小さな一人を愛せる人に

2008年2月12日(火)同志社女子中学校 新島襄生誕記念礼拝奨励
2008年2月13日(水)同志社女子高等学校 新島襄生誕記念礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 25章31−40節(新共同訳)

  「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで右側にいる人たちに言う。
  『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
  すると、正しい人たちが王に答える。
  『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
  そこで、王は答える。
  『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

一人を愛せる日本へ

  おはようございます。
  突然ですが、ぼくはテレビのコマーシャルが大好きです。本編の番組の内容そのものやドラマのストーリーなどよりも、CMのほうに目を奪われてしまう事が多いです。CMになるとテレビから目を離して、しゃべったり、トイレに行ったりする人が多いそうなのですが、ぼくはCMに注目してしまいます。
  というのも、CMというのは、15秒や30秒のなかに、人の注目を引きつけ、伝えるべきメッセージが凝縮されています。そのために、15秒や30秒の短い時間ではありますが、本編の番組以上にお金も時間もかけて作られたものもあります。いわば、短編映画です。
  ですからぼくは、テレビを観るときは、この短編映画を楽しむためにテレビの前に座っているといってもいいと思います。
  さて、今日みなさんに紹介したいコマーシャルは、日本郵政グループのCMです。BGMに「涙そうそう」という歌が流れる中、日本の田舎の風景や人びとが映し出されます。どこか懐かしさを思い起こさせるその風景のなかに、小さな郵便局が現れます。そしてCMの最後には画面上に大きく文字が出ます。
  
『一人を愛せる日本へ』
  ぼくは、この『一人を愛せる日本へ』というキャッチコピーを見たとき、「いい言葉だなぁ」と感じました。
  民営化した日本郵政グループが「一人を愛せる日本へ」と言っているということは、「田舎の小さな郵便局で行っているサービスでも、ひとりの人の不便も感じさせることなく、ちゃんと廃止しないで継続しますよ」というメッセージを送っていることになるのでしょうが、そういうことを日本郵政がちゃんと守れるかどうかということとは別に、とにかく『一人を愛せる日本へ』というのはいい言葉だと思います。

最も小さい者を愛する

  今日読んだ聖書の箇所では、キリストが「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)と語っています。
  ある人がお腹がすいていたら食事を与え、のどが渇いていたら水をあげ、旅をしていたときには泊まる場所を提供し、着るものがないときには服をあげ、病気の時にはお見舞いし、牢に入れられるようなことがあれば訪ねてあげるように、私たちは、私たちが出会う人たちに対して、そういう具体的な愛情を示していこうじゃないか、ということがここに書かれています。
  そういう具体的な愛の行為をすることが、結局神さまを愛していることにつながるんだよ、ということがここには書かれています。すべての人間は神さまから愛されているので、人間が人間を愛するという事は、神から愛されているものを大切にすることになります。ですから、そのような愛の行為は、神さまにも喜んでもらえるはずなんですね。

ひとりは大切なり

  今日は新島襄の生誕記念の礼拝ということですが、新島襄の言葉のなかにも、今まで述べてきたような「一人を愛する」というテーマとつながる言葉があります。
  もうみなさんもすでに習って知っているのではないかと思いますが、1885年に、同志社英学校の創立10周年記念式の礼拝で、新島襄が語った言葉。
  
「諸君よ、人一人は大切なり。一人は大切なり」
  しかし、本当は、人ひとりを愛しきるということだけでも、自分という人間に完全にできるかはわかりません。もし、たったひとりの人間を幸せにすることができただけでも、それはすごいことなのではないかなと思います。

真に愛する

  三浦綾子さんという作家がいます。もう亡くなった方で、『塩狩峠』や『氷点』といった作品で知られているキリスト教作家ですが、この人の残した言葉に、こんなものがあります。
  
「人間には、愛するという言葉は言えても、厳密な意味で、真に愛するということはできないのではないか」
  人間は、「愛しているよ」という言葉は言えるだろうけど、本当の意味で愛するということはできないのではないか、という三浦綾子さんの問いかけは重いものがあると思います。
  「真に愛する」とはどんな愛し方のことをいうのでしょうか? 人間というのは結局、自分がかわいい動物なので、自分が損をしてまで、自分以外の人のことを愛することはできないものなのではないか。あるいは、自分がしんどい思いをしたり、つらい思いをしてまで、人のために尽くすということは、なかなか人間できるものではない、ということを言っているのでしょうか。
  「真に愛する」ということは、自分を犠牲にしてでも、自分以外の人の事を優先するということなのかも知れません。そういうことは、確かに人間には難しいのかもしれません。
  また、私たち人間には、「悪」の部分も必ず潜んでいて、人をいじめたり、迷惑をかけたりするようなことに喜びを感じてしまったりすることも正直言ってあります。ですから、完全に純粋な人間になることは、人間には不可能ではないかな、と思います。
  しかし、どんなに純粋でなくても、どんなに薄汚れていても、一度かぎりの人生のなかで、「この人だけは幸せにしたい」と思うような人を一人でも得ることができたなら、その人生はとてもハッピーでラッキーなのではないかとも思うのです。
  小さな一人の人を大切にする。それをみんながやる。そこから世界が良いものに変わってゆく。そんな気がします。
  一言お祈りしたいと思います。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日こうして同志社女子中学校・高等学校のみなさんといっしょに礼拝をささげる事ができます恵みを心から感謝いたします。
  私たちが、自分が出会う一人ひとりに大切に接しあい、この世を少しでも住みやすいものとできますように、どうか私たちを導いてください。
  主の御名によって祈ります。
  アーメン。

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