「あなたしかいない」

2000年7月30日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約30分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:出エジプト記20章1〜6節(十戒第1〜2戒)(新共同訳・旧p.126)

 神はこれらすべての言葉を告げられた。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。 わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

ジェラシーの神さま

 旧約聖書には、神さまと人間の関係を、男と女の恋愛関係や夫婦の関係になぞらえるような表現が多く出てきます。
 そのなかでも最も直接的な表現をするのは「雅歌」でしょう。雅歌は、王様とおとめたちが歌い交わす愛の歌ですが、なかにはかなりきわどいエロティックな表現も出てきます。この、かなり濃厚なラブソングがなぜ旧約聖書に収められているのかというと、これが男と女の愛を描きながらも、これと重ね合わせて、神と人の深い、濃い愛の関係を読み取ることができるようになっているからであります。
 たとえば雅歌には、ある箇所にこういうくだりがあります。
 「愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷(むご)い/火花を散らして燃える炎/大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない」(雅歌8章6−7節)
 「熱情は陰府のように酷(むご)い」とありますが、この熱情とはすなわち「嫉妬/ジェラシー」のことでありまして、私のジェラシーは陰府、つまり地獄のように激しくてしつこいのよ! と言っているのであります。
 さて、本日、司会者の方にお読みいただきました聖句は、皆さんよくご存知の「十戒」のうち、第1の戒めと第2の戒めにあたりますが、ここにも、わたしたちの神さまはジェラシーの神である、と書いてあります。出エジプト記20章5節の半ば、「わたしは熱情の神である」と書いてあるのが、それであります。
 本日、十戒の中でも特にこの第1と第2の戒めを取り上げましたのは、この箇所が十戒の中でも特別に際立つ特徴を持つからであります。十戒は最初から現在のような10個の戒めではなく、だんだんと10個にまとめられていったものです。第3〜4戒のような祭儀に関する戒めや、第5〜10戒のような日常生活の戒めまで、その起源は様々です。
 そんな中で、1〜2節が決定的に他の8つの戒めと異なっているのは、主なる神ヤハウェが「わたしは……」あるいは「わたしの……」と、常に一人称で語っている事であります。第3の戒めでは「彼の名をみだりに唱えるな」という風に、もう三人称になっていますので、やはり1−2戒は特別です。「彼が」ではなく、主ご自身が「わたしは主、あなたの神なのだ」と呼びかけてこられる、この神と人の距離の近さが、最初の2つの戒めの特質であります。

他に男は多けれど

 戒めに先立つ冒頭の言葉には、夫である神さまがイスラエルという妻に対して愛を語るようなニュアンスが込められております。
 彼はまず、二人の出会いを思い起こさせそうとしております。
 出エジプト記20章2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。
 ここでヤハウェは、イスラエル民族が奴隷として苦しく惨めな暮らしを送っていたエジプトからの解放・脱出、そして砂漠を越えて希望の地を求めさまよったつらい日々、そして安心して暮らせる土地を手に入れるまで四苦八苦した日々、その苦しみの中でヤハウェだけを頼りにしていた日々を思い起こさせようとしています。
 3節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。
 つまり――君には私しかいない。ここにはいろんな男性がいるが、私のほかに君の夫になれる者などいない。いるはずがないんだ……と。
 ここでは、主が唯一の神であるとは言われていません。主がただ独りの神であるならば、ジェラシーなど抱く必要はありません。
 「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」とは、「私はジェラシーの神だ。わたしを拒んだら、どうなるかわかっているだろうね?」ということなのでありまして、周りにも他に神がたくさんあることを認めているからこそ、そして彼女が移り気な女性だからこそ、ジェラシーが起こってしまうのであります。

不貞の妻?

 残念なことに、雅歌以外の旧約聖書のほとんどの書物では、妻たるイスラエルは、夫を裏切り、夫以外のさまざまな男性たちと姦淫を重ねる、ふしだらで罪深い女性として描かれております。
 イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書といった預言者の書は、イスラエルが歴史上おこなってきたさまざまな異教への礼拝を厳しく告発しており、それを妻の裏切りにたとえています。預言者たちは、主なる神以外の神への礼拝を取り入れるイスラエルの一般大衆に対して、ジェラシーの神の怒りの声を代弁しようとします、特にエゼキエル書などは、その姦淫の情事の有様まで克明に述べるなど、相当に激しい描写を使って警告を発しております。
 ここでちょっと注意しておきたいのですが、神と人の絆を、夫婦関係になぞらえる表現方法に問題がないわけではありません。どんな譬えや象徴でも人間の言葉で書かれている限り、限界があります。限界をわきまえずに譬えそのものを絶対化すると、本当に読み取らなければならない本質を見失って、とんでもないことになります。
 たとえば、神を男性に譬え、人間を女性に譬える、この旧約聖書の表現方法も、このために、男は上で、女は下だから、女は男の権威に従わなくてはならないと当時のユダヤ教で教えられるようになったことは、この譬えの絶対化による弊害というべきものであります。
 また、預言者が妻の姦淫ばかり一方的に告発しているせいでしょうか、ユダヤ教の律法でも、姦淫を犯したかどうかの取調べは女性を対象にしか決められていません。たとえ強姦であったとしても「助けを呼ばなかったから」姦淫であると見なされ、被害者の女性も死罪、などと圧倒的に女性に不利な法律になっていました。また、主がイスラエルの民を捨てるも拾うも主の自由なご意志によるものですが、これと同様に、夫が妻を捨てて離縁するのも夫の自由である、とされていました。
 現代に生きる私たちは、この2500年以上も前の人たちの女性観を、そのまま鵜呑みにするわけには参りません。私たちは、彼らの表現の限界をわきまえつつ、彼らの伝えたかったことの本質を受け取るよう務めねばなりません。
 「姦淫」「淫行」「不貞」という、ある意味、えげつない、露骨な表現を使いながら預言者たちが何を激しく攻撃していたのか。それは、「神と人間との長い歴史を持つ愛の絆が壊れている」という事。それも「人間の側から裏切っているではないか」という事であったと言えます。苦しかった時期には、頼れる神はおひとりのみであったのに、暮らしが安定し始めると、いろいろな神に気持ちが移ってゆく。あの頃、「あなたしかいない」と告白した、あの純粋な信仰はどこに行ったのか、あの深い、濃い神への愛はどこに行ったのだ、と預言者たちは糺(ただ)しているのであります。

都合のいい恋愛

 さて、本日の聖句、4節には「あなたはいかなる像も造ってはならない」とあります。
 もっぱらイスラエルにおいて主なる神への裏切りは、偶像を使った、他の神々への礼拝という形で現れております。しかし、「他の神々を礼拝してはならない」ということは、すでに3節で言われております。ここであらためて2番目の戒めとして「像を造ってはならない」と言われているのは、「主なる神の像を」造るな、ということです。
 私たち、こうしてプロテスタントの教会に来ておりますと、神さまの像を造らないなんて事は当たり前のように思いがちですが、実はこの時代には、どうもヤハウェの像を造った人もいたようであります。そこで「他の神々の像を拝んではならないだけでなく、私たちの神ヤハウェの像も造ってはならない」と、十戒は改めて戒めたのであります。
 「神の像」というと古今東西いろいろな像があります。例えば日本でも、いたるところにお寺に仏像があります。京阪電車に30分から40分ほど揺られて行ったら、京都にはたくさん有名なお寺があり、そこには美術的・芸術的に大変優れた仏像も多く、はっきり言って私は仏像を見るのは嫌いではありません。そして、それらはただ美術として優れているだけでなく、たしかに神秘的な感情を呼び覚ますものもあります。
 仏像を作った人たちは、もちろん像そのものが仏だと思っていたわけはありませんで、「仏つくって魂入れず」と言いますけれど、大切なのは物体としての像ではなく、そこに宿る魂であります。像を拝む人は、実は像を通してその向こうの形にならないもの、見えないものを拝んでいるはずです。ですから、像を使った礼拝を「木や石や金属を拝む愚かな行為である」と片付けるのは、他の宗教に対して失礼であります。
 ただ、京都でも奈良でも、京阪や近鉄に乗れば、私たちは自分の都合のいいときに仏像を見に行くことができます。都合が悪い、都合が合わない、そういう時には行きません。当然、仏さまには会えません。
 いや、本当は仏というのはどこにでもおられるのだ、というのが本当なのかも知れないけれど、像を造ってしまったばかりに、像のところに行かないと会えないように思ってしまう。このへんが像を使った礼拝の落とし穴なのかなと思う時があります。
 再び恋愛の話になりますが、像を使った礼拝は、いわば都合のいい恋愛のようなものではないか。自分の都合のいい時だけ、都合のいい場所で会えるような恋人。忙しくて都合のつかない時や気分が乗らない時には会わなくてもいいし、責任も利害関係もない。少々薄味ですが、とても気楽な「おいしい所取り」の関係とも言えます。

長距離恋愛

 しかし、神と人の愛が、このような「おいしい」「都合のよい恋愛」ではないことは、もうみなさんおわかりであろうと思います。神と人との関係は、共に苦労を負い、共に励ましあい、あるいは怒りをもって対決することもありうる。悪く言えば「くされ縁の夫婦」、良く言えば「運命共同体」。とにかく、生活上利害ががっちり絡んでいて、切っても切れない結婚関係のようなものである、と旧約聖書はおおむね語っているのです。
 ただ、神と人の愛では、相手を見ることも触ることもできません。ですからこれは、いわば単身赴任の結婚、長距離恋愛のようなものである、とも言えるかも知れません。
 単身赴任。長距離恋愛。これは、うまくいけば、お互いの愛を深めるチャンスにすることができます。思い通りに会えないからこそ、かえっていつも相手のことを意識するということがあります。面と向かっているとなかなか口にしにくい「愛しているよ」という一言も、電話やEメールなら多少は伝えやすく、そうやって遠まわしのいろいろな手を使って言葉で愛を確認することで、かえって愛は強まるかも知れません。
 もちろん、会えない事で二人の間に溝が広がってしまうこともあるかも知れない。それは当然ありうることで、そうなってしまっても、二人を責めることはできないでしょう。ただ、見えないから、触れることもできないからと言って、必ず愛が失われるというわけでもないとも言えるのです。
 会えない事でかえって、「私はいつも心の中であなたと一緒なんだよ」と、そのような心持ちになることもまた人間にはあるのではないかと思います。そしてその時、その人は、場所にも時間にも縛られない、自由な愛を手に入れるのではないでしょうか。
 像を使った礼拝の問題点、それは、木や石や金属の像、あるいはそれを置いてある宗教施設などの特定の場所でしか神さまとは会えない、あるいは、自分の都合にあわせて特定の場所や時間帯に神と出会うことができると思ってしまう危険性であります。それは、自分の都合のいい場所と時間に会える恋人のように、神を都合よく利用しようとする誘惑が陥る危険性が強いのです。
 そして、そういう意味では、「偶像礼拝はしません」と言っているプロテスタント教会にもじゅうぶんその危険性はあります。教会という場所、礼拝という時間だけが、神さまとの出会いが起こっているところではありません。あまりに教会・礼拝というものを特別視しすぎると、私たちはかえって私たちの毎日の普段の生活から神さまを遠ざけてしまう。いや、自分から遠ざかってしまう。日曜日だけ神さまに会いに来るというのでは、これはいわゆる「週末婚」の状態であります。そういう感覚では、どこにいても、いついかなる時でも、自由に私たちの暮らしの中にその御力を表わされるはずである、神さまの働きを見落としてしまうのであります。

苦楽をともに

 神と人の愛は、神さまの姿が見えぬゆえ、遠距離恋愛を強いられた夫婦に似ていると申しました。
 本日の聖書の箇所は、大胆に意訳すると、こんな風に読むこともできるでしょう。
 「――あなたとわたしが歩んできた道のりを振り返って見てごらん。そうすれば、あなたにはわたししかいないことがきっとわかるはずだ。わたしは都合よくお互いを利用しあうような軽い愛はいらない。そんな事をしたらわたしはただではすまさない。けれども、あなたがわたしを心から愛し、わたしとの絆を大切にしてくれるなら、わたしはあなたを惜しみなく慈しむだろう――」
 それは、遠方から送られてきたパートナーからの手紙のような愛の告白です。永年苦楽をともにした連れ合いに、「やはり、私にはあなたしかいない」と改めて告白する、愛の語りかけではなかろうかと私は思います。神さまは聖書を通して「あなたとの絆は特別なのだ」と、神さまの方から愛を告白して下さっているのであります。
 私たちは神に、同じような愛を告白できるでしょうか。
 「私にはあなたしかいません。いつでも、どこでも、私はあなたを心に抱いています。あなたの面影を、私の毎日の暮らしの中に見つけることができます」と伝えることができるでしょうか。
 神に対しても、人に対しても、そういう愛し方ができる人間は幸せです。神さまは、そんな愛の告白を待っておられるのであります。

祈り

 祈ります。
 私たちの愛する神さま。
 いつもあなたの熱い愛を忘れることのないように、そして、あなたの愛に応えて、愛をお返しして生きてゆくことができますように。
 私たちが日々出会う人の中に、あなたの面影を、また私たちが日々出会う出来事の中に、あなたの御心を見出す感性をお与えくださいませ。
 願いばかりの貧しき祈りではございますが、どうか、イエス・キリストの名によって、お聞きください。
 アーメン。

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