにあるからやね」。
 旧約聖書を作ったイスラエル民族の先祖は遊牧民であったと伝えられます。遊牧民は水源や牧草地を求めてさすらいますが、農耕民の住んでいる土地は余剰生産物を基盤として商業都市となり、遊牧民の生活に比べると比較的豊かなことが多かったので、貧しい遊牧民は見下げられる、今風にいえば差別される存在でした。
 農耕民から見れば、遊牧民というのは、悪霊のさまよう荒れ野を越えて突然現われ、水や作物を奪いに来る得体の知れない集団です。特に水が不足する季節にはトラブルが絶えず、接近しすぎた羊を呼び返すために追いかけてきた遊牧民のメンバーが農耕民のリンチにあって殺されるということも度々あったようで、そのような記憶が、この農耕民カインによる遊牧民アベルの殺害の物語に反映しているとも考えられております。
 「この物語の原型は、イスラエル人が先祖代々、遊牧生活の時代から語り伝えてきた言い伝えやね。だから、この神さまは遊牧民の神さまやった。したがって、もっぱらお肉をいただいておったと。
 ほら、聖書の神さまは『契約の神』やって、一学期の最初の方で言うたやろ? 最初は遊牧民のある家族と契約してたわけや。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神……て言うてんのは、アブラハムと契約し、イサクと契約し、ヤコブと契約してたということや。やがてユダヤ人全体と契約し、さらには民族を超えてヨーロッパと契約し、さらに世界中の誰でも契約できるようになっていった。だから聖書というのは、神さまが契約相手を広げてゆく歴史、まぁ神の履歴書みたいなもんやね。
 まぁとにかく、この物語の原型ができた時代は、まだ、この神さまは遊牧民としか契約してなかった時代やねん。そやから、別にカインが正しくないことをしたとか、神さまはえこひいきをしたとか、そういう事やなくて、神さまはカインとは契約してなかったということやね。
 契約してない神さまにほめてもらおうと思ってのこのこ出てゆくというのは、これは不思議な話やね。なんでカインは豊作を祈願するために農耕の神さまのところに行かんかったんかな。なんぼ、ええ仕事した言うてもねぇ。広島カープの選手がホームラン打って、『監督! やりましたー!』言うて阪神のベンチに飛び込んだらどうなる?
 これはやっぱりカインはちょっとカン違いやったんちゃうかなぁ……」

神への疑い

 もちろん生徒たちは、何か納得のいかない、狐につままれたような顔をしています。なぜ納得がいかないのか。次はその納得の行かない理由の根底にあるものにつっこんでゆきます。
 なぜ納得がいかないのか……。それは、皮肉なことに、生徒たちの心に「神は全知全能で、公平で、平等で、誤りない、常に正しい絶対者である」という考えがしっかりと宿っているからです。そして、にもかかわらず、この世の中には不正や不条理がまかり通っています。正しい人が長生きするとは限らず、ずるい人や悪い人が世にはばかる。震災や戦争や飢餓や犯罪などで、多くの命がその死の意味を知らされることもなく奪われてゆく。そういう世の中の状況を彼らなりにしっかり感じているからこそ、「神がいるのなら、何をやっているんだ」という怒りが湧き起こるわけです。
 「神がいるのなら、どうしてこんなに世の中はひどいんだ」
 「神が本当にいるのなら、どうしてこんな世の中を放っておくんだ」
 だから神は信じない。信じられるはずがない。神などいると本気で信じている者は頭がおかしい……とこうなるわけであります。
 これは、日本のクリスチャン、日本のキリスト教会自身にもその責任の一端があると言えるでしょう。世の中の現実の姿と真剣に切り結ぶことなく、深く考えることもなしに、世の中のごたごたから遠ざかった静かな礼拝堂で、信仰の世界に浸るだけで良しとしてきたキリスト教徒が日本には多かった。静かな場所に逃れて来て全能なる絶対者と出会えたのはいいが、その神さまへの信仰をもって、こんどはそれをどう教会の外の世の中の苛酷な現実の中で具体的な証にしてゆくのか、その点については全く取り組みが甘かった。その報いであろうと思うのであります。

権威主義者が落ちる罠

 考えてみますと、カインが怒る状況というのは、実はとても一般的な人間がよく味わう感覚と近いのだ、ということにも気づきます。
 カインは何らかの期待や願望をもって、主なる神に近づきます。しかし、神は彼が期待したようには応答してくれない。献げ物をしても、思いを尽くして祈ったつもりでも、神さまが何に目を留められ、何に目を留められないのかは、人間にはわかりません。「ひょっとしたら、神さまは私に目を留めてくださっていないのかも知れない……」。
 あるところでは、健康と長寿を神さまの恵みであると喜ぶ人があれば、あるところでは生活の破綻、病気や事故、犯罪など、そしてそれらによる不条理な死があります。あたかも神にも見棄てられたのではないかと思うような孤独の苦しみも人生にはあるでしょう。
 「なんで私がこんな目に遭うんだ」
 「なんでこの子が、なんであの人が、こんな目に遭うんだ」
 「何が悪かったというんだ」「いったいこれは何の報いなんだ」……そう思うような出来事が、いたるところで起こっています。
したがって、「私は神に目を留められていないのではないか」というカインの問いは、わたしたち自身がいつでも直面しうる状況なのであります。
 カイン自身は……この「自分は神に省みられていないのではないか」という問いに負けて、破滅と崩壊への道を選びました。
彼は、世の中の不条理にたいする疑問や怒りを神に直接ぶつけることをしませんでした。そして、一見自分よりも恵まれているように見える人間の存在を消す事で、自らの怒りを晴らそうとしました。
 相手が自分より弱い弟だったから攻撃する事ができたということは、相手が自分より強い立場なら攻撃できなかったという事であります。もちろん圧倒的に強い立場にある主に反論などできるはずもありません。すなわち、カインは神に対して反論などできるわけはない、という態度はわきまえていた。神は権威ある方だということは認めていたわけです。
 権威ある方に自分を認めてもらいたいからこそ、彼は献げ物に目を留められなかったとき怒ったのでしょうし、権威ある強い方に認めてもらわないと、自分の存在意義は無いかのように考えていたのでしょう。そして、権威ある方であるが故に反論する事ができず、権威の無い弱い者を攻撃してしまったのでした。
 主なる神のほうは、そこまでは今回の事を重くはとらえていません。
 
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか」(6−7節)
 ――お前が自分の仕事に最善を尽くしたのであれば、それでいいはずではないか。お前が自分で正しいことをしたという信念があるのであればそれでいいではないか。なぜ、君は自分で自分のことを認めることができないのかね? と、逆にカインは神から問い返されたわけです。
 しかし、自分の全人格を否定されたかのように感じ、怒り狂うカインには、主の言葉はもはや耳に入りません。
「正しくないのなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」(7節)という主の予言は的中することになります。
 ここには、主の権威を認め、それをあてにしていたにもかかわらず、自分の期待が裏切られると聞く耳さえ持たない、というエゴイズムが描かれています。カインにとって神さまの権威とは、自己確認のための道具に過ぎなかったのだということが、ここで明らかになります。
 まぁ権威主義的な信仰とは、こういうものなのかも知れません。
 一人では自分の素晴らしさを認めることのできない貧困な精神の持ち主が、何か強い権威やカリスマを持つ超越的なものにもたれかかる事で、自分自身が強くなったかのような幻想を味わいたいと願う欲望……。

