ひとつの光

2004年12月24日(金) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 クリスマス・イヴ礼拝説教(「闇の中の光のように」改題)

説教時間:約15分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:ルカによる福音書2章8〜15節(新共同訳)

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
  すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
  天使は言った。
  「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
  すると、突然、この天使に点の大軍が加わり、神を賛美して言った。
  「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」
  天使たちが離れて点に天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

信心薄い羊飼い

  新約聖書、ルカによる福音書には、大工のヨセフとマリアの夫婦が旅をしている途中にイエスが誕生したあと、この世の救い主が生まれたという知らせがいちばんはじめに届けられたのは、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちであったと書かれてあります。
  イスラエル地方というと、中東ですから暑いというイメージをお持ちの方もまだおられるかも知れませんが、昼と夜の暑さ寒さの差が激しく、年に何度も雪が降ります。
  羊飼いたちは、火をたきながら身を寄せ合って、凍える夜をやりすごし、星明りのもとで夜が明けるのを待つ、という生活をまいにち続けています。そこに突然、光がさし、羊飼いたちが「おい、夜が明けるには、早すぎるじゃないか」と驚いている間に、天使が現れて「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言った、といいます。
その昔、この地方では、羊飼いという仕事は、人々から見下されている職業でした。
  特定の土地や家屋や財産を持たず、牧草地を求めてあちこちをさまよって生活する羊飼いは、街や村に定住している人々にとっては、たとえば農作物を荒らす羊たちを連れてくるうっとうしい存在でした。
  そこで羊飼いたちは、ふだんから人里離れた地域にいることが多くなるわけですが、そうなると今度は、これは古代のお話ですから、昔の人々は人里離れた山や森や荒れ野には、悪霊や魔物が住んでいると大まじめに考えていたわけで、そういうところをあちこち放浪しているような羊飼いたちには、どんな悪霊がとりついてケガレているかもわからない、という恐怖の目で見られていたわけです。
  さらには、そういう町や村に住む一般的な人々の偏見に加え、その当時の人々の生活習慣やしきたりを支配していた宗教の担い手たち、つまりユダヤ教の聖職者たちも、羊飼いたちへの偏見を助長しました。日々、羊飼いたちの信心の薄さを話のネタに引き合いに出しながら、人々を教えていたのでしょう。
  いわく、「あの羊飼いたちのようになってはいけない。彼らは安息日にも、仕事があるからと言ってろくに礼拝にも行こうとしない。あの者たちが神殿にやってくる時といったら、いけにえ用の羊を売りに来て、お金がもらえる時だけだ。おまけに、安息日には仕事をしてはいけない、火をたいてもいけないと言われているのに、寒いからと言って平気で火をたく。神さまの命令よりも、人間の都合のほうを優先している。神はああいう連中を省みることはないでしょう。みなさんは、あんな羊飼いのようになってはいけませんよ」と。
  しかし、じっさいには、この世の人々の救いとなった神の子が生まれたよ、という喜びの知らせが最初に知ったのは、神の祝福から最も遠い連中だと言われていた、この羊飼いたちだったのであります。
  世間からそういうあつかいを受けていれば、当の羊飼いたち本人にしても、そんな神さまなんか信じたって意味がないだろう、と思わざるを得ないでしょう。まぁ昔の人ですから、神さまの存在を疑ったりはしなかったかも知れませんが、世の中から引き離され、見下されている自分たちが、神さまにとって大事な存在であるとも、自分たちは神に愛されているとも感じることは到底なかったでしょう。
  神はいるかも知れないが、俺たちには関係ない、どうでもいいという感覚であったでしょう。

日々の苦労の繰り返しの中に

  そんな羊飼いたちに、天使たちは、この喜びは「民、全体」のものだと告げました。
  「民全体」に与えられる大きな喜びが、世界のはじっこで、世界最強の軍隊の動きにいちいち右往左往させられている小さな国の、世界のなかではどちらかと言えば、軽蔑されているような民族の、その民族の中でもさらに差別されているような人々のなかの、たまたまどこかの野原で、野宿しながら羊の番をしている何人かの貧しい底辺労働者のもとに、最初に告げ知らされた……。
  このことにはいろんな意味があります。
  たとえば、神の子、救い主が来ることを、最初に知るのは、実はもっとも信仰から離れていると思われているような人たちなのだよ、ということがここに示されています。
  また、神の救いというのは、温かい場所や、豊かで恵まれている立場に暮らしている人のいるところに、やってくるとは限らないのだよ、ということ。むしろ、人からもうらやましがられもしないような、むしろ嫌がられるような仕事を地道にしているような人びとのところに、救いは知らされるのであり、そうでなくてはならないのだ、ということもこの物語は示しています。
  そしてさらに、救いの喜びというのは、目立たない、小さな毎日の苦労のなかに現れるものだ、ということも示しています。
  毎日同じように繰り返す仕事をしている、寒いなかで楽ではない仕事をしている。自分にわかるのは自分の仕事のことだけで、他の人さまのことはわからない、ましてや世界のことなどわからない、そんな人の、日常のなかに、ふと「民全体の喜び」という、なんとも大げさな感じがするけれども、とにかく救いの知らせがやってくるというのであります。

光をひとつ灯す勇気を

  世界にも日本にも、暴力とウソが渦巻いています。
  たくさんの人が殺され、たくさんの人がだまされ、たくさんの人が寒く、貧しく、苦しい暮らしを強いられています。
  そんな中で、「わたしにできることなんか、なんにもない。自分の仕事や暮らしのことで精一杯。人様のことをかまっている余裕なんてない。明日はわが身だよ」と思ってしまっても仕方がありません。
  また、たとえばクリスチャンであったとしても、「私たちには、祈ることしかできません」と、動かない態度を決めこんでしまいたい気持ちもわかります。
  しかし、そんな時だからこそ、ここで、一つの光を心のなかに灯し、それを行動として外に持ち出す勇気が必要なのではないでしょうか。
  「どうせ世界は真っ暗だ、どうせ世の中ろくなもんじゃない……」と自分の心の中まで虚しさに明け渡してしまったら、本当に喜びを手に入れながら生きるためのチャンスを失ってしまいます。
  世の中は確かに闇に満ちています。しかし、世の中というものは人間が作り出しているものです。ですから、人間の心が闇に満ちているから、世の中が暗闇になってしまうのだ、ということも言えるのです。
  人間ひとりひとりが心のなかを闇でいっぱいにしていて、一つの明かりも灯そうという努力をしないならば、いつまでたっても世の中の暗闇のままです。
  だから今必要なのは、ひとつの光を、自分の心のなかに灯す勇気なのではないでしょうか。
  「世界は真っ暗だ。人なんか信用できない。しかし、わたしは今日一日、笑顔で人に接してみよう」とか。
  あるいは、「世界は戦争に満ちている。しかし、わたしは昨日けんかした相手と、今日仲直りしよう」とか。
  あるいは、「世界は弱肉強食の競争に満ちている。しかし、わたしは今日自分より貧しい暮らしをしている人のために献金をしよう」とか……。
  「こんなことをしたって、世の中全体がよくならない限り意味がないんだ」と思ってしまったら、もう本当に救いは近づいてこないのです。
  そうではなく、「わたしにはこれだけのことしかできない。しかし逆に言うと、わたしにはこれだけのことだったらできるのだ」と誇りに思ったっていい。
  そして本当は、むしろそのような自分の手の届く程度の小さな世界で、ちょっとしたことを始める勇気から、大きな世界を変えてゆくような人のつながりを育ててゆけるのです。
  虚しさややる気のなさは伝染して、悪い影響を人に与えますが、反対に、希望を見つけようとする態度、いっしょに喜ぼうとする態度もまた人に伝染してゆくものです。
  わたしたち一人ひとりが、自分から勇気をだして、闇を明るくする光を灯そうとするならば、それは次第によい影響を及ぼして、自分一人から始めて、いつかは誰か二人、そして二人から三人、三人から四人、という風に、輪は必ず広がります。
  それは、ある牧師の言葉を借りれば、「たらいの水を箸でかきまわす
(※)」ように、時間のかかる営みかもしれませんが、しかし、時間はかかってもその勇気は決して無駄にはなりません。
  世の中のはじっこで、ひっそりと生きていた名もない、誰からも省みられたことのない羊飼いたちが、「さあ、知らせてくれたそのよい出来事を、じっさいに見てみようじゃないか」と行動を開始したように。自分から、「神の子という者がいるのなら、そいつに出会いに行こうじゃないか」と動き出したように。自分から希望に向かって行動を開始してゆく、自分から心の中にひとつ光を灯す。その勇気を持って生きてまいりたいと思います。
  共に祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  あなたの御子、イエス・キリストのご降誕をたたえ、また感謝いたします。
  暗い人の世に、一筋の明るい光として、あなたがあなたの子イエス・キリストをお送りくださいましたように、わたしたちも、あなたにならって、一筋の光を自分から他の人に発してゆく者となさせてください。
  去りゆく2004年の私たちの苦しみと疲れを、どうか癒してください。
  来るべき2005年、私たちを闇夜を照らす、丘の上の世の光となれるように導いてください。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお聴きください。
  アーメン。


「たらいの水を箸でかきまわす」という言葉は、東岡山治牧師の著書『盥の水を箸で回せ』(中川書店)より拝借しました。)

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール