終わり、祈り、始まり

2004年1月7日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・新年祈祷会奨励

説教時間:約18分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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■聖書:ペトロの手紙T 4章7〜11節(新共同訳・新約・p.433)

  万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を謹んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

限界からの救い

  今日はちょっと抽象的な話になるかもしれません。
  わたし自身の、これまでの長いのか短いのかわからない人生――といっても、ここにいらっしゃるみなさんは大方わたしよりも人生の先輩の方々ばかりですが(笑)――とにかく今までの人生の経験から言えば、神さまはかならず、自分が限界状況に陥ってしまったときには、突破口を開いてくださる、という感覚があります。
  全てに行き詰まって途方にくれ、動きようがなくなってしまったときには、どこに不思議な偶然の一致でもって、どこに歩み出せばよいかを示してくれますし、手に負えないほどの人生の問題を抱えすぎて、混乱に陥っているときには、有無を言わせぬ介入をして、整理をしてくださいます。
  まったく希望がないと思っている状況でも、予想もしていなかった小さな光を、そっと示してくださったりするような、神さまの不思議なわざを経験することもあります。
  わたしは自分の個人の人生でもそういうことを感じながら生きていますし、それは個人の人生と言いながらも、わたしという個人はまったく社会から孤立して生きているのではなく、常に他の人と関わりながら生きているわけです。ですから、神さまは個人への働きかけだけではなく、何人もの人間が関わりあう社会に影響を及ぼす方なのだ、ということも言えると思います。
  わたし自身を含む小さな社会において、神の御力が働いていることを感じるのですから、わたしはもっと大きな社会においても、神の御力が働く可能性を信じたいと思います。つまり、社会が限界状況に陥ったとき、神さまはそれを救ってくださるという可能性です。
  もちろんそれには条件があります。
  その条件とは「祈り」です。

祈りと働き

  「祈り」があるところに、神の「応答」があります。「祈り」のないところでは、人は神を心に受け入れることができませんから、人は自ら神から離れ、神から孤立し、虚しい人生を歩まざるを得なくなります。そのような状態では、何が神の働きであるのか感じることも、理解することもできないまま、自分だけを頼りに道を歩み続けることになります。それでは個人も社会も変わることができません。
  人間の「祈り」があって、神の「応答」があり、神の「応答」としての人間世界への「介入」があって、人間がそれにまた「応答」する。そのような神さまと人間の働き合いがなければ、個人も社会もよくなりません。
  そういうわけで、わたしたちに今必要なのは、祈ることと働くことだと思います。
  ただ祈ればよい、祈りだけでよい、というのは間違いです。それでは現実からの逃げになります。しかし、働くだけでは、人間の理想や信念ばかりが先行し、本当に神さまから見て全ての人にとってよいことは何なのかということに気づこうとする謙虚な思いが失われます。神さまへの祈りと、その祈りに裏付けられた働きが必要となります。
  もちろん祈りも、ひとつの働きです。他の何の働きもできないときでも、祈ることができます。だから、人間はいつでもどんなときでも祈りという方法で神さまのために働くことができます。神さまの助けを願い、神さまの介入を願うという方法で、この世を変える働きに参加することができます。
  しかし、祈りというのは、最低限人間にできる働きであり、最低限でよいというわけではありません。わたしたちは、何もできないときには、祈りという働きが与えられていることを感謝し、何か少しでもできるときには、それができることを感謝しながら、祈りつつ、そのできることをすることが望ましいと思います。

二つの「終わり」(1)−限界

  本日与えられました聖書の言葉には、「万物の終わりが迫っています」(ペトロの手紙T 4章7節)と記されています。
  この手紙を書いた人は、ローマ帝国や当時のユダヤ教など、キリスト教徒を迫害する勢力が、自分たちを苦しめ続けているこの世の状況が終わることを思い描いています。しかし、それは単純な苦しみの終わりではありません。
  万物が終わってしまうということは、いかに苦しくても、そこでとにかく自分が生きている基盤ももろともに崩れてしまうということですから、自分自身もどうなってしまうかわからないわけです。
  「終わり:the end」というのは、単に何かの出来事が「終わる」ということだけではなく、たとえば並んでいる本の「端っこ」にあるものを"bookend"と言うように、「端っこ」つまり転じて「限界」という意味も含んでいます。
  よく我々、関西弁で冗談で「もう終わってまっせ」とか「終わってるで」とか言うことがありますが、これは標準語で「もう限界やで。これ以上は無理やで」という意味を含んでいます。あ、「限界『やで』」はまだ関西弁でしたね(笑)。「限界ですよ」と。
  「終わりが迫っている」とは、限界状況、もう抱えきれないほどの問題が飽和状態でひしめき合い、全てが混乱し、多くの人が傷つき、救いを見失っている状況、人間の力ではもはや解決できそうにない状況、まったく未来の見えないが故に、まさに「終わってる」状況。そんな終わりが来ているということです。
  もしも本当に終わってしまえば、苦しみも終わるかもしれませんが、苦しみの中で生きている自分もどうなってしまうか、わかりません。

二つの「終わり」(2)−完成

  「終わり」という言葉には、もう一つの意味があります。
  「完成」、または「完結」です。
  何かひとつの仕事が終わったとき、あるいは作品を創り上げたとき、"It's finished"という時があります。"finished"というのは、単に終わりではなく、完成したという意味があるからです。
  人間の企てや営みが限界状況に陥り、人間の目には苦しみしか映らなくなってしまったとしても、そこには隠された神の意図と計画があります。そして人間は人間の自己中心的な意図を棄てて、祈りに未来をゆだねたとき、神はそれを終わらせてくださり、祈りに応えて、もっとも望ましい形、つまり「完成」に導いてくださいます。
  しかし、その完成の姿は、人間には予想もつきません。だからこそなおさら、祈りが欠かせないものとなります。祈りによって、人間は神の計画にすべてをゆだね、自分の予想のつかない結果も感謝して受け入れる心の静けさを手に入れることができます。
  そして、祈りによって、神の用意してくださる「終わり」すなわち「完成」を、感謝をもって受け入れることによって、人間は新しい状況における新しい生き方を、喜びをもって「始める」ことができます。
  すなわち、神さまの与えてくださる「終わり」は、同時に「始まり」でもあります。

最善の始まりを望みつつ

  わたしたちを取り囲む状況が、まさに「終わり」の様相をあらわしているとき、わたしたちにできることは、今日読んだ聖書に書いてあるとおり、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」(ペトロの手紙T 4章7〜8節)ということに尽きると思います。
  そしてそれぞれの場所で、できる働きを神さまのために最善を尽くして行うことではないかと思います。
  神さまが人間の限界状況を、もっともよい形で終わらせてくださり、そして完成と、新しい始まりに導いてくださることを信じ、この新しい一年も祈りつつ、働いてゆきたいと思います。
  最後にもう一度、本日の聖書のことばを読み、そして祈って終わりたいと思います。
  
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を謹んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」(ペトロの手紙T 4章7〜11節)
  祈ります。

祈り

  心から愛する御神さま。
  わたしたちに与えられた苦しみ、わたしたちに与えられた喜び、矛盾に満ちた世の出来事、人との出会い、すべてを感謝いたします。
  どうぞ、すべてをあなたの御心のままに導いてください。わたしたちにあなたの御心に気づかせてください。祈りの心を与えてください。あなたのために働かせてください。
  新しい年、起きている時も眠っている時も、すべてがあなたのために献げるによい時として過ごすことができますように。
  この祈りを、心から敬愛し、信頼する主、イエス・キリストの御名を通して、お聴きください。
  アーメン。

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