人はパンだけで生きるのではない

2007年9月2日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:申命記8章2−3節(新共同訳・旧約)

  あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心のあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことにないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

空腹を共に味わうイエス

  今日お読みしました旧約聖書の言葉のなかに、新約聖書のイエスが語った重要な言葉がふくまれていることは、みなさんもお気づきになったことと思います。
  
申命記8章3節、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」
  この「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉は、イエスがその活動の当初、荒れ野で断食をした際に悪魔に誘惑され、
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイによる福音書4章3節)と試されたときに、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)と答えられた場面に引用されています。
  申命記の「主の口から出るすべての言葉」という表現と、マタイ福音書の「神の口から出る一つ一つの言葉」という表現は微妙に食い違いますが、あまり本質的な違いであるというようには見えません。マタイはほぼ、この申命記の言葉を引用したかったのだろうと思われます。福音書作家マタイの中では、イエスが断食の苦しみを味わった40日と、イスラエル民族が味わった40年間の苦しみは、ひとつに重なるものだったのでしょう。
  イエスが断食の修行をしたとされているユダの荒野には、本当にパンのような形で手ごろな大きさの、小麦色の丸い石がたくさん転がっていて、断食の修行をした者なら、空腹のあまりその石がパンに見える、あるいは「この石がパンであってくれたら」という思いにかられるのも無理はない、そんな景色が広がっています。
  しかし、どんなに人が空腹を抱えていても、実際に石がパンになってくれるわけではありません。イエスがもし仮に石をパンに変える力を持っていたとしても、あえてイエスはその方法をとらなかった。ということは、イエスは一人の人間として、空腹に苦しむ人間と同じ苦しみのなかにとどまっていたということを意味します。
  もし、イエスが石をパンに変えるということを実際にやってしまったら、そんな救い主は、私たちと全く関係のないお方になってしまいます。なぜなら、私たちの日常は石をパンに変えるような奇跡に頼ることもできず、働いたり、やりくりしたりしながら、限りある量のパンを手に入れていただくしかない生活のなかにあるからです。この人間の生活と同じ地平に立たれたからこそ、イエスが本当に私たちの苦労を共に担ってくださっているんだということが言えるわけです。

飢えているときにこそ

  しかし、人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出る言葉によって生きるというのはどういう意味なのでしょうか。
  パン、つまり日々の食卓が整えられているだけでは、まだ不十分であって、信仰がなければ本当に人間的な生活はできない、という意味なのでしょうか……?
  これに対して、「パンが保証されているだけでも上等ではないか」という考え方もあります。「人間は食うために生き、生きるために食っているのだ」という人生観も成り立つと思います。じっさい、私はそういう親のもとで育ちました。「衣食足りて、礼節を知る」。何事もまずは食べてゆくことができなければ、始まらない。そういう考え方も、人生の真実な一面をついているということは言えるのではないかと思います。「パンだけでは十分ではないなどというのは、日々のパンに恵まれている者が言えることであって、毎日その日のパンを求めて必死に働いている者にとっては、パンが得られるだけでも上等なのだ」と怒りたくなる人がいても当然だと思います。
  しかし、今日お読みしました申命記8章3節、そして新約聖書のイエスの断食の場面もそうですが、どちらも人が飢えている状況で発せられた言葉であるということに注目したいと思います。
  
申命記8章2節から読みますと、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(2−3節)とあります。
これは、飢えている状態のとき、苦しい状況に置かれているときに、その人の本心・本性が表れる。「衣食足りて、礼節を知る」という状態の逆で、「衣食の足りぬところに、本心が表れる」。そこで、その人の追い詰められた本心のなかに神への想いがあるかどうか、試されたのだということであります。

神によって満たされる食事

  旧約聖書の物語は、飢えと苦しみのなかに置かれたイスラエル民族に、不思議な食物マナが与えられたと伝えます。このマナがじっさい何であったのかは謎です。おそらく、海が二つに分かれてイスラエルの逃げ道を作ったとか、モーセが岩を叩くと水が出たといった伝説と同様に、不思議な昔話として、イスラエル民族の間に広まった、一種の神話/ファンタジーでしょう。
  しかし、このファンタジーで人びとが伝えようとしたのは、人間が飢えているとき――これはもののたとえとして心が飢えているとか、そういう精神化された意味ではなくて、本当に腹が減っているというときのことですが――本当に腹が減っているときに人を助けるのは神の言葉だ、という信仰の告白であります。
  このことの関連で、私たちが思い起こすことができるのは、イエスが行ったと伝えられる「五千人に食べ物を与える」(マルコによる福音書6章30−44節ほか)あるいは「四千人に食べ物を与える」(マルコ8章1−10節ほか)という奇跡の物語です。人びとが腹をすかせているときに、イエスがなけなしのパンと魚を使って、全員を満腹にさせたという話です。
  これも、事実そういうことが起こったとは非常に考えにくいことです。もし、これが事実だとするならば、なぜ神は、現在世界中で起こっている飢餓の問題を放置しておられるのか、ということになります。昔々、神は人びとを満腹にさせてくださった。しかし、今は人びとが飢えて死ぬままにしておられる、そんな神を我々は信ずるに値するのか、という問題に私たちはぶち当たります。ですから、私たちは現在の私たちの信仰を守るためにも、この奇跡物語を事実だと言うわけにはいきません。
  5000人といいますが、今から2000年ほど前、日本では弥生時代にあたるような時代に、ガリラヤ地方におけるどこにも5000人以上の人口をかかえる村落はなかった、という調査結果もあります。それを「男だけで5000人」というのは、明らかに誇張です。
  しかし、五千人の供食の物語は、イエスの受難と十字架の物語を除けば、4つの福音書のすべてに記録されている唯一の物語です。つまりそれはたいへん重要なことを我々に伝える物語だという位置づけです。おそらく、事実そのままのことが起こったのではないにしろ、そのような物語が生まれてくる背景には、イエスとイエスに従う人びとの間で起こったこと、あるいはイエスの死後、残された共同体にとって、忘れられない体験があったのでしょう。

イエスのもとに行けば満たされる

  その体験は、おそらく、イエスとその弟子たちの集まりが、互いによく食べたり飲んだりする共同体だったこととも深く関わりをもっていると思われます。
  イエスはいろんな人びとと飲み食いをする人でした。罪人とされていた人びと、徴税人、あるいはライバルであるファリサイ派の人びととも食事をしましたし、彼自身
「大食漢で大酒飲み」(マタイによる福音書11章19節ほか)と呼ばれていたほどでした。そして、彼の最大のメッセージである彼の犠牲的な死の意味づけとしてのパンとぶどう酒の聖餐も、弟子たちとの晩餐の席で伝えられました。
  イエスの死後も、最初のころのキリスト教会では、聖餐と愛餐が一体化していたということもわかってきていますので、教会にとって、「いっしょに食べ、飲む」ということは、とても大切なことであり、教会とはまさに、「共に飲み食いする共同体」だと言えます。
  そして、その共同体は、もしそこに飢えている人がやってきたならば、その人を招きいれ、食事をさせる、そのような共同体であったからこそ、人びとに受け入れられる宗教となっていったのではないか……。
  初期のキリスト教が、ユダヤ教やローマ帝国から、度重なる迫害を受けながらも、着実に信徒を獲得してゆき、最終的には国教とされるまでに無視できない存在となっていった背景には、このような、実際に飢えている人、疲れている人、身寄りのない人や孤児、あるいは病人、心身を弱らせている人、介護の必要な人たちを、休ませ、食べさせる実践があったのではないかと推測している研究もあります。
  そういう、現在でいうところの病院と食堂と宿舎とがいっしょになったような福祉施設のような機能を、初期の教会の人びとが自宅を解放して実践しようとした、その背景にイエスの言葉と行いの記憶があったのではないだろうか。
  五千人の供食の物語は、科学的にはありえません。その数字には誇張があります。しかし、「貧しい者も疲れた者も、みんな私のもとに来なさい。食べさせてあげよう、休ませてあげよう」というイエスの呼びかけがあり、そんなイエスの言葉を実践しようとする人びとの行いによって、飢えを満たされ、疲れを癒された人びとがいて……、「イエスのもとに行けば、空いていた腹は満たされる。イエスのもとに行けば、疲れていた体も心も癒される」という体験のなかから、この五千人の供食のような物語が語られ始めたのではないかと、私は推測しています。

