愛をもってこれを貫く

2006年7月29日(土) キリスト教学校教育同盟 第50回事務職員夏期学校 第1日目 夕礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:コリントの信徒への手紙一 12章31節b〜13章13節 (新共同訳・新約)

  そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしの何の益もない。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
  愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
  それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

キリスト教学校で働くということ

  こんばんは。この静かな夕べ、みなさんと共に礼拝を守れます恵みを心から感謝したいと思います。
  さて、今回の夏期学校の主題として、「キリスト教学校で働くとは?」という言葉が掲げられています。
  ここにいらっしゃるみなさんの中には、もちろんキリスト教の信徒の方もいらっしゃるでしょうが、そうでない人のほうがはるかに多いとお聞きしています。キリスト教学校で働いてはいるけれども、キリスト教のことはよくわからない、という感覚をお持ちの方のほうが、はるかに多くいらっしゃるようです。
  しかし、わからないながらも私たちは一緒にキリスト教学校ですでに働いています。
  「キリスト教学校で働く」とはどういうことなのでしょうか。
  実は私も、もともとクリスチャンではありませんでした。高校2年生のときに洗礼は受けましたが、クリスチャンのお家で育った人から見れば17年間遅れているわけですし、キリスト教の世界はとにかく広い。多種多様で「すべてのことがキリスト教に含まれている」と言われるほどです。知れば知るほど疑問がわきます。
  要するに、キリスト教とはなんなんでしょうか?

愛をもってこれを貫く

  ここでは、誠に勝手ながら私が属している学校である同志社に伝わるお話を引用させていただきます。同志社の創立者は新島襄(にいじま・じょう)というひとなのですが、この人が「キリスト教とは何かと問えば、愛をもってこれを貫くということにつきる」という言葉を残しています。
  「愛をもってこれを貫く」。
  言葉としては単純明快ですが、それでは「愛」とは何でしょうか。
  愛という言葉は日本語ではたいへん意味が広く、いろんな用途に使われます。誰かのために本当に役立つことを、他の誰に顧みられることもなく尽くし続ける奉仕のことを「愛」の行為と呼ぶ場合もあれば、性的な内容をいやらしい意味で話すときにも「愛」という言葉は使われます。
  英語で"love"と言っても同じことで、やはり崇高な意味から、いやらしい意味まで、あまりにも幅広く、とらえどころがありません。
  キリスト教で重んじられている「愛」とは一体どういう意味なのでしょうか。
  キリスト教の正典、特に新約聖書はもともとはギリシア語で書かれています。ですからギリシア語で「愛」を表すとどうなるでしょうか。実はギリシア語では日本語で「愛」にあたる言葉は12種類ほどあるそうです。ですから、日本語よりも「愛」についてのとらえ方がきめ細やかであると言えそうです。
  その中で、キリスト教で最も貴い「愛」とされているのは、ギリシア語で「アガペー」という言葉で表される「愛」です。「アガペー」という言葉をみなさんもお聞きになったことがあるかも知れません。

アガペーの愛

  「アガペー」の愛がどんな愛であるかをわかりやすくするために、よく比較のために引き合いに出される言葉が「エロース」の愛です。
  「エロース」の愛は、自分の気に入ったものや自分が美しいと思ったものを好きになる愛。自分にとって大切なものをかわいがり、いたわる愛です。しかし厳しい見方をすれば、それは自己愛の裏返しであり、煩悩・執着に転じる可能性もある愛であると言えます。
  恋愛の多くは「エロース」の愛です。また家族を愛する愛、夫婦の愛もやはり「エロース」です。自分にとって大切な者を、大切な者として扱う「エロース」。ですから「エロース」だからいけないということはありません。「エロース」も人間にとっては大切で、なくてはならない愛の種類です。
  しかし、「アガペー」の愛は「エロース」とは対照的です。
  相手が自分の気に入っているかどうかとは関係なく、自分にとって大切な存在であるかどうかとも関係なく、ただそこにいる相手をありのままに受け入れ、その人のために尽くす愛。その愛が報われるかどうかには執着しない、たとえ自分にとってその愛が徒労のように思えたとしても、それが相手にとって本当によいものだと信じるのならば、恐れずにそれを与えてゆく。それが「アガペー」の愛です。
  「愛をもってこれを貫く」とは、すなわち「アガペーをもってこれを貫く」。「アガペー」をもって、私たちは教育の仕事をするのだということなのであります。
  しかし、そうは言っても、この「アガペー」の愛を完全に実行することは、私たち人間にはたいへん難しいことです。
  私たちは、たとえ相手のために、誰かのために、と思っていても、どこかで自分の喜びの大きさにしたがって人を愛する程度を変えてしまいがちなものですし、自分にとって気に入らない相手を愛することなどなかなかできるものではありません。誰に対しても同じように愛をもって接するなど、相当の偽善者か八方美人でないとできることではないように感じることもあります。
  それに――これはうちの生徒にもよく言われることなんですが、たとえば世界史の授業を受けますと、キリスト教会がいかに血なまぐさい戦争、暴力を行ってきたか、いやというほど叩き込まれます。すると、「どこが愛の宗教やねん。人殺し宗教やないか」と言いたくもなるわけです。それを受けてこちらも「そうやなー。まだまだキリスト教はイエスの言うてたところまで行けてないんやなー」と答えます。
  しかし、それでも、あえてキリスト教は愛(アガペー)の宗教だという。それは何故なのか。
  それは、「アガペー」とは私たち人間への命令ではなく、私たち人間に対する「問いかけ」だからではないか、と思うのです。

命令ではなく問い

  それは強制的な命令ではなく、「問いかけ」なんです。
  「あなたは今日一日を『アガペー』の愛でもって過ごしましたか?」という問いです。
  これは命令ではありませんので、できなかったからといって責められるわけでもありませんし、罰も当たりません。しかし、私たちの仕事を新しい可能性、新しい地平線に持っていってくれる、私たちをもう一段高いところに成長させてくれる「問いかけ」です。キリスト教は、命令する宗教と言うよりは問いを与えてくれる宗教だと言えるかも知れません。
  あなたは今日一日を「アガペー」の愛で貫きましたか? あらゆることに愛をこめて働きましたか? 特に相手のある仕事、自分の仕事の結果を受け取る誰かがいる仕事において、きちんとその人に対する愛をこめて仕事をしましたか? 
  自分に仕事を頼んだ人や、自分の後の工程を担当する職員に対して、あるいは、最終的にわたしたちの仕事の結果を受け取る生徒たち一人ひとりに対して、愛をこめて仕事をしましたか……?

信仰よりも愛

  キリスト教というのは不思議な宗教でありまして、この世で一番大切なものは、「信仰」と「希望」と「愛」だと聖書に書いてあります。しかし、その3つの中であえて何が重要であるのかと問われると、実は「信仰」ではなく「愛」。「アガペー」の愛のほうが大事だ、とちゃんと聖書に書いてあるのですね。宗教ならば「信仰」が一番大事だと言うのが普通なのかも知れませんが、実はキリスト教にとって一番大切なのは「信仰」よりも「愛」なのです。
  山を移すほどの信仰――そんな信仰があるのかというくらいすごい信仰のことですね――そんなすごい信仰があっても、愛がなければ何の意味もない、と聖書には書いてあります。
  これは、私たちが勤めているキリスト教学校にとってはとても大切な考え方です。というのも、最初に申し上げましたように、私たちの職場にはキリスト教の信徒もいれば信徒でない者もいます。実はキリスト教学校とは言っているけれども、キリスト者:クリスチャンではない人のほうが学校の中で多数派であるという学校のほうが多いのです。
  信仰が最も大切なことだという線引きをされてしまうなら、キリスト者とキリスト者でない者がいっしょに仕事をするということは困難です。しかし、そうではなく、「愛:アガペー」をもって仕事をすることは、キリスト者とキリスト者でないとに関わらず、わたしたちみんなが同じように、平等に問われているのです。
  そして、キリスト教信仰を持つ者も、キリスト教信仰を持たない者も、生徒への愛、教職員お互いに対する愛においては一致し、協力することができます。愛をもって共に働くというところで一致できるのです。
  「愛:アガペーをもってこれを貫く」ということを問われていること、それがキリスト教学校で働くということのしるしです。これを常にご自身への問いとして、心に刻んでいただければ、と思います。
  お祈りをいたします。

祈り

  恵み深い、愛に満ちた、神さま。
  今日、私たちはこの東山荘に集まり、あなたのもとにこの夏期学校の研修を行うことができます恵みを、心から感謝いたします。
  私たちは、キリスト者である者も、キリスト者ではない者も、職員も教員も、共に同じ課題を担い合う者として、子どもたちの前に押し出されています。
  どうか、あなたが問いかけてくるアガペーの問いに、昨日よりも今日、今日よりも明日、よき応答ができる人間となれるよう、私たちを成長させ、導いてくださいませ。
  この祈りを、イエス・キリストの御名によって、お聴き下さい。
  アーメン。

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