あなたの神は本物ですか?

2008年8月31日(日) 日本キリスト教団紅葉坂教会 伝道礼拝説教

説教時間:約40分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書9章38〜42節 (新共同訳・新約)

 ヨハネがイエスに言った。
 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
 イエスは言われた。
 「やめさせてはならない。わたしの名前を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」

あなたの神さまは本物ですか?

 私はいま、関西のキリスト教学校で聖書の教員をしていますが、私がかつて通っていた中学校もキリスト教主義の学校で、聖書の授業がありました。入学したての中学1年生の授業が始まって間もない頃、その当時の聖書の先生がこんな話を語ってくれました。それも、その先生自身が中学生だったときのお話だそうです。
 その先生が中学生のとき、キリスト教の宣教師の先生と話す機会があったそうです。
 宣教師の先生は「あなたは神を信じていますか?」と聞きました。そこで彼は「信じています」と答えました。すると宣教師さんは、今度は「その神さまはどんな神さまですか?」と言いました。そこでこんな風に答えました。「自分の心の中で考えている神さまです」。するとさらに宣教師さんは、「その神さまは本当の神さまなのですか?」と聞いてきたそうです。
 すると、彼はどう返事したらいいのか困ってしまったそうです。神さまはいるんじゃないかとは何となく思っていたから「信じてます」とは言ってみたものの、その神さまが本物かどうかは考えたことはない。思い直してみれば、自分が想像している神さまだから、誰かが「あなたの神さまは正しい」と認定してくれたわけでもない。ですから、彼は「わかりません」と答えたそうです。すると宣教師さんは言ったのですね。「では、あなたに本当の神さまのことを教えてあげましょう」。
 そこで、その先生の話の落ちは、みなさん予想通りだと思いますが、「ですからみなさん、これから本物の神さまのことを学びましょう」というわけなんですね。

聖書との出会い

 そういう話を聞いて、「そうだ、本物の神さまのことを知ろう!」と思うほど素直な中学生が何パーセントぐらいいるのか、私も確定的な数字は知りません。考えたら1学期のうちにうちの生徒に聞いてくればよかったな、とも思いましたけれども……。とにかく、そのとき中学1年生だった私は、なぜか「神さまに、あるいは宗教というものに、本物があるんだったら、探してみたいな」と思ったんですね。
 というのは、そのキリスト教学校に入学する前、公立の小学校の4年生くらいの時でしたが、私に生まれて初めて聖書という書物があることを教えてくれた人がいました。それは、同級生のNくんです。
 Nくんは、いわゆるいじめられっ子でした。私も小学校ではいじめるよりも、いじめられ、泣かされることのほうが多いほうの子でした。しかし彼は私とは違い、泣くこともなく、人からどんなにからかわれても、殴られても蹴られても、絶対に仕返しというものをしませんでした。仕返ししないだけでなく、いつも微笑んでいました。
 いじめる子たちは、みんなの見ている前で、何度もNくんのお腹やお尻を蹴り上げて見せます。いつも彼は抵抗することもなく微笑んでいます。いじめっ子たちは「見てみ、こいつなんぼやられても、ずっと笑っとうねん。こいつやられて喜んどうで!」と笑い、暴力はどんどんエスカレートしていました。そして、暴力を振るう人たちが、さすがに飽きてその場を立ち去っていくと、見ていた野次馬もいなくなり、なんとなくその場を離れることができなかった私と、Nくんの2人だけがぽつんと残される、とようなことがしばしばありました。
 そんなNくんが、ある日、ぼくに1冊の黒いぶあつい本と、もう1冊赤くて小さな本を紹介してくれました。そして、自分はこの本に書いてあることを信じて守っているのです、と言いました(彼は誰に対しても敬語で話していました)。そして、これから2人で、この本に書いてあることを一緒に学びませんか、と誘ってくれました。
 その黒い本は聖書、赤い本は若い人に正しい生き方や正しい態度を教えている、聖書に基づいた道徳の教科書のような本でした。そしてその本に、「敵を愛しなさい」、「右の頬を打たれたら、左をも向けなさい」「怒ってはなりません……」といった内容のことを実際の人間関係の中で行うように、と書かれていたわけです。

永遠の命

 Nくんは、この教えを実行すれば、永遠の命が得られます、と言いました。この道を信じてゆけば、永遠の命が得られる、いつまでも若いままで死ぬことはない、というわけです。ただし、その前に一旦この世が終わり、すべてが滅亡しなければならないのですけど。
 当時私は、人間はいつか必ず死ぬということを強く意識する小学生でして。今、学校で教えていても、時々そういう同じような子がいますよね、「自分はいつか必ず死ぬ。死は永遠の眠りだ。それは夢のない眠りで、もう二度と目覚めることはない。二度と、いつまでも、いつまでも、二度と目覚めることがないんだ!」。そう考えると、恐怖のあまり「ウワーッ!!」と叫びだしたくなる。そういう子、一定数で必ずいます。私もそんな小学生でした。
 そんな私にとって、この世が一度滅んでも、信者はみな復活し、永遠のパラダイスでいつまでも生きることができる、という教えは聞き流す事のできないほど魅力的でした。
 それでだんだんとのめり込んでいくと、Nくんがある集会に誘ってくれました。彼が誘ってくれる集会というのが、「過ぎ越しの祭」という集会だったのですね。それで集会所の入口に羊の血を塗るんだとか、そういうちょっと怖い儀式をやるから来ないか、と言うのです。今思えば、彼ももっと普通の礼拝のような集会に呼べば良かったのにな、と思うのですが、とにかくその「過ぎ越し」は、なんか恐ろしい感じがして行けませんでした。まぁもともと怠惰な性格で、自分から出かけてゆくほど積極的ではなかったということもありますが、集会には行きませんで、もっぱらNくんといっしょに昼休みなどに、学校の片隅の誰にも見えないところで聖書研究をするほうが楽しかったのでした。

異端をも用いて?

 そうこうするうちに小学6年生になり、私学を受ける子は受験のシーズンとなりました。私は親から言われて、ある関西の大学併設校の中学校を受けることになりました。その学校はキリスト教の学校だということです。ですから、授業のなかで聖書を勉強するそうだと聞きました。
 そこで、私はNくんに「いっしょにこの学校を受験しようよ」と誘いました。「学校で聖書のことを教えてくれるんだよ!」と意気揚々として、果たして自分が合格するかどうかもわからないような無責任な状態で、Nくんを誘ったのでした。
 Nくんは困ったような態度で、「いや、ぼくは……」とか、「それは本当のキリスト教ではなくて……」とか、もごもごと口の中で言っていましたが、要はその学校には行きたくありません、とのことなのです。私は納得がいかないまま、とあるキリスト教学校に受験をし、どういうわけか合格して、入学してから聖書の授業を受けて、初めて「富田君、きみが付き合っていた友達は、『エホバの証人』という異端の宗教の人だよ」と教えられました。
 それが私と聖書との出会いです。私に最初に聖書を教えてくれたのは、キリスト教からは「異端」と呼ばれていた宗派の人なのです。たいへん手前勝手な言い方になりますし、物は言いようですが、神さまは「異端」と呼ばれる宗派をも用いて、私を導いてくださった、ということもできるかな、と思います。
 そして私は、今度は学校の聖書科の授業で、その先生がいうところの「正しい神さま」について学ぶことになりました。宗教の歴史的な成り立ちの話、聖書の解釈、あらゆることが、小学校の同級生が教えてくれるよりは詳しく、説得力をもって、私の心に迫ってきました。クラスメートに誘われて、日本キリスト教団のある教会に出席するようになり、高校2年生のときに洗礼を受けました。
 大学への進学で、神学部に行こうかどうか迷いましたが、親がまず許してくれなかったのと、そのころの神学部というのは「牧師になる人の学部」という印象が強く、「はたして、自分のような罪深い人間が、牧師のような清らかな職業についていいのだろうか」と大真面目に悩んで、結局他の学部、文学部に進学しました。
 文学部の隣が神学部で、神学部にも友達ができました。神学部の授業を聴講にも行きました。そこで教えていたのは、とてもリベラルな神学でした。そのころにはもう、この世の終わりのあとにやってくるパラダイスで、いつまでも死なずに生きていられるといったようなことは、信じられなくなっていたのは残念ですが、それでも聖書の非神話化などを始めとして、バッサバッサと迷信的要素を切り捨ててゆき、物事を合理的に判断してゆくそのやり方には胸のすくような爽快感がありました。
 そういう生活や学びを通して、私にとって正しい信仰というのは日本キリスト教団の信仰で、他の純福音の教会のやつらが信じているのは迷信に満ちていて非科学的だ、と思って私は他教派の人のことを見下すようになってしまいました。その頃には、まさか日本キリスト教団が、こんなにバラバラの信仰理解の集団だということは知りませんでした。自分が信じている信じ方が、日本キリスト教団における正しい信仰だ、と思いこんでいたわけです。
 もちろんこれは、今の私の考え方とは全然違います。信仰についての理解のしかたは、さらに二転三転して現在に至っていますし、現在でも変わりつづけています。ただ、かつての私には、自分の信仰が正しいと思い込み、他者の信仰を間違っているということを言い立てるために、自分のエネルギーの大半を消費しているという時期があったのだということは、自己批判的な意味で忘れまいと思っています。

