この方にわたしたちも罪を犯した

2003年4月16日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週早天祈祷会奨励

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の玄関に戻る

聖書:イザヤ書 42章18−25節(新共同訳・旧約・p.1129−1130)

  耳の聞こえない人よ、聞け。
  目の見えない人よ、よく見よ。
  わたしの僕ほど目のみえない者があろうか。
  わたしが遣わす者ほど
    耳の聞こえない者があろうか。
  わたしが信任を与えた者ほど
    目の見えない者。
  主の僕ほど目の見えない者があろうか。
  多くのことが目に映っても何も見えず
  耳が開いているのに、何も聞こえない。
  主はご自分の正しさゆえに
  教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
  この民は略奪され、奪われ
  皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。
  略奪に遭っても、助け出すものはなく
  奪われても、返せと言う者はない。
  あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。
  後の日のために注意して聞く者があるか。
  奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。
  それは主ではないか
    この方にわたしたちも罪を犯した。
  彼らは主の道に歩もうとせず
  その教えに聞き従おうとしなかった。
  主は燃える怒りを注ぎ出し
  激しい戦いを挑まれた。
  その炎に囲まれても、悟る者はなく
  火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。

失望

  イラク戦争は、米英軍の圧倒的な勝利と、フセイン政権の転覆が確実なものとなり、アメリカは早くも次の標的をシリアに向け、圧力をかける行動を起こしつつあります。
  今回の戦争では、アメリカもイラクも、両方の指導者が「神は自分たちの味方である」「神はかならず自分たちに勝利をもたらすであろう」と主張する様子が、報道され続けました。
  殊に、アメリカのブッシュ大統領は、アメリカ合同メソジスト教会の会員です。彼はキリスト教の聖書に手をおいて就任宣誓を行った大統領であるというだけでなく個人的にも、毎朝起床したらキリスト教の説教集にまず目を通す日課であるとか、ホワイトハウスで聖書研究会をやっているとか、そういうことがたびたび報じられる、信仰深き大統領として知られる人物です。
  そういうクリスチャン大統領が、自分たちの利益に都合の悪い国を「悪」であると決めつけ、その国の政権を転覆するための先制攻撃を命令する。その命令の結果、敵にも味方にも、どんなに数多くの大人や子どもの命が空爆や砲撃で奪われたとしても、その戦争は「悪」を滅ぼすための「正義」の戦争であり、「神は必ず勝利をもたらす」と演説でぶつことができる。
  そんな大統領の姿を、そして「神はアメリカを祝福する」とキリスト教の信徒たちが歌い祈る姿を、毎日シャワーのように報道で見せつけられ続け、私はいま一人のクリスチャンとして、ある種の失望というか脱力感に満ちた思いでおります。
  ブッシュ大統領が属する合同メソジスト教会は、大統領が決して教会の意見を代表しているわけではないということを明らかにしています。
  しかしそれでも、ニューヨークに留学している私の友人が、合同メソジスト教会の礼拝に出席してみたところでは、礼拝で用いるテキストはもっぱら旧約聖書が多く、祈りにおいても神がアメリカを守り、勝利をもたらすことを願う内容が多い、と報告してくれています。

旧約における悔い改め

  さて、旧約聖書には「神に選ばれた民」という自覚を持つイスラエル民族の戦争の歌がたくさんおさめられています。神ヤハウェは「万軍の主」であり、イスラエルを攻撃する者はヤハウェが必ず報復し、滅ぼされるというような内容が、これでもかというほど頻繁に出てきます。
  旧約聖書のこのような部分の記述だけを自分たちに都合よく読む限り、ブッシュ大統領やその取り巻きの牧師たちは、彼の命ずる戦争が聖書的にも信仰的にも正しいと思い込み続けることでしょう。
  しかし本当は、旧約聖書を記したイスラエル民族も、そうそう自分たちに都合のいいことばかりを書いているわけではありません。
  自分たちに都合のいい勝利のことを書いているのは、勝っている間です。奴隷にされていたエジプトを脱出する際に、エジプトの初子がみな殺されたとか、エジプトの軍隊が水にのまれたとか言って、ヤハウェを喜びたたえます。また、イスラエルがカナンの地に入植する際、先住民と一戦交えなければならなくなったとき、ヤハウェが敵を滅ぼされるぞ、とか、そういう時は威勢のいいことを言っています。
  しかし、そんな彼らも、紀元前586年、バビロニアによってエルサレムを陥落させられたときは、反省をせざるを得なくなります。常にヤハウェに守られて戦いを続けてきたイスラエルですが、このときばかりは、神殿を破壊され、国土を奪われ――「バビロン捕囚」と言いますが――バビロニア帝国に強制連行されて、民族存亡の危機にさらされました。
  その時、彼らは「ヤハウェがバビロニアの神に敗北したのだ」とは考えませんでした。その代わり、「ヤハウェが不信仰な我々を敵の手に渡したのだ」と考えました。たとえば預言者エレミヤは
「わたしは、顔をこの都――エルサレムのこと――に向けて災いをくだし、幸いを与えない、と主は言われる。この都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる」(エレミヤ書21章10節)という言葉を残しています。本日お読みしました聖書の箇所でも、「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか」(イザヤ書42章24節)という言葉にも、そのような信仰があらわれています。
  その時、彼らは、超越的な唯一の神、という考え方を身につけたのかも知れません。それまでは、民族と民族の戦いは神と神の戦いでした。しかし、このときから神は、ご自分の民が忠実でないときには敵国をも用いてご自分の民を罰する、つまり、自分の軍隊だけではなく、敵の軍隊をもコントロールしうる絶対的、普遍的な方なのだ、という考えに発展しているわけです。
  「もし自分たちが敗北したときは、それは主なる神が、敵を用いて我々を罰したのだ。それはわたしたちが神に背いた罰なのだ」と自らを悔いるこの信仰には、「神は自分たちの側にだけ味方してくれるはずだ」といった甘い思い込みや、「わたしたちは神の正義を代行して行なっているのだ」というような思い上がった自己絶対化はありません。
  「我々には神がついているから必ず勝利する」といった幼稚な楽観主義もここにはありません。むしろ、「わたしたちが正しく神の御心を行っていなければ、神はいつでもわたしたちを見捨てるだろう」という一種の謙虚さに似たものがあります。
  敗北、国土喪失、強制連行、民族崩壊の危機、その苦難を経験して、イスラエル民族は「私たちは常に神の御心にかなった生き方をしているだろうか」と自らを問い、「私たちは間違いを犯しうる存在だ」と自らをわきまえる、一種の謙虚さへと成長してゆく機会を得ることができたのであります。

信仰など何になる

  そういう意味で、自らの利益がまず中心にあり、それを武力をもってでも押し通す政策を、「神」の名を用いて正当化するブッシュ大統領および彼の言動に典型的に見られるキリスト教右派の信仰は、旧約聖書の見地から見ても、たいへん幼稚で未熟なものだと言えます。
  もちろんアメリカが謙虚になった時期はあったそうです。ベトナム戦争で泥沼の敗北を喫したときです。しかし、いまやアメリカは再び開き直っています。もっとも、ユダヤ人国家イスラエルでさえも、旧約聖書を正典と掲げ、あれだけ迫害と虐殺のホロコーストを経験しながらも、いまや世界有数の軍事大国となりパレスチナ人への虐殺を繰り返しているのですから、人間というのは歴史から何も学ばず、ただ聖書のような文書だけが残されてゆくものなのかもしれません。
  アメリカ大統領府のおかかえ牧師を永年やっているビリー・グラハムという有名人がいますが、この人はいったいベトナム戦争の泥沼で何を学んだのか、いったい聖書の何を読んでいるのか、私などにはさっぱりわかりません。
  彼らは「平和を実現するものは幸いである」という聖書の言葉を読んでも、「自分たちは平和をもたらすための戦争を行っている」と本気で自分たちの行為を正当化するのでしょう。そして、「武器を取る者は武器によって滅びる」という言葉を読んだところで、「だから大量破壊兵器を持つものは、我々の武力行使によって滅びなければならない」とでも解釈するのかもしれません。
  まったく、信仰とは何なのでしょうか? 信仰など何になるというのでしょうか?

神は私を見捨てた

  ブッシュ大統領の信仰も、フセイン大統領の信仰も、もはやどちらも信用することはできません。
  どちらも「神は我々を見捨てない。神は我々を祝福し、守り、勝利に導く」と言い続けます。しかし、私たちはそのような「信仰深い」人々の主張が、とんでもない血みどろの犠牲を生んでいることを知っています。こんな信仰は間違っている。こんな信仰など嘘っぱちだ。そう思うのです。
  私たちの手元にある聖書に残された唯一真実の記録は、イエスが十字架にかけられ、絶命する寸前にあげた叫び。すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのですか」という叫びです。
  いまも、死に続けている戦争犠牲者の人々は、「わたしたちは神に見捨てられている」と思っておられるはずです。空爆で吹き飛ばされ、体を引きちぎられ、市街戦で蜂の巣にされ、散り散りの血と肉に引きちぎられる民間人は、「誰もわたしたちを助けてくれない!」と叫んでいます。世界はわたしたちが死んでいくのを見ているだけで、誰も何もしてくれない。神さまだって助けてくれない。「神よ、なぜわたしを見捨てたのですか!」と叫んだイエスの言葉こそがそこでは現実であり、真実です。
  この皮肉をわたしたちはどう受け止めたらいいのでしょうか。神はどこにおられるのでしょうか。
  サダム・フセインも、ジョージ・W・ブッシュも「神はわが方にあり」と主張します。しかし「神は我々を見捨てない」と声高に演説する人間の信仰が空しいウソで固められており、「神はわたしを見捨てた!」と叫ぶイエスの絶望の言葉こそが本当のことを言っているというこの皮肉を、わたしたちはどう受け止めたらいいでしょうか。

悔い改めるべきは何か

  レントの時期を過ごし、こうして受難週を迎え、イエスの受難と十字架の死を思うたびに、わたしたちは「本当に悔い改めるべきは何か」ということを、深く考えさせられます。
  私たちが悔い改めなければならないのは、イエスを十字架につけたのと同じような暴力を黙認している、すなわち、罪のない人に対して、その家族や仲間との間を引き裂き、その体に穴をあけ、血を流させ、骨を叩き潰し、絶望させ、そして絶望と孤立無援のまま絶命させる。そういうことを合法的な手続きをとってやる、という権力による暴力を容認している、ということなのではないでしょうか。
  イエスを十字架につけているのは誰か。
  「それは、あまり大きな声で言いたくはないが……実はわたしだ」という自覚が人間には必要ではないでしょうか。
  本当にやめなければならないのは、ひとりひとり神の愛する作品である人間を損なうことによって、神ご自身を傷つけ、神の創造のわざを冒涜することなのではないでしょうか。
  今日お読みした旧約聖書の記事は、勝利を感謝してのぼせ上がって神をたたえるのではなく、「神への信仰を標榜する者こそが何もわかっていない」「本当はわたしたちが神に対して罪を犯しているのではないのか」と悔い改めてを迫る言葉です。
  イエスを殺した罪。イエスと同じように人を殺し続ける罪。そしてその殺しを黙認する罪。それらを深く厳しく自らに問いながら、今日の聖書の箇所をもう一度読んでみたいと思います。

  耳の聞こえない人よ、聞け。
  目の見えない人よ、よく見よ。
  わたしの僕ほど目のみえない者があろうか。
  わたしが遣わす者ほど、耳の聞こえない者があろうか。
  わたしが信任を与えた者ほど、目の見えない者
  主の僕ほど目の見えない者があろうか。
  多くのことが目に映っても何も見えず
  耳が開いているのに、何も聞こえない。
  主はご自分の正しさゆえに
  教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
  この民は略奪され、奪われ
  皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。
  略奪に遭っても、助け出すものはなく
  奪われても、返せと言う者はない。
  あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。
  後の日のために注意して聞く者があるか。
  奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。
  それは主ではないか
    この方にわたしたちも罪を犯した。
  彼らは主の道に歩もうとせず
  その教えに聞き従おうとしなかった。
  主は燃える怒りを注ぎ出し
  激しい戦いを挑まれた。
  その炎に囲まれても、悟る者はなく
  火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった」


  ……祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神様。
  わたしたちの愛する主イエスが、彼の生きた土地では、当時の信仰者たちや宗教者たちの裁判によって、神を冒涜する者として裁かれたことを思い起こさせてください。
  そしてイエスご自身も、神から見捨てられたとの叫びをあげて、生涯を終えられたという厳しい事実をまっすぐに受け止めさせてください。
  神さま、わたしたちは、あなたへの信仰の名を用い、あなたを利用してさえも大きな過ちを犯しうる危険な存在です。どうかじっさいに犯してしまった罪の重さに気づかせてください。目を覚まさせてください。犯してしまった罪については具体的に、気づかずに起こしてしまった罪においても洞察を働かせ、自らの罪を深く悔います。
  神さま、どうかわたしたちを見捨てず、憐れんでください。
  この願いを、イエス・キリストの御名において、お聴きください。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール