ひとり、祈る

2004年7月25日(日)関西地区キリスト教学校若手教師「祈りの会」ショート礼拝奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:マタイによる福音書6章5〜15節

  「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
  だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
  また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
  だから、こう祈りなさい。
  『天におられるわたしたちの父よ、
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  御心が行われますように、
    天におけるように地の上にも。
  わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
  わたしたちの負い目を赦してください、
    わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
  わたしたちを誘惑に遭わせず、
    悪い者から救ってください。』
  もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
  しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

祈りがなければ

  この集まりは「祈りの会」あるいは「お祈り会」と呼ばれています。
  みんなで久しぶりに会って、しゃべって、飲んで、食べて、話す交わりで、そこにこの会の喜びがあるのですが、しかし、そんなわれわれが、根底では何でつながっているのかというと、それは、互いに祈りあう……一緒に祈ったり、離れていても仲間のことを覚えて祈るということができるような人のつながりなんだ、ということですね。だからこそ「お祈り会」と呼ばれているわけです。ですから、一度「祈り」について、きちんとお話したいなと思っていました。
  祈りというのは、別にクリスチャンだけのものではないと思います。クリスチャンではなくても、祈りというのはあるはずです。
  祈りというのは、一言で言えば、その人の心の中の誰も知らないいちばん深い奥底の思いを言葉に表したものです。
  ですから、祈ることを知らない人は、偽りなく人を愛することなどできないと思います。誰も知らない自分の心の底から、誰にも見られていない場所で誰かのために祈るということができなければ、どんなにきれいな言葉や、どんなにすばらしい奉仕を見えるところで行ったところで、本心としての愛の心が伴っていないことになります。
  また、祈りは、自分の心底の思いを言葉にするわけですが、それを言葉にして初めて、自分の本心に気づくということもあります。ですから、祈りがなければ、自分が本当のところ何をやっているのだろうかと自分を見つめなおすこともないまま日々を過ごすことになります。
  そして、もし祈ろうとする心がなければ、自分にとって、人にとって、本当に大切なものはなんだろうかと求める気持ちも失ってしまうし、その気持ちを失ったことに気づくこともできないでしょう。

神はカウンセラー

  今日の聖書の箇所は、イエスが祈りについて教えた場面ですが、イエスは一人で祈れ、そして短く祈れ、と言いました。
  私のような牧師や、あるいはワーシップ・リーダー(礼拝指導者)などの経験者は特にそういう過ちを犯す可能性が高いので気をつけないといけないのですが、往々にしてみんなの前で祈る祈りは、神にささげるよりも人に聞かせるための祈りになりがちで、だんだんと美しい言葉に酔ったり、格好をつけた調子の言い回しになったりするようになりがちなんですね。
  でも、イエスによれば、祈りというのは、独りで祈るのが基本だということらしい。
  独りで、自分の飾らない言葉で祈る。飾ったって神さまは全てをお見通しなのだから、飾る意味がないですね。
  そういうことを言うと今度は、「神さまは全てをお見通しなんやったら、自分でわざわざ祈る必要はないやん」と考える人もいるかも知れません。しかし、祈りというのは自分に語る言葉でもあるんですね。
  じっさい、私たちは自分の真の姿を、わかっているようで案外わかっていないものです。たとえば、なにかじっさい願い事を祈ってみてください。一人ぼっちのときに、願い事を口に出して祈ってみる。すると、たとえば、きれいごとのいわゆる「エエ格好しい」の願い事は、願っているうちに自分自身がしんどくなるときがあります。
  たとえば……「神さま、あの学校で問題を起こし、明日教員会議にかけられようとしているあの生徒が、学校を辞めさせられることのないように、どうか守ってください。あの子を向き合う力を私たちにください。あの子のために、私にできることを何でもさせてください」と祈ったとします。
  この願いそのものが悪いことはないです。とっても立派なことを祈っています。しかしわたしなんかは悪い人間ですから、祈っているうちに別の思いが表れてくることがあるんですね。
  「本当はしんどいんだけどなー」、「他の子への影響もあるしなぁ」、「うちの学校にあの子を育てる教育力はないよ」などなど、ゆっくり祈ってると、そういう他の思いも出てくる。
  生徒のことだけではなくて、教員間でもいろいろありますよね。「神さま、どうかあの先生を見守り、支えてあげてください」、と、そう祈りたいけれども、その先輩の先生が顔を合わせるたびにセクシュアル・ハラスメントまがいの言動をあびせてくる。あるいはこちらが男性だとパワー・ハラスメントをしかけてくる。神さまには「全ての人に恵みを」と祈りたいけれども、思わず「神さま、彼を罰してください」と祈りたくなっちゃったりなんかもするわけです。
  そんな時、そういう自分の醜い本心を否定しないことが大事だと思うんです。祈っているうちに、自分が自分の人生や自分を取り囲む人間関係において、「本当は」何を感じ、何を望んでいるのかがよく見えてくるときがある。そのことに気づかせてもらえることを喜んだほうがいいです。そのためにも、一人で神という偉大なカウンセラーに思いを打ち明ける時間を持ったほうがいいです。

