心のありか

2005年6月27日(月)同志社香里中学校ショート礼拝奨励

説教時間:約9分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
小チャペル(ショート・メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:創世記2章4節b−7節(新共同訳)

  主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
  しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

心のありか

  みなさんは、「心」というものがどこにあるかわかりますか?
  脳にあると思いますか? 胸に宿っていると思いますか? たしかに、うれしいことがあると「胸が躍るような気がする」とか、悲しいことがあると「胸がふさぐような気がする」とか「胸が痛む」とか言ったりします。
  昔の人たちは、心は胸にあると考えていたようで、たとえば英語でも、「ハート(heart)」という言葉は、心を指すときもあれば、心臓のことを指すときもあります。
  最近では脳が意識の働きにどのように関わっているのかの研究がかなり進んで来ていて、われわれがものを考えたり、感じたり、思ったりすることのかなり多くは脳で行なわれていることがわかってきました。
  けれども、たとえば臓器移植で、人の心臓をもらったり、人の肝臓をもらったり、そういうことをすると、その心臓などの臓器を提供してくれた人の心の一部が、自分のなかに入ってきたりする、ということも報告されています。
  脳が入れ替わったわけでもないのに、食べ物の好みが変わってしまったり、ものの考え方のくせが変わってしまったり、性格が変わってしまった、その臓器を持っていた人の性格の一部が入り込んできたりします。
  ということは、「心」というものは、たしかに脳がたくさんの部分を支配しているけれども、実は、脳だけでなくて、他の臓器、体中のあちらこちらにも「心」の内容は分散していて、「ここに人間の心がある」という風に、一箇所には特定できないのではないか、と言うこともできるわけです。
  そういうわけで、実は現代の最新の医学でも、「心がどこにあるか」ということは完全に解明されていないし、実は心の全体が、体の全身に宿っているのではないか、という考え方もされているくらいです。
  ですから、人の心と体は密接につながりあっています。
  もし誰かの心を深く傷つけるようなことをすると、傷つけられた人は体の調子までおかしくなってしまうことがあります。また、逆に体を痛めつけるようなことをずっとされていると、精神状態までおかしくなることがあります。
  あるいは反対に、体を健康に鍛えたり、整えたりすることで、精神的にも健康になったりすることがあります。
  このように礼拝などで、「姿勢を正して、心を静めましょう」と言っているのも、体の姿勢と、心の姿勢が密接につながりあっているからです。体の姿勢を整え、静かな状態にすることで、心も落ち着いて欲しいからです。

息とエネルギー

  人間が死ぬとき、その人間の重さは少しだけ軽くなるといいます。
  欧米の病院などでは、死に際にいる人のベッドにも秤をつけていて、重さを量っていたりするところもけっこうあるらしいと聞いています。
  そして、人が死んだ瞬間に、ほんのすこし、21グラムほど体重が軽くなるらしいです。それが生命の重さです。
  質量というのは、必ずエネルギーに変換されますから、重さが減ったということは、それに相当するだけのエネルギーが体の中から外に出て散っていったということになります。それはなくなったわけではなくて、世界というか宇宙の大きなエネルギーの流れのなかに吸収されて散らばっていったわけですね。
  昔の人たちは、この世のエネルギーの量は一定で変わらない、という法則は知りませんでしたが、人間の体のなかに命のエネルギーが吹き込まれている間は人間は生きていて、死ぬときにはそのエネルギーが出て行く。そのことを、今日の聖書の箇所のように、「神さまが人の鼻に息を吹きいれて、それで人は生きるものになった」という風に書いたのですね。そして、死ぬときには「息を引き取る」と言いますが、「息が引き取られて、体から出てゆく」という風に表現しました。
  エネルギーという言葉も考え方もなかった時代なので、「息」という言葉で表現しましたが、とにかく人間ひとりひとりの体の全身に、命と心のエネルギーが吹き込まれて宿っているという事を言いたかったという点では同じです。
  わたしたちはお互いに暴力をふるったり、人の心を傷つけるようなことをしたりすることがあります。こんなことをここで話しているぼく自身も、自分でも気づかないうちに人を傷つけ、相手の命にダメージを与えていることがあります。しかし、それはよくないことだということはわかるので、とても反省をします。
  人の体に痛みを与えることは、心を傷つけることと同じです。人の心を傷つけるような言葉をあびせかけることは、相手の心を落ち込ませるだけではなく、体の健康をも失わせることがあります。
  互いにそのような、人の痛みをちゃんと感じ取れるような人になっていってほしいし、ぼくもそういう自分になりたいと目指しています。
  最後にお祈りをいたします。どうぞ目を閉じてください。

祈り

  愛する天の御神さま。
  わたしたちひとりひとりに、大切な一度かぎりの命を与えてくださって、ありがとうございます。
  わたしたちが、互いに自分の命を傷つけ合っていることがありましたら、どうかその罪に気づかせて、改めさせてください。
  しかし、わたしたちが互いの罪を責め合うことがありませんように、どうか大人の心を与えてください。
  願わくば、わたしたちがお互いにお互いの命を尊重しあって毎日の生活を送ってゆくことができますように。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

小チャペル入口(ショートメッセージのライブラリ)に戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール