囲いの外の羊をも

2008年2月24日(日) 日本キリスト教団大阪大道教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書10章16節 (新共同訳・新約)

  わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

少数派クリスチャン

  私は日本キリスト教団の教師でありますが、教会で働く牧師ではなく、学校で働く牧師です。教団のなかでは「教務教師」という立場にあります。
  私が遣わされている学校には、クリスチャンがほとんどいません。専任の教員が70名ほどいますが、そのなかでクリスチャンは4名しかいません。そのうちの1名は今年退職し、もう1名は来年退職します。すると、教員のクリスチャンは2名になります。この2名というのは、私と、もう1人の聖書科の先生です。聖書科の教師だけがクリスチャンで、他はもうクリスチャンがいません。
  そして、生徒の側にもクリスチャンはほとんどいません。1学年に1人いればいいほうではないかと思います。
  この現状は、もちろんキリスト教教育を志す人間にとってつらい状況には違いないのですが、それにも増して、圧倒的多数のノンクリスチャンの教員・生徒にとっても不幸な状況だなと思っております。
  そんなに少数しかクリスチャンがいないとなると、その少数のクリスチャンの姿だけを見て、「クリスチャンとはこういうものだ」というイメージを作られてしまいます。
  特に、聖書科の教師というのは、牧師でもあるわけですが、牧師の姿=クリスチャン、聖書科の教師=クリスチャンというのは、私たちにとっては、そういうものではないわけで。もっと「普通の」といいますか、信徒のいろいろな人間像に触れて、クリスチャンにもいろいろな人がいるのだということをわかってもらえないのが残念でなりません。教会にはこんなにいろいろな人がいるのに、です。

教会レポートの功罪

  そのような教会の生の姿を、生徒たちに知ってもらいたく、数年前から、教え子たちには「教会レポート」というものを提出してもらうようにしています。1学期に1回、教会の礼拝にじっさいに出てみて、そのときの説教の内容を要約し、教会の人のサインをもらって、感想を書いて提出してもらうというものです。
  最初のころは、全員必修にし、レポートを提出した生徒には、高得点をあげていました。これまで教会に足を運んだことのない生徒たちが初めて教会に行くのは、さぞかし勇気の要ることだろうと思い、また生徒たちが教会に行ってくれるのがうれしくて、高い点数をつけていました。
  その結果、学校の近所にある教会に生徒たちがドッとつめかけて、会堂に入りきらないほど生徒があふれ、サインをもらうための行列ができてしまったりして、教会の方が悲鳴をあげてしまったり、クリスマスには、せっかく教会の方々が愛餐会のために用意していた食事を、大挙して押しかけた生徒たちがほとんど食べ散らかして帰ってしまうなど、ご迷惑をかけることばかり起こり、教会から苦情の電話をいただくということもありました。
  そのうち、生徒たちも要領がよくなり、礼拝には参加せずに受付で、自分を含む友人達の人数ぶんの週報だけを取って帰ってゆき、教会の人のサインは、一回目にもらったときの筆跡をまねて偽造し、何食わぬ顔で提出するようになりました。
  あまりに偽造レポートが多く、これでは意味がないと感じた私は、この教会レポートを自由提出に切り替え、さほど点数もあげないことにしました。それで最近では、ある程度、動機がしっかりした生徒だけが教会に行くようになったのではないかと思います。
  それでも、提出された感想のなかには、こんなことを言う子がいます。
  「教会には真剣に神を求めてきている人が集まっているのに、自分はレポートのためだけに来ている。こういうのは教会の人に失礼なんじゃないか。だからこんなレポートはやめてしまったほうがいいと思う」
  そういう人に対しては、「自由提出のレポートだし、これを出したからといって、そんなにたくさん点数がもらえるわけではないから、今後はやめておきなさい」と話すようにしています。
  多くの生徒が、教会に行って、いろんなことを感じたり、考えたりしてほしい、できれば神さまと出会ってほしいとこちらは願うのですが、なかなか思ったようには事は運ばないものです。

囲いの外の羊をも

  さて、本日の聖書の言葉、ヨハネによる福音書第10章16節において、イエスはこんなことをおっしゃっています。
  
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」(ヨハネによる福音書10章16節前半)
  「囲いに入っている羊」とは、誰のことなのでしょうか。「囲いの外」とは、どのような場所のことを指すのでしょうか。私には、「囲いの中」が、主の御名によって集まる場所、すなわち教会であり、「囲いの外」が教会から出た一般社会を意味するのではないかという気がします。
  教会という囲いの中で、私たちはイエスという羊飼いに守られて、共に礼拝をし、交わりをもって、互いの信仰を確かめ合い、新たな一週間を生きる力を得ます。
  しかしイエスは、このような「囲いの外」にも、ご自身の羊がいるのだ、とおっしゃいます。
  私には、このイエスの言葉が非常にリアリティをもって迫ってくるのを感じます。といいますのも、私自身が「囲いの外」にいる羊たちに、イエス・キリストを告げ広めるために派遣されているからです。
  そこには、イエスのことも、神のことも知らないし、知りたいとも思っていない羊たちがたくさんいます。しかし、そのような羊たちをも、イエスは「私の羊」と呼ぶのです。そして、
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(同16節後半)と記されています。「囲いの中」の羊も「囲いの外」の羊も、イエスのもとに一つの群れになってゆくと記されていることに、私は大きな励ましと希望を感じます。

洗礼を受けても、受けなくても

  本物の神というのは、このようにして「囲いの内と外」という境界線を越えてゆく方なのだろうなと思います。神さまは、教会の「囲いの中」の人びとにとってだけの神なのではなく、「囲いの外」のたくさんの人びとにとっても神であるはずです。
  「神はクリスチャンにだけ恵みを与えるのではなく、ノンクリスチャンにも同じ恵みを与えておられるはずだ。なぜなら神は、全ての人にとっての神だから」というのが、本当の唯一神教の信仰というものではないかと思います。
  その人が信仰を持っていても、いなくても、神の恵みは公平に与えられているのであり、神の恵みは全ての人に開かれたものであるはずです。
  洗礼を受けた人間というのは、別に何か特権階級に属するわけではありません。洗礼を受けるというのは、自らの主体的判断で、神と共に生きることを公に認め、クリスチャンとして責任ある人生を送ろうとする、神との約束のしるしです。
  それはその人の生き方の選択の問題であって、何もクリスチャンになったから、その人は特に神から愛されるようになるとか、神から特別に愛されているからクリスチャンになったのだ、と考えることは間違っています。
  神の愛は、全ての人に注がれているのであり、クリスチャンになった人は、その愛に気づいて応答しようとしたのだということです。未だ応答していない多くの人にも、神の愛は同じように注がれています。

宣教するクリスチャン

  その上で私たちは、「囲いの中」でだけクリスチャンであるのではなく、それぞれの職場、それぞれの地域、それぞれの人間関係という「囲いの外」の領域で、神の愛を証しすることが望まれているのではないかと思います。
  神の愛の証しといっても、何も「キリスト教を信じなさい」と説得したりとか、「教会に来なさい」と勧誘することばかりが宣教というわけではありません。
  宣教とはむしろ、具体的には「囲いの外」の人びとに仕えてゆく、あるいは支えてゆくという生き方になるのだろうと思います。
  自分が出会う人は、すべて「この人も神に愛された人なのだ」と思い、その人のためによかれと思ったことを実行してゆくという生き方になるでしょう。
  クリスチャンにとって、「囲いの中」で神への信仰を養ってもらうことは大切であり、ありがたいことです。しかし、私たちは月曜日から土曜日まで、この世の現実のなかで生きてゆかねばなりません。この世の勢力のなかで、自分がクリスチャンであるということに、いかに良い意味でこだわりながら生きてゆけるのか、私たちは日々試されていると言ってもいいでしょう。
  それは、ある意味、牧師よりも強い信仰の自覚が必要とされるのかも知れません。牧師は教会のなかで信仰を語っておればよいのです。牧師は信徒だけを相手にしていられるわけです。
  この大阪大道教会の浅野牧師は、大阪YMCA学院という「囲いの外」の領域にまで出かけていって、証しを立てておられます。そういう牧師もいます。しかし、そういうことをしない牧師もおります。教会の中に閉じこもっているような牧師です。そのような牧師たちよりも、一般信徒のほうが、はるかにこの世の荒波にもまれているわけで、この世で生きる現場に立つ者として、キリスト者としての証しを立てるというのは、本当に勇気のいることだろうと思います。
  自分がクリスチャンであるということを、はっきり表明する人もいれば、それをしない方がよい立場の方もおられるでしょう。自分が信じている宗教を明らかにできる人は、この世では恵まれているほうです。しかし、もしクリスチャン宣言ができなかったとしても、この世の人に「仕える」「支える」という生き方で、キリストを証しする方法があるのではないかと思います。
  宣教とは、イエスが弟子たちの足を洗ったように、この世に仕えてゆくことなのではないでしょうか。

「仕える」

  さて、考えてみますと、本日の聖書の箇所では、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とは書かれていますが、「囲いに入っていないほかの羊」たちが、囲いの中に入るようになる、とは書かれていません。つまり、この福音書を書いたヨハネは、自分の教団、あるいは教会の人数が増えて、栄えるようになることを期待しているのではないということがわかります。
  そんなことよりも、ヨハネにとっては、「囲いの中」にいようが、「囲いの外」にいようが、一人のキリストによって導かれていることが大事なのだと言いたかったのでしょう。
  「囲い」というのは、あくまで羊を集めておくだけの入れ物に過ぎないのであり、「囲い」を維持したり、大きくしたり、立派なものにすることがキリストの目的ではないのです。
  「囲い」としての教会は、キリストを宣べ伝えるための手段に過ぎないのであり、教会の中であろうと、教会の外であろうと、大切なのは同じ神の愛が告げ知らされ、実行されることです。
  ですから教会は、決して自己目的化してはならないのであります。むしろ教会は、この世に「仕える」ために具体的に何をすればいいのかを真剣に考え、行動しないといけないでしょう。
  そして、個々のクリスチャンは、教会の「囲いの外」で、この世に仕えるために何ができるのかを考えないといけないでしょう。そうでないと、教会は一体なんのためにこの世に存在しているのか、わからなくなってしまいます。

無くてはならぬもの

  いちばん最初の頃のクリスチャンたちは、飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人には水を飲ませ、旅をしている人には宿を貸し、裸の人には着るものを与え、病気の人を見舞い、牢に入れられた人を訪ねるということを実践していました(マタイによる福音書25章35−36節参照)。そのことが当時の社会に足りなかったものを差し出す、具体的な奉仕だったわけです。だからこそ、キリスト者の群れはこの世に無くてはならないものになったのでした。
  私たちキリスト者は、いまの日本においては、圧倒的、絶対的な少数派です。しかし、その点においては、最初期の教会にとっても状況は同じで、最初の頃は回りにクリスチャンなどいなかった、そこから教会の宣教は始まったのでした。
  いま、私たちはどのような形でこの世に仕えたら、世のために無くてはならない存在になれるでしょうか。
  「仕える」ということは、ただ言いなりになるということではありません。たとえば、私は自分が遣わされている職場で、生徒たちに「仕え」なければならないと思っています。しかし、生徒に「仕える」とは、生徒のわがままを容認し、生徒の言いなりになるということではありません。生徒がよい人間となって学校を巣立ってゆけるよう、この世の社会で生きてゆける力を身につけるよう、研鑽させるということが、本当の意味でその生徒に「仕える」ということだと思います。
  これは教師と生徒の関係だけではなく、親子の関係でも同じだと思います。親は子どもに「仕える」ことができます。それは子どもの要求のままに従うことではなく、子どもが育つ上で本当に無くてはならぬものをしっかりと考え、子どものために選んで与える仕事ではないかと思います。
  教会がこの世に「仕える」のも同じことです。世の中に迎合する必要は全くありませんが、この世に無くてはならぬものを提供する、そんな社会実体にならなくてはならないでしょう。
  この世にとって、本当に必要なもの、大切なものを差し出すことのできる教会でありたいと願うものです。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  本日は大阪大道教会の皆様とともに、あなたに礼拝をささげることができます恵みを感謝いたします。
  あなたの名によって集まっている私たちが、あなたに送り出されて、この世における地の塩・世の光となれますように、どうか私たちの信仰を研き、進むべき道を示して、導いてください。
  イエス・キリストの名によって祈ります。
  アーメン。

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