祈りによるメディテーション

  あるいは、たとえば……「神さま、わたしは祈っているうちに、自分もあの生徒と対応していて、しんどいと思っていることに気づきました。逃げ出したいと思うことも正直あります。神さま、このわたしの力のなさをどうか赦してください。どうか疲れを癒してください。力のないわたしにできることをどうか教えてください。あるいはわたしがしなくてよいこと、しないほうがよいことを御心でしたら教えてください」と祈ることもできます。
  ハラスメントをしかけてくる職場の上司のことについても、正直に思いを神にうちあけたほうがいいです。「わたしは彼に腹を立てています。時折憎しみさえ抱きます。神さま、人を憎むこの私を赦してください。しかし、あなたは私のこころをご存知です。どうか、この怒りをわかってください。わたしはどうしたらよいでしょうか。はっきりと上司に怒りをぶつけるべきでしょうか。それとも泣き寝入りすればいいのでしょうか。それとも、なにか上手な避け方や、意思表示の仕方があるのでしょうか。どうか神さま、わたしに方法を教えてください。わたしに相談相手を与えてください。具体的に自分を守るための行動をする勇気を与えてください」と祈ることもできます。祈らないと勇気もでません。
  自分の弱さや自分の欠点に気づき、できることとできないこと、また、するべきこととしないべきことがあるのだと気づくこと。
  ラインホールド・ニーバーという有名な神学者の祈り……「セレニティ・プレイヤー」と呼ばれたりもする祈りですが、
「変えるべきことを変える勇気と、変えられないものを受け入れる心の落ち着きと、そしてそれらを見分ける知恵を与えてください」を願う気持ちになること。これは祈りにおける一種の瞑想ですね。
  そして、そんな自分の本当のホンネの願いを神さまにはっきりと申し上げて「御心でしたら、かなえてください」と祈ってしまうことです。かなえるかどうかは神の判断なのですから、ダメ元でいいから言葉に出して願うことです。そして祈ってしまったら、神にまかせ、流れにまかせて生きてゆけば、まぁ何とかなります。

主の祈りによせて

  今日読んだ聖書の箇所では、祈りのサンプルとしてイエスによって「主の祈り」が示されています。たいへんシンプルで必要最低限のことしか言いません。神さまにまかせた、肩に力の入ってない、リラックスした生き方が表現されています。

「朝の祈り」
  子らに残すことばはひとつ わが家は
  朝な夕なに祈りする家
林 竹治郎(1906)北海道道立美術館蔵
Japan Leprosy Mission Postcard より転写