共に飢え、共に満たされる

  「パンだけがあればいいんだ」「食えていけるだけで十分だ」、そのような言葉自体、間違ったことを言っているわけではありません。
  しかし、そこには、「自分が飢えてしまっても、誰も助けてはくれないんだ」という寂しさ、悲しさが背景にあるように感じます。もし自分が食えない状況になってしまったとしても、「イエスのもとに行けば何とかなる」という、そんな状況が社会に実際にあったら、その人は「パンがあればそれでいいんだ」という言葉とは、少し違った言葉を口にするのではないでしょうか。
  なぜイエスにつながっている人たちは、飢えている人を助け、疲れている人を癒そうとするのか。それは、そうすることをイエスが望んでおられるから。そうすることを神が望んでおられるからと信じるからです。
  自分だけの力ではどうにもならず、日々のパンを得ることもできなくなったとき、それを助けてくれる場所があるというありがたさ。そこで人は「私は神に見捨てられていない」と実感することができます。そこで与えられるパンは、神の命じておられることに従って用意されたパンです。
  ですから、人は確かにパンがなければ生きてはゆけないけれども、人はパンだけで生きているわけではない。「パンを分け合いなさい」という神の命令に従うことによって、いっしょに生き残ることができるのだ、ということなのであります。
  そこで、本日の聖書の箇所、申命記8章に戻りますが、イスラエルの人びとは、荒れ野での40年の放浪で、飢えの苦しみを共に味わいます。しかし、彼らはその苦しみのなかで、乏しいものを分け合うこと、持っている者が持っていない者に分け与えることを学んだのでしょう。そして、彼らは「人はパンだけで生きているのではないのだ」という言葉を合言葉のように語り合いながら、自分が食べるべきパンを、自分よりも飢えている者に譲りながら、共に生き残ろうとしたのではないでしょうか。
  ですから、そのようなイスラエル民族にとっては、実は飢えてさまよう「荒れ野の40年」のほうが、信仰的には黄金時代であった、ということも言えるのであります。
  現に、今日お読みしました聖書の箇所に続く部分、申命記の8章11節以降には、こう書いてあります。
  
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」(申命記8章11−14節)
  日々の生活に満足するようになり、その豊かさがまるで自分の功績ででもあるかのように奢り高ぶり、神を忘れてしまうことについて、ここでは警告されています。「おまえがいま手にしている豊かさも、神のお恵みでなくてなんであろうか。そのことへの感謝も忘れて神を見失い、私利私欲にかられて生きるようでは、かつての40年間の荒れ野での暮らしのほうが、よほど人間としては立派な生き方ではなかったのか」という警告であります。
  この、たとえ乏しい中にあっても、人から奪い取って自分だけが生き残ろうとするのではなく、「人はパンだけで生きるのではない」と言って、あるものを分け合う生き方を貫いた、この「荒れ野の40年」でイスラエルが学んだ精神をマタイは受けとめて、その精神を40日の断食を経験したイエスも受け継いでいるのだということを示すために、この台詞をイエスの口に入れたのでしょう。
  イエスは40日間の断食のあと、ガリラヤに戻って、共に食べ、飲み、喜び合う共同体を作ってゆきます。そこで彼は、イスラエル民族が「荒れ野の40年」で学んだはずの、「人はパンだけで生きるものではない」という精神を受け継いで、貧しい者や弱っている人、あるいは罪人といわれて社会から排除されているような人びとを招いて食事をするということを実践してゆきました。
  いま私たちは、このイエスの心を受け継いで、共に食べ、飲み、分け合って喜び合う共同体を、全ての人に開かれたものとして実現することが求められているのかも知れません。
  祈ります。

祈り

  慈しみに満ちた恵みの主よ。
  ここに命を与えられ、同信の方々と共にあなたの御前に集う喜びを感謝いたします。
  イエスが聖書のみ言葉に従って、「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と告白し、また実践したその信仰と行いにならって、私たちもこの格差の激しくなるばかりの社会において、共に支えあい、助け合うものとして、証を立てられますように、どうか私たちをお支えください。
  この祈り、イエス・キリストの御名により、お聴きください。
  アーメン。

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