囲いの外へ

2003年1月7日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 10章1−18節(新共同訳・新約・p.186−187)

  「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
  イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより先に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。−ー狼は羊を奪い、また追い散らす。−−彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしはそれを自分で捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」」

イエスはどんな羊飼いか

  今年は未年(ひつじどし)です。
  羊というのは、クリスチャンにとってはなじみのある動物です。
  さきほどお読みしました
ヨハネによる福音書10章には、羊の囲いについて書かれています。ここではイエスは羊飼いであり、また同時に羊の囲いの門にもたとえられています。
  イエスを通ってこの羊の囲いの中に入る者は、牧草を見つけ、救いを見出します(9節)。そしてイエスを通らずにこの羊の囲いの中に入ってきた者は、羊たちを盗む盗人や強盗にたとえられています(1,10節)。しかし、もちろん羊たちがイエス以外の盗人などには従うことはなく(5節)、イエスの声のみに従ってついてゆくのです(4節)。
  そしてイエスは羊が狼に襲われそうになると、命を捨ててでも羊を守ろうとする良い羊飼いです(11−14節)。羊のために命を捨てる羊飼いの姿に、十字架にかかったイエスの姿がダブります。

囲いの外にも羊はいる

  さて本日とり上げました聖書の箇所を通して、私が今年一年心にかけてゆきたいなと思っている……いや、実は前から心にかかっていて、今年も改めて心にかけてゆこうと思っているのは、16節の「囲いの外にいる羊たち」のことであります。
  16節をもう一度お読みしたいと思います。
 
 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10章16節)
  囲いというのはイエスを信じ、イエスに導かれて生きる者の集まっているところ、つまり教会のことを指していると思われます。
  しかし、羊飼いのイエスは、
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言います。
  私は、この「囲いに入っていないほかの羊」という表現が、実に真に迫ってよくわかる気がいたします。というのも、私がいつも接している現場は、もっぱら囲いの外であることが多いからです。
  私のメインの現場はキリスト教学校です。キリスト教学校とはいえ、そこに集まる生徒は1学年およそ300名に対して1名クリスチャンがいればいいところ。2人もいれば多いほうです。生徒たちが育った家庭も、必ずしもキリスト教に対して積極的な関心があるとは言えない。むしろ宗教に対してはたいへん否定的な思い込みを持たされている子どももいるわけで、私の仕事は、囲いの中ではなく、囲いの外で羊を集めて、神の羊飼いであるイエスのことを羊たちに伝える仕事であると言えます。
  この囲いの外の羊と共にイエスの声を聞き分けようとする仕事に対して、囲いの中、すなわち教会の中で牧会をする人は、必ずしも充分に理解はしてくださっているとは限りません。
  たとえば、私は補教師(伝道師)の資格を得ようとするにあたって教区の面接を受けたとき、「最近の学校は生徒を教会に送ってくれないから困る」と苦言をいただきました。
  また、正教師(牧師)の試験のとき、教団の面接では、説教の評価が「最高」と「最低」の真っ二つに分かれ、高い評価を下さった牧師は「本質をとらえつつ、わかりやすい」と評して下さいましたが、最低だと言った牧師には「媚びすぎている」「受け狙いだ」と言われました。
  まぁ格調高い説教をなさる先生に評価されないのは仕方がないかな、とも思うのですが、その先生が「こんな素人受け狙いの説教するのは誰だと思って願書を見たら、『なーんだそうか』って納得しちゃったよ。学校で働いているんじゃ仕方ないか」とおっしゃった時には、私個人への評価を越えて、この方は囲いの外における伝道・宣教について、どこまで心得ておられるのだろうと疑問を抱かずにおれませんでした。
  学校の礼拝と教会の礼拝を、生花と造花、つまり生きた花と作り物の花の違いにたとえた牧師もいますし、教会の礼拝は「公の礼拝」、学校の礼拝は「私的な礼拝」だ、と堂々と著書に記す牧師もいます。
  キリスト教の基盤は教会であり、教会は「聖なる公同の教会」であるという発想で単純に考えれば、その教会の外で行っている礼拝は、「公同」ではない、公ではない、教会共同体の外でやっている私的な集まりということになってしまうのでしょう。
  しかし、実際にその私的な礼拝と呼ばれている場所で、多くの若い羊達と接している私にとっては、
「その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」のだ、というイエスの言葉のほうがリアリティをもって迫ってくることがよくあります。
  中学生、高校生たちの中には、クリスチャンのできあいの教義で凝り固まったお決まりの解釈を超えて、とてもみずみずしい感性で、イエスのメッセージを的確につかみとる者がたくさんおります。私は聖書の読み方について、毎学期生徒たちに多くのことを教えられています。

囲いからはじき出された羊たち

  最近、私にとってもう一つの現場が育ちつつあります。それは、インターネット上のホームページの教会です。
  2年半ほど前に始めたこのホームページ、最初は単に教会仕立てのホームページ、一種の見立て遊びのようなものであったのが、最近では「これも一種の教会なのかな」と思えるほどに、私にとっては大切な奉仕のわざになってきました。
  というのも、このネット教会にやってこられる方は、「囲いの外の羊」……というより、むしろ「囲いから叩き出された羊」としか呼びようのない状況で訪ねて来られる方がほとんどだからです。私の経歴と重なる重荷を負っておられる方々、すなわち離婚と再婚の悩みを抱えておられる方は特に多く訪ねてこられます。
  どなたも、現実にある教会の牧師を訪ねていって、キリスト教についていろいろ学んでいるうちに、やっとの思いで自分の過去や現状の悩みを打ち明けると、急に態度を固くされたり、たとえ相談している方が配偶者から何らかの被害を受けたケースであったとしても、そのような個別具体的な事情とは関係なく、「しかし離婚はやはり罪です」という形式的な回答しかしてくれない、という経験をしておられます。
  それで現実の教会に失望した人びとは、今度はインターネットでさまざまなキリスト教関連サイトを当たり始めます。しかし――これは私も意外だったのですが――たとえば離再婚の問題について、それを否定的に取り扱わないキリスト教系のホームページは、日本にはこの『三十番地キリスト教会』には無いそうです。少なくとも、今まで私のところに来られた方々のお話ではそういうことらしいのです。
  どのホームページを訪ねて、メールで質問を出しても、過去の事を話した途端に返信が来なくなったり、具体的な話題は避けて「祈っています」という当り障りの無い言葉しか返ってこなくなるそうです。
  それにしても、「新来会者」が来られるたびに、日本のキリスト教会というのは、多くの迷える子羊を迎え入れるよりは、基準を設けて選別し、基準に合わない者は排除しようとすることのほうがいかに多いかと痛感させられます。キリスト教というよりは「キリステ教」とでも言ったほうがいいような現状を感じます。
  面白いのは――と言うとちょっと不謹慎かもしれませんが――面白いのは、そうやって現実の教会からはじき出され、叩き出されたような人の中に、教会から離れて自分で聖書を改めて読んだとき――キリスト教の教会に精神的に痛めつけられながら、聖書をあえて読むというのもずいぶん勇気のいることだと思いますが――改めて自分で聖書を読んだときに、逆にイエスの言葉や行いに、慰めと救いを見出しておられる方がおられるということです。
  そういう事例に何度か出会ううち、私は本日の御言葉、
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」という御言葉が真実であることを確信します。
  教会の囲いの外でも、イエスに応える羊がいるのであります。

そして群れは一つになる

  そしてさらに、御言葉は「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と続きます。
  もっぱら囲いの外で、イエスの名を聞き分ける羊たちの皆さんと出会っている私としては、囲いの外と、囲いの中の羊が、一つの群れとなってイエスに従ってゆくというこの御言葉は、大いなる希望の言葉です。
  しかし、イエスはこの羊の群れを、囲いの中にまとめようとしておられるのではありません。
  同じ
ヨハネによる福音書10章の3節をごらん下さい。
  
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで『連れ出す』」と書いてあります。
4節、イエスは「自分の羊をすべて『連れ出す』と、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」
  イエスに従う者の群れは、囲いの中に留まるのではなく、実は囲いの外に出てゆくのです。
  イエスは囲いの中の羊の先頭に立ち、羊たちを連れ出してゆく。囲いの外にもイエスの声を聞き分ける羊がいて、その羊たちもイエスに導かれて、二つの群れは一つになり、イエスに従ってゆく。群れは、イエスに導かれてどこに向かうのでしょうか……。
  私たちは、イエスは囲いの中におられ、囲いの中こそ公の場所であると思い込み、そして囲いの外にもし羊がいるならば、最終的には囲いの中に誘い、追い込むことこそが救いへの道なのだと考えがちです。
  しかし、イエスはそんなことは考えておられない。イエスは我々羊を囲いの中から連れ出そうとおっしゃっているのです。
  いつの日か、囲いの外と中の群れが一つになることを望みつつ、信じつつ、私はこの一年も囲いの外でたくさんの羊のみなさんと出会いつづけるわざを続けていこうと思っています。
  皆さんはこの一年を、囲いの中でイエスに導かれる者として、どのようにお過ごしになられますでしょうか。
  いつの日か、イエスに連れ出された皆さんと、囲いの外で一つの群れとして合流したいものです。

祈り

  愛する天の父なる御神さま
  私たち、新しい年をこうして迎えることができましたことを感謝いたします。
  また、この新しい年も、あなたに導かれる仲間と共に、あなたの御前に集められ、教会のわざを続けてゆける恵みを感謝いたします。
  そして、その新しい年の教会のわざを、御言葉の学びと祈りの集いによって始めることができます恵みを感謝いたします。
  この新しい年、あなたの御子イエスの導きに応える群れとして、なすべきわざをなす教会であれますように。
  この祈りを、愛する私たちの羊飼い、イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。
  アーメン。

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