神に口なし

 いいように言えば「カインは神さまに喜んでいただこうとしたのだ」ということになります。しかし「私は神さまに喜んでいただくためにやっている」というのは、ある意味、誰でも言える便利な言葉です。なぜなら、神さまは見える方ではありませんから。
 現実の我々の生活では、カインのように「自分の行いが神に顧みられていない」なんて事は確認しようがないわけです。だから、こう言ってはなんですが「神さま、どうぞお用いください」と言っておれば、何でも自分の行為や献げ物を都合よく正当化できるわけです。「死人に口なし」とは言いますが、「神さまに口なし」なわけです。
 「神さまに口なし」。それをいいことに人間はいくらでも「神はこういう事を望んでおられる」という物語をでっちあげることができます。
 その最たる例のひとつが、靖国神社であると言えるでしょう。味方の軍隊で死んだ人はみんな神である、という。まさに「死人に口なし」と「神に口なし」の合体バージョンですね。
 クリスチャンの人でも、仏教徒でも、日本では神になる道が開かれております。「日本人」として戦争で死ねば、神になれます。
総理大臣は、日本の国内では「この方々の犠牲があったからこそ戦後の日本の平和と繁栄がある」とおっしゃいます。でもアメリカに行くと「米国の正義と寛大さが、日本を旧日本軍から解放してくれた」と話します。「英霊」とは、その旧日本軍の司令官や兵士であったりした人々でしょ? そんなので本当に浮かばれるのかな? 打倒鬼畜米英で命を散らした英霊が、首相の背後について「米国が日本を旧日本軍から解放してくれた」などという発言を聞いていたら、首相はたたられてもしょうがないのではないか、と戦後生まれの私でも首をかしげます。
 そして「日本人は死んだらみんな仏様になる」と言う。クリスチャンでも「仏様」になると言う。でも、靖国で祀っているのは仏ではありません。だから、首相も「熟慮」とは言いながら実はあんまりよく理解しておられないのかも知れない。そんな事より参院選で日本遺族会の票を取ることの方が焦眉の課題だったのかも知れない。
 けれども、それにしても総理大臣という立場で「日本人としての自然な感情だ」と主張するのであれば、それは日本の中に住んでいる様々な立場や生き方をとる人を排除している――私たちクリスチャンだって、無視され、排除されているわけですし、よく理解していないままで、なお強行しようとするということは、結局は自分の本音の願望が前に出ているということです。
 それはおそらく国家主義への願望でしょうけれど、その願望のためには、神でも仏でも死者の魂でも都合よく捏造する。「死人に口なし」をいいことに一方的に礼拝して、自分の願望を「亡くなった方に敬意と感謝を献げるためだ」と正当化する。カインと同じ過ちを、ここでも見る事ができるのであります。
 ただし……。
 私たちクリスチャンも、献金のときや交わりの前などに、よく「神さまに喜ばれるものとなりますように」と祈ります。神さまは肉が好きか、野菜が好きか、どのような思いを抱いて私たちを見ておられるかもわからないのに、です。
 いや、むしろ、わからないからそういうことが言えるのかも知れません。でも、ひょっとしたら、ものすごくハズしたことをしている場合もあるかも知れませんよね? だいたい神さまは何を喜んでくださるなんてことを人間が想定したりすること自体おこがましい。そう思うときが私にはあります。少なくとも神さまに対して、「いかがでしたか?」と伺うようなお祈りをしてもよさそうなものですが、私の知る限り教会ではそういう祈りは聞いたおぼえがありません。

すがりつくのはよしなさい

 私はここでもう一つの聖書の箇所を連想いたします。ヨハネによる福音書20章の11節より。新約聖書の209ページ、「イエス、マグダラのマリアに現れる」と小見出しが打ってある箇所です。
 「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足のほうに座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだと分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ。なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい」」。
 ――生前のイエスに7つの悪霊を取り除いてもらった、今風に言えば、心の病を癒していただいたとも言えるかも知れない、マグダラのマリア。病が癒されたことで得た新しい人生を、イエスのために用いようという決意をもってイエスに従っていった女性です。マリアにとって、イエスに従うことこそが生きがいであったと思われます。
 しかし、そんな彼女の生きがいであったイエスは、十字架での死によって彼女から奪い取られました。イエスが埋葬された墓の前で彼女は、「遺体がどこにあるのか」とそればかり尋ねています。おそらく彼女は「イエスの死により自分の一生も終わった。その遺体を守り、遺体に仕えて一生を過ごす以外にない」と考えていたのでしょう。しかしその遺体すら奪われたことにより彼女は、よりすがるものを失って、これからどうして生きていったらいいかわからなくなって混乱していたように見受けられます。
 生前のイエスに対するマリアの想い、それは確かに深いものであったのでしょう。亡くなった愛する人のせめて遺体だけでも取り返したい、大切に埋葬し弔いたいという気持ちは、日本人の間でも理解できる人はたくさんおられると思います。
 しかし、イエスはそういう感情を突き放し、拒否します。
 イエスは、一見愛情に見えるものが、自分の生きがいを得るために相手を道具にする心理に転じる危険性を見抜いておられたのであります。マリアはイエスを自分のものにしたかったのでした。遺体を引き取ることができれば、彼女はイエスを独り占めできます。死人に口はありませんから。しかし、その死人であったはずのイエスが口を開いて、それを拒絶します。
 
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから」(20章17節)
 「父のもと」に上れば、イエスはどんな人間の思いにも縛られない、完全なる自由の存在となります。イエスはもはや見えない自由な存在ですから、人間がいくら「イエスさまは、こういうことを望んでおられる」「神さまはこういうことを喜んでくださる」と言ったところで、すべて想像に過ぎない、ということになります。もはや「すがりつこう」としても、あるいは、すがったつもりになっても、それは本当の神なのか、自分の願望が捏造した神なのか、人間にはわからないのです。

心なき人をなお守る「しるし」

 私はさっきから冷めた話ばかり申し上げているようですが、これは実はたいへんありがたいことなのであります(笑)。
 神さまやイエス様が見えないお方である、というのは、実にありがたいことです。もし、カインの場合のように、自分の行い、生き様について神が目を留められないなどということがあからさまにわかったら、どんなにつらい事でしょうか。
 いつも上にたつ権威の目線を常に気にして生きていかなくてはならなかったら、どんなに息苦しい人生でしょうか。
 私たちは神さまが見えない方であるが故に、神さまの目線を気にしないで気楽に生きてゆくことができますし、神さまのいる場所でだけ「ええ格好」をするような偽善からも解放されます。
 イエスは「わたしにすがりつくのはやめなさい」と告げておられ、主なる神は「お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と告げておられます。即ち「お前たち人間は、おのれの信仰に照らして、おのれが正しいと信じる道を進みなさい。私が目を留めるか、留めないかなど気にせず、のびのびと自分らしく生きなさい」という事ではないかと思うのです。
 カインの罪は、主に目を留められない献げ物を献げたことではなく、評価を受けないことに怒って、弟を妬み、殺したことです。この殺人罪によって彼はエデンから追放されます。
 しかしそれでも主は、
「カインに出会う者がだれも彼を撃つことにないように、カインにしるしを付けられた」とあります(創世記4章15節)。
 これも、私たちにとっては大変示唆に富むお話です。
 主なる神は、全く自由に、思いのままにふるまわれます。聖霊と呼ばれる神の息吹が、どこから来てどこに行くのか、私たちにはわかりません(ヨハネによる福音書3章8節)。だから、神が私たちに都合よく応答してくださるなどということを願望することは虚しい事です。
 まして神さまは、何が神の目に正しいかをはっきりとは人間には教えてくださいません。世界中のあらゆるところで、様々な民族が正しさを主張します。同じ聖書を共有する民族の間でさえ戦争が起こる始末です。したがって、私たちは本当に正しいことや、神の本当の御心など、わかってはいないのです。私たちは自分の生き方は自分の責任で決め、それを神のご意志だなどと責任転嫁してはならないのです。
 神の御心はわからない。ただ神は、カインを守る「しるし」を与えられたように、私たちがひとりひとりどのような道を歩んでゆこうとも、その人はいかなる攻撃も受けるべきではないとしておられるということ。神はその人を守ろうとしておられる。そのことは、本日の聖書の箇所には明記されております。
 たとえ神の前を去らねばならないカインのような道を歩んだとしても、なおその人は神に見棄てられてはいません。それを信じることのみが、ひょっとしたら私たちにできる唯一確実な神さまへの応答なのかもしれません。
 いかなる道を歩もうとも、神は私を守ってくださる。その事を信じて生きてまいりましょう。

祈り

 私たちに命をあたえ、この世での日々を与えてくださった神さま。
 私たちの日々のあらゆる言葉、あらゆる行いを、沈黙をもって受け入れてくださいますことを、心から深く感謝いたします。
 と同時に、私たちに知られざる、あなたの深い真の想いがおありであろう事を思うと、私たちも謙虚に沈黙をもってあなたの御前に頭を垂れるよりないのかも知れません。
 説教者のながながとした取次ぎはこれで終わります。
 あとはあなたの沈黙に触れ、ここに集うひとりひとりの魂にそれぞれの悟りが与えられますように。
 イエス・キリストの名によって、お祈りいたします。
 アーメン。

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