14歳のイニシエーション

 さて、あらためて最初の、「あなたが心に描いている神さまは、本物の神さまですか?」という宣教師の問いに戻ってみたいと思います。
 このことで私が思い出すのは、11年前に起こったある猟奇的な連続殺人事件です。
 今から11年前、1997年に、私の故郷でもある兵庫県の神戸市須磨区で、小学生が連続的に殺される、しかも被害者の小学生の首が校門にさらされるという猟奇的な事件が起こり、全国的に報道され、また逮捕された容疑者が14歳の少年であったということもあり、大きな衝撃を世論に与えたので、ご記憶の方も多いのではないかと思います。
 実はこの事件には、いまだに解決されていない謎の部分も多く、えん罪ではないかという説もあります。容疑者である少年Aの母親が「えん罪ではないのか」と問いただすと、本人が「それはありえない」と答えたということも伝えられておりますので、謎が謎のままで刑が確定してしまっているのですが、本当に逮捕された人物が実行犯なのか、にはまだ疑問点があるのだ、ということは知っておいていただきたいと思います。
 ただ、この少年A(といっても今はもう25歳の青年なわけですが)について報道されたことを宗教学的に見ると、いくつか興味深いことが浮かび上がってきます。
 まず、14歳という年齢ですが、12歳から14歳という年齢は、子どもから大人へと、あるいは半分大人へと移り変わる時期にあたるということです。日本でも古来は数え年15歳、つまり満年齢では14歳ごろに元服式というものを行いました。またユダヤ人の成人式は、バール・ミツバというそうですが、これも13歳になった歳に行われます。他にも、13歳になった時点で成人式を行う民族はたくさんあります。
 そういう大人になる儀式というのは、「通過儀礼」または「イニシエーション」と呼ばれていて、要するに古い幼い子どもの自分は死に、新しい大人の自分に生まれ変わる、死と再生の儀式なんですね。世界には、成人式に死と隣り合わせの行動を若者に要求したり、極度の痛みを味わわせるようなことを施すところがあります。また、成人になった証しとして、他の部族の男の首を取ってくる、という血なまぐさい風習を持っていた少数民族もあります。
 この古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わるというのは、たとえば、これは成人式ではありませんが、キリスト教の入会儀礼もそういう意味を持っています。これまでの自分が死んで、新しい自分に生まれ変わって再出発をする、という意味が洗礼には含まれています。その際、教派によっては、クリスチャン・ネームという新しい名前をもらいます。
 また、死と再生というモチーフは、キリスト教の聖餐式でも形を変えて現れます。キリストの死と引き換えに私たちは彼の命をいただき、生かされる。それを私たちは、キリストの体であるパンと、血であるワインとを食する事で表します。考え方によっては残酷な意味を持つ儀式ですが、これによって私たちが新しい命に招かれているということは否定できません。
 翻って、少年Aの場合はどうであったかというと、彼は新しい名前を自分で考えて自分に名付けました。「酒鬼薔薇聖斗」という名前です。そして、小学生を殺し、首を切ってその血を飲みました。彼は「自分を清めるために飲んだ」と言っているそうです。これは、彼が自分で自分のためのある種の儀式を行ったのではないか、と考えられるわけです。
 そして、そういう出来事を起こすなかで、彼は自分の守護神を作っています。「バモイドオキ神」という神です。
 そうして見ると、少年Aがおこなったと伝えられていることのなかに、クリスチャンも含めて、多くの民族が伝統的に伝えてきたイニシエーション(通過儀礼)の要素が含まれていると考えられます。
 では、なぜ彼は自分でそういうイニシエーションをおこなったのかというと、いまの日本社会には、そういう本当の意味で、子どもから大人へと生まれ変わらせるイニシエーション(通過儀礼)は無くなってしまっているからでしょう。
 これは少年Aだけが特殊だったからではなくて、このイニシエーションの無い社会のなかで、それでもイニシエーションを必要とする若い人たちが、何をやっているのか、というと、インターネットのなかでハンドルネームという、自分の本名ではない匿名性の高い名前を名乗って、自分の年齢も身分も偽って別の人間に変身し、ネットの世界に乗り出してゆく。そこで死体を見れるサイトや、自殺を呼びかけるサイトなどにアクセスしたり、あるいは特定の人を誹謗中傷したり、嫌がらせメールを何百通も送りつけたり、というようなことをやっているわけです。もうそういうことにかける子どもたちのエネルギーというのはすごいです。
 それを昔の共同体は、若い人の残酷さも攻撃性も全部くるめた形でエネルギーを爆発させ、自分が死ぬか自分以外の人間を殺すかに関わらず、とにかく「死」というものに自分を肉薄させ、その痛みや恐怖/畏怖を通り抜けた者だけが、大人として共同体に迎えられる、という儀礼を行っていたわけです。

ふたたび、「あなたの神は本物ですか?」

 さて、「酒鬼薔薇聖斗」は「バモイドオキ神」という神を作り出していたというお話をしました。彼の神さまは本物でしょうか? そんな神聞いた事もない。それはひとりの少年の勝手な妄想だ、と言って片付けるのは簡単ですが、それでは、私たちが一人一人心の中に思い描いている神のイメージというものは「正しい」のでしょうか?
 キリスト教というのは、確かに地球上で一番大きな信者数を誇る宗教です。人類の3分の1はキリスト教徒だと言われます。しかし、それではあとの3分の2の人びとは「正しくない」のでしょうか。あるいは、キリスト教自体も、その2000年の歴史の中で、いやというほどキリスト教徒どうしで権謀術数を張り巡らせて戦い、殺しあってきました。その構図は現在でも変わっていません。
 同じキリスト教の中で、このグループの信仰が正しくて、あのグループの信仰は間違っている、ということがあるから、このような争いがあるのでしょうか。しかし、ある形の信仰が正しくて、ある形の信仰が間違っているというようなことは、会議の多数決や、支配者の気まぐれや、戦争のような暴力で決められてきたり、あるいは半永久的に分裂したり、というのが歴史の現実だったのではないでしょうか。
 イエスの支持者が多数派であったなら、イエスは十字架にかからなくても済んだでしょう。では、イエスは正しくなかったから処刑されたのでしょうか。そうではなく、キリスト者、クリスチャンというのは、彼が少数派の指導者であり、権力のない者の導き手であり、圧倒的多数で死刑を決議された者としてのイエスを信じているのではないでしょうか。それでは、多数決で決められてゆく真理というのは、何なのでしょうか。
 キリスト教内部でもこんなに分裂してしまうということは、誰かが正しくて、誰かが間違っているからなのでしょうか。いや、そうではなく、すべての人間が不完全で、誰も本当のことを完全に知っているわけではないからではないでしょうか。
 また、私にいちばん最初に聖書という本を教えてくれたのは、キリスト教からは一般に「異端」と呼ばれている宗派だということもお話しました。今の私にとって聖書はかけがえのない心のよりどころです。今の私の信仰の形は、私に聖書を教えてくれたその宗派とは全く違ったものになっています。しかしそれでも、私はその宗派に、私に聖書という本の存在を教えてくれた事に関しては感謝しているんです。その宗派との出会いがなかったら、私はいま聖書に関わる仕事をしていなかっただろうと思います。そういうことを考えると、ある宗派やあるグループの人間を、「間違っている」といって、排除し存在を否定するということは、あってはならないと思うのであります。

あなたならどう思う?

 本当は、誰もが正しいとは言えないのではないでしょうか。人間は何ほどか不完全で、いくらかは真理の幻をおぼろげにつかみつつ生きているというのが本当のところではないでしょうか。
 神は「超越者」であり「無限者」だといわれます。なぜ神がそう呼ばれているのかというと、有限な存在である人間には、決して神の全体を理解したり把握しきったりすることが、決してできないからではないでしょうか。
 また、旧約聖書・出エジプト記には、神がモーセに対して、「私はある」という者だと名乗ったという話が記されています。それは、神はただ存在している。それ以上に私たちが特定の名前を神に与える事は許されていない、人間が神を定義する事はできないということが示されているのではないでしょうか。
 もし私が、ある中学生に「あなたは神さまを信じていますか?」と聞いてみて、その子が「信じています」と答えてくれたら、「その神さまは本物ですか?」とは聞かないと思います。そう聞く事が間違いだとは言えないのですが、自分はそういう聞き方をしないと思います。私なら、「そう、それはいいねえ。なかなかそういうことがはっきり言えない人が多いからね」と喜ぶと思います。そして、その子の中の神さまについての思索が、少しずつでも深まるように授業をしたいと思うでしょう。「これが正しいことだ」と教え込もうとするのではなく、「ぼくならこう信じたいんだけどね」と言いつつ、「あなたならどう思う?」と聞きながら、授業を進めてゆくでしょう。
 私が願っていることは、その人が心の中に抱いている神さまのイメージを追い求めるために、クリスチャンが手助けをすることです。どの信仰者も信仰の完成という事はなく、みないくらかは求道者であろうと思います。この求道は行きている限り終わりません。そのような、さまざまな地点に立つ求道者たちが、新しい若い魂の持ち主を「正しく」導くのではなく、その人自身の中にある神への思いを大切に育ててゆくということが大事なのではないかと思っています。
 さて、最後になってしまいましたが、本日の聖書の話です。

イエスに反対しない者はイエスに賛成する者

 本日お読みしました聖書の個所、マルコによる福音書9章38節以降、弟子たちがイエスに、イエスの名によって悪霊払いを行っているよそ者に対して、「わたしたちに従わないので」(マルコによる福音書9章38節)やめさせようとします。しかし、イエスは「やめさせてはならない」と言います。
 ここで大事なところは、「イエスの名によって」人を癒している人に対して、弟子の一人であるヨハネが「イエスさま、あなたに従わないので」ではなく、
「わたしたちに従わないので」やめさせようとしたというところです。
 「イエスの名前を利用するなら、我々に従ってこなければならない」という閉鎖的な教団主義です。
 これに対してイエスは、「わたしたちに反対でない者は、わたしたちに賛成する者である」という寛容の精神を示し、「イエスの名を使って、あるいはキリストの弟子だという理由で、人をいたわり癒す人は、神さまの報いを受けないことはない」と言っています。
 弟子たちが、自分たちの教団の正統性を主張して、自分たちに従わない者たちを排除しようとしたわけですが、イエスはそういう行為を否定し、さまざまな人の群れがさまざまな形で、イエスの名において愛を実践する事を勧めたわけです。
 さらに、このマルコ福音書は、続く42節で、
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とまで言っています。
 マルコにおいては、使徒たちの教会だけが正しいのではなく、イエスの名によって働く他の人びとも、「イエスを信じる小さな者」です。それをつまずかせる者、すなわち、自分たちの仲間にならない者は排除しろ、というような閉鎖的な思い上がった教団指導者たちは、海に投げ込まれてしまえ、とマルコは言うのであります。
 私たち人間に許されているのは、自らの正しさと他者の間違いを言い立てることではなく、「私も神さまのことを少しでも知りたい」というへりくだった心で、いっしょに信仰と人生の味わいを深めてゆく、また「イエスならどうしただろう」ということを考えながら、少しでも人を愛することができるように努力してゆく、ということなのではないだろうか。そういうことを思います。みなさまなら、どう思われますでしょうか?
 お祈りいたしましょう。

祈り

 私たちを愛し、また互いに愛する心を与えてくださる神さま。
 今日こうして紅葉坂教会において共に礼拝に与れる恵みを心から感謝いたします。
 もし、私たちがあなたのことをわかりきったように、悟りきったようにふるまうことがありましたら、そのような私たちを戒め、へりくだった思いに立ち返らせてください。
 しかし神さま、御心でしたら、あなたの思いを私たちにお知らせください。私たちがその御心に気づけますように、どうかお導きください。
 キリストであるイエスの御名によって、お祈りいたします。
 アーメン。

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