  まず最初に、「御名」「御国」「御心」と、神への讃美が3つ繰り返されます。自分のことがさきではありません。人間がどうあがいたって、運命は運命のなすべきことを容赦なくなしてゆくのだからね、「神の御心が行われますように」と最初から運命を明け渡している。
  そして、そのあとで人間のことが3つ出てきます。
  まず最初にあるのは食べ物のこと。われわれは何より生活してゆかなければいけない。
  次に罪のこと。他人の罪によって傷つけられることはしょっちゅうあるけれども、神の目から見れば、自分も同じくらい他人を傷つけていたりするものなのですね。だから、他人を赦すようにします。わたしも赦してください、ということになります。
  そして試練のこと。ラクで、面白くて、おかしくてたまらない人生などありませんね。それどころか我々は、厳しい課題や、解決できない袋小路や、逃げ場のない悲しみに追い込まれることが何度もあります。それを、苦しみ、悲しんだまま、生き続けなければならないときもあるし、時には良心の自由を守るために、戦いたくもない相手と戦わねばならないこともある。できるなら、どうかそのような試練に私たちをあわせないで下さい、と祈る。
  なんでこんな願い事をするのかと言うと、じっさいそういう苦労を昔の人も、イエス自身もよくしてきたからですね。じっさいに起こりがちな犯罪を対象に法律があるのと同じように、そこにありがちな課題があるから祈りがあるわけです。
  世の中の大多数の人は、食べ物が手に入れるのに苦労します。だから神さまに「食べ物をください」と祈る。
  世の中の大多数の人が、人の罪に傷つき、自分も往々にして人を傷つけている。だから神さまに「わたしたちの罪を赦してください」と祈る。
  そしてじっさいにわたしたちの人生は、試練だらけだから、「どうかこれ以上試練を与えないで下さい」と祈る。
  しかし「主の祈り」は、最終的には「すべてはあなたのものなのだ」ということを謳って終わります。「すべて」の中には、もちろん私たち一人ひとりの人生も含まれています。「わたしもあなたのものです」という思いです。

「ひとりの祈り」から「みんなの祈り」へ

  ゴスペルの中には"My Life Is In Your Hands."という歌がありますけど、みなさん知っておられますか?
  "My Life Is In Your Hands."直訳すると「私の人生はあなたの手の中にある」。私の人生はあなたの手の中にあり、あなたの思いが注がれている、その中で私が生きている。私は一人ではない。だから私の生きている意味がある……。そういう安心した思いがここにあふれています。
  「主の祈り」の「すべては、かぎりなくなんじのものなればなり」という締めくくりは、そういう運命を神にまかせた安心感があらわれています。
  「神におまかせ」という主体性を放棄した信仰ではなくて、神はわたしのことを、わたしがグダグダと申し上げる前にご存知だ、という諦めと安心から出発する、ということですね。
  というわけで、今日は、祈りの基本は「一人の祈り」だということ。一人で神さまに向き合い、自分の真の姿を知ること。そして、その自分の真の姿は、実はすでに神が良く知っておられるのだということに気づくこと。そうした、神さまに自分の存在や人生を任せてゆくところから、改めて本当にリラックスした精神状態に至る、深い祈りに導かれるのだよということお話したつもりです。
  「一人の祈り」があって、そしてそれが集まりあって「みんなの祈り」があります。みんなの前だけで祈るのではなく、みんながひとりひとり自分だけの場所で、「一人の祈り」をささげてくれることを願っています。
  お話の終わりにわたしも祈ります。

祈り

  愛する天の神さま。
  今日もここに祈りの輪を共有する仲間を集めてくださり、心から感謝いたします。
  どうか一人ひとりの祈る力を強めてください。
  祈る力に合わせて自分を見つめる力を与えてください。
  祈る力に合わせて現実を見つめ、行動する勇気を与えてください。
  祈る力に合わせて、人を思いやり愛する力を与えてください。
  主の御名によってお願いいたします。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール