昔も今も変わりなく

2006年2月26日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 聖日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書15章15〜20節 (新共同訳・新約)

  ピラトは群集を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
  兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
  また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまづいて拝んだりもした。
  このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

映画『パッション』の功績

  2004年、今から1年半ほど前に『パッション』という映画が公開されました。ご記憶でしょうか。あるいはもう御覧になった方がすでに多いとか? あのどうしようもないほどに血生臭いイエスへの拷問の場面に、ショックで心臓麻痺になった人もいたというニュースも流れましたし、私の周囲でもイエスに加えられるあまりにも惨い暴力を目の当たりにして、ただ泣くばかりだったという人が何人かいます。
  あの映画を評価しないという人はたくさんおられます。
  まず「血生臭すぎる」。当然の評価です。イエスの十字架における死が美しく描かれていない。また、監督のメル・ギブスンが個人的にカトリック信者であったことも影響してか、たとえば汗と血にまみれて十字架を運ぶイエスに白い布をささげて渡してイエスがその汗と血をぬぐった、というその女性、聖ヴェロニカなどの登場は、プロテスタントの信徒にはほとんどわからないような登場人物です。
  もっと言うと、聖書を読んだり、聖書について説明やセミナーを受けたりしたある程度玄人(くろうと)のクリスチャンでないと理解できないシーンも多かった。マグダラのマリアが姦淫の最中に逮捕され、石打にされそうになったところをイエスが助けたことを連想させる場面では、本当にマグダラのマリアが姦淫の現場で捕まった女性であるかどうかという論議もありますが、それ以前に、イエスの前に数人の男たちがセリフもなく、ポトリ、ポトリ、と石を放って去ってゆくシーンは、クリスチャン以外の人には、まるで意味不明のゲームの一種のようにしか見えないのだろうと思います。
  もっともっと映像的にはリアリストの私にとって許せないのは、サタンが目に見える姿で登場し、目に見える俳優によって演じられているということです。神さまを映像化しないのなら、悪魔も映像化しないでおくべきではないかと思うのですが……。
  しかし、にも関わらず、わたしはある1点において、この映画を観る価値があると思っているのです。
  その1点とは、まさに、最初に私が申し上げた、この映画の暴力描写です。『マッド・マックス』に始まり、『リーサル・ウェポン』シリーズで特に有名になったメル・ギブスンにとってはそのような流血の描写などお手の物だったかもしれません。『パッション』の中のイエスは「これでもか、これでもか」という勢いで痛めつけられ、肉片を散らし、血を流します。しかし私は、おそらくイエスは本当にここまで痛めつけられたのではないだろうか、と感じるのです。

「受難」

  明々後日(しあさって)の水曜日から私たち教会の仲間は四旬節とも呼ばれる受難節、すなわちレントに入ります。イエスの受難を思い起こす季節に入ってゆくわけです。
  その時、私たちはカンタンに「受難」という漢字2文字にイエス・キリストが体験した恐ろしい出来事を、コンパクトにパッケージしてしまってはいないでしょうか。
  キリスト教の教会にいる人間ほど、簡単に「受難」と一言ですませます。なぜならそれは、私たち人間の罪を身代わりに負ってくださって、それ自体はたいへん申し訳ない恐れ多いことだけれども、最終的には4月16日にはイースターを迎え、復活の栄光の中に輝いているキリストを思い描きながらお祝いをする準備の時期でもあるから、昔から変わらずそうなのだから、そんなに深刻にならなくても……と。
  しかし、教会で「受難」「贖罪」「復活」というお決まりのコースからちょっと足を踏み出して、もう少し客観的にイエスの「受難」と呼ばれているものを見直してみますとどうなるでしょうか。
  イエスというユダヤ人は当時のユダヤ人社会を取りまとめているユダヤ最高法院(「サンヘドリン」と呼びますが)にとって、非常にやっかいな存在でした。奇跡的な病気治しやカリスマ的な教えに引かれてやってくる一大勢力を伴ってエルサレムの都に現れるなり、神殿に巣食って政治的権力と莫大な税金により経済的集中を欲しいままにしている祭司長たちや律法学者を、鋭い舌鋒で批判するイエスの動向は、サンヘドリンの構成メンバーたちにとっては、たいへんうっとうしい、うるさい勢力だったはずです。
  イエスは、彼らの権力と富を批判するうるさい存在でしたが、イエスにくっついていっしょに権力批判する者の人数も(野次馬も含めて)無視できない数ですから、表立ってイエスを捕らえようとすると、大暴動に発展する可能性もあります。
  そこで夜にまぎれて人目につかないように逮捕し、本当は夜に開いてはならないはずの裁判を、深夜から形だけ整えました。しかし、不利な証言も一致しないし、なんら処刑すべきほどの証拠を見つけられない。にも関わらず祭司長たちは「死刑だ、死刑だ」と騒ぐ。とにかくイエスといううっとうしい存在を消したいのです。
  自分たちだけでは証拠不十分であったので仕方なくか、あるいは自分たちの手を汚せば、同じユダヤ人同胞の暴動が恐ろしかったのか、彼らサンヘドリンはイエスを、彼らユダヤ人をさらに上層部で支配しているローマ総督ポンティオ・ピラトのところに連れて行き、「こいつは政治犯です」と突き出します。
  ピラトにしても、イエスを処刑にするだけの証拠は何一つ見出せません。ただ、サンヘドリンがこの男を殺したがっている意図だけは伝わってきます。そこで彼は人びとの前で手を洗って(
マタイによる福音書27章24節)「自分はこの決断に責任を持たない」と宣言し、ただサンヘドリンが扇動した群衆をなだめるため、そして欲求不満のたまりきった群集に格好の見世物を提供してストレスを発散させるという治安上の理由だけで、イエスに対する十字架刑を決定します。

昔も今もかわりなく

  そこからは、軍事的に強い立場にいる大国の兵士が、占領地の人民を好きなように、いたぶれるだけいたぶるという図式どおりです。
  ただでさえ、占領地の人間を見下し、あるいは危険視している占領軍の軍人たちが、現地の人間を、上官の命令というお墨付きで、思い切り痛めつけて良いというのですから、腕が鳴ります。
  聖書の記事だけで読めば簡単な内容です。
マルコによる福音書15章15節には、「そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」と簡単に1〜2行だけ書いてあります。それだけでは具体的にイメージがわいてこない。
  メル・ギブスンはその数々のアクション映画を撮ってきた腕前で、見事に映像にしてくれました。イエスは手足の自由を奪われたまま、鈎針のついた鞭で、何度も何度も背中の皮膚を破り、引き裂かれます。鞭を振り下ろすローマ軍の兵士たちも、まるで激しいスポーツでストレスを解消するかのように笑いながら、一人の囚人の背中を、原形をとどめないほどに鞭打ちます。
  鞭打ちの最後には、肋骨の周りの肉を剥ぎ取られながら、血と脂にまみれてもだえ苦しんでいる肉の塊という画面になります。
  また、聖書には
「そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また、何度も葦の棒で頭をたたき、唾をはきかけ、ひざまずいて拝んだりした」(マルコによる福音書15章17−19節)とありますが、私は映像で観て初めて、棘だらけの茨の冠を頭にはめられて、その頭を何度も棒でたたくということの痛ましさを理解しました。
  そして十字架です……。裸に剥かれ、両手両足をクギで打ち抜かれ、木に固定され、飛び出た分のクギの先端をカンカンと打ち曲げて固定するところまでリアルでした。
  そして十字架は縦に起こされ、地面の穴にズンと入れられて立てられ、出血多量と呼吸困難で数時間後には絶命するまで、そのまま放置されます。その苦しみの中で、となりの囚人もカラスに生きたまま体を食われるという場面も登場します。
  しかし、これは2000年前に起こった1回きりの特殊な出来事ではないのです。イエスだけに起こった出来事でもありません。この時代にはこういう処刑が、軍事大国の命令で、現地の人間への見せしめに使うために行われていたのです。
  そして、軍事大国が占領先・派遣先で現地の人間に何をするか、という面から見れば、具体的な方法などは違っていたとしても、本質的にはなんら変わっていないのではないでしょうか。
  昔も今も変わりなく……、政治的に弱い者は痛めつけられるということ。そのことをメル・ギブスンの『パッション』は思い起こさせてくれるがゆえに、私はメル・ギブスンの『パッション』を(ギブスンご本人が望んだ賞賛とは違っているかも知れませんが)評価したいのです。

今「パッション」を受けている人びと

  映画はしょせん映画です。作り物の世界です。しかし、いままで何度となくイエス・キリストの映画が作られてきた中で、メル・ギブスンはもっとも残酷なイエス受難を描いたと思います。
  作り物であれだけ、よくやった。
  なぜなら、私たちは現在、もっと残酷な作り物でないものを見ることができるからです。
  たとえば、いまイラクでは何が起こっているか。私は最近それを映像資料で観る機会がありました。
  いまイラクでは爆撃だけでなく地上戦でも劣化ウラン弾が使われ、国全体に放射能がばらまかれています。
  こども病院に限らずどこの病院でも、多くのベッドには子どもが横たわっています。被曝者の被害は、子どものほうがひどく出ます。
  あらゆる子どもが、手指のない障害を負って生まれてきたり、もとは可憐で美しかった少女が、いまは眼球が腫れ上がって直径10センチ近くなった両目を顔の上に乗せて横たわっています。
  脳腫瘍で頭が膨張してしまった子、白血病の末期症状で、腹水がまるで妊婦さんのように膨れ上がってしまった子ども。
  それらは作り物ではなく、現実です。
  地獄がどこにあるかと聞かれたら、今ここが地獄だと言いたくなるような現実がこの地上でじっさいに繰り広げられています。
  その地獄で作業をしてこいと命じられた日本人もいます。今回サマーワに派遣され、帰ってくる日本人自衛官らも、少なからず被曝しています。度合いにもよるでしょうが、これから日本でも被曝の被害が明らかになってきたとき、過去に唯一核兵器を実戦投下されたことのある、この国の政府は何をしてくれるでしょうか。何もしてくれない、手の施しようがないのです。むしろ積極的に被曝する地域へと継続的に兵士を送る計画を練っているほどなのです。
  日本は60年前に2発の実戦投下の核兵器によって被曝しました。今度は2度目の被曝被害者がじわじわと増えてくるでしょう。
  そして、おそらくイラクという国は、今後数十年にわたって、たいへん国力が衰退するでしょう。放射能を被曝し続けることによって、ひょっとしたら国そのものが機能を果たさなくなり、壊滅するのではないでしょうか。
  アメリカその他の軍隊で死んだ者は2000人以上に達したといいますが、イラク人の死者は推定で10万人を超えています。
  アメリカがイラクに攻撃をする前は、イラク人の死亡原因の第1位は心筋梗塞だったそうですが、現在のイラク人の死亡原因第1位は暴力によるものだそうです。その暴力の多くは米軍からの銃撃や、空爆です。
  そしてイラクの未来を担う子どもたちは放射能で汚染されて、長生きをできる子はほとんどいないのです。イラクという国は滅びるかも知れません。

イエス受難の意味

  私は『パッション』のDVDを買いました。しかし、二度目を観るには勇気が要る映画です。
  イラクの子どもたちが置かれた状況をおさめたビデオも手元にあります。やはり、二度目を観るには勇気が要ります。しかも、こちらは現実なのです。
  二度と観るのには勇気が必要なほど、軍事大国に占領された国の人間がどんな扱われ方をするのかを描ききった、という点で、『パッション』という映画には価値があります。
そして私たちがもっとも肝に銘じなければならないことは、昔も今も同じように軍事大国によって最大限残虐な暴力がふるわれているということです。
  そして、イエスはその暴力の被害者なのだ、ということです。
  私たちが「いま」現代の現実の世界で、その暴力の被害者を放置しているのなら、たとえばタイムマシンで「むかし」にかえってイエスの最期を目の当たりにしたところで、やはり何もできずにイエスに加えられる暴力を放置してしまうでしょう。きっとそうです。
  受難節は、それをしっかりと認識し、ものを考える期間にしないと何の意味もないだろうと思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日も赦されて生を得ていますことを感謝いたします。
  あなたの御子イエスがこの世において苦しい、たいへんな痛みを受けられたことを覚える受難節がやってまいります。
  その苦しみと本質的に同じ苦しみを現在も地上で受けている人びとのことを思い、本当に何もできていない私たちの罪深さを悔います。
  どうかできることを見つける勇気をお与え下さい。
  主の御名によって祈ります。
  アーメン。

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