religio:レリギオ…つながりを求めて (改訂版)

2004年7月31日(土)於:日本キリスト教団光明園家族教会
同志社国際高校サービス部&同志社香里高校ボランティア部 合同夏合宿@長島「邑久光明園」 夕礼拝奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書18章18〜20節

  はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
  また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
  二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(新共同訳)

宗教とは「つながり」のこと

  ぼくは新しい「宗教」を作りたいんです。
  ……なんてことを言ったら、みんなびっくりしますよね。
  これは実は「宗教」という日本語がおかしいので、そういうことになってしまうんです。「宗教」というと、何かの教え、みたいな漢字ですね。だから、宗教というのは日本人はみんな何かの教えなり思想なり教義などがあって、それを信じるというか、正しいと思い込んでついて行ってる連中が宗教、みたいな印象を持っている人が多い。
  けれども、日本語で「宗教」と言っている言葉のもとの意味は違うんですね。
  「宗教」を英語で言ったら何と言いますか?
(→5人ぐらいあてて、やっと「religion」というお答えが……おーいみんなもっと単語勉強しろよ)
  そう、“religion”(レリジョン)ですね。で、この“religion”の語源が、
“religio”(レリギオ)というラテン語です。で、この“religio”(レリギオ)という言葉のもともとの意味が、「つながり」とか「つなぐもの」ということなんだそうです。
  さて、そこでもうひとつ質問ですが、この“religio”、日本では「宗教」という言葉のもとになった言葉が示している「つながり」は、いったい何と何を、あるいは誰と誰とつなげよう、結び付けようとするものだと思いますか?
(→「神と人」というお答えが3割、「人と人」というお答えが7割)
  実は、厳密に調べた結果ではありませんが、おそらく「人と人」だと思うんですね。もちろん一つの宗教だけをとれば「神と人のつながり」という教義を持っている宗教もあるだろうけど、一見宗教に見えない宗教もあるから、やはり“religio”のつながりというのは、宗教というものの本質からいって、「人と人をつなぐもの」という認識のほうが妥当ではないかと思います。

人を癒す「つながり」

  人間にとって、最も苦しいこと。人間をいちばん苦しめるもの。それは、無意味と孤独だと思います。
  人間にとって、「今までの自分の人生はなんだったんだ?!」とか、「今までのことは全て何の意味もなかった」とか、「わたしには生きている意味なんかない」とか、そういう風に思い知らされることがいちばんつらい。そして、「わたしには誰も味方がいない」、「こんなにたくさんの人が回りにいるのに、本当はわたしはひとりぼっちだったんだ」と思い知らされる瞬間ほど、人の心を押しつぶすものはありません。
  こういう無意味さとか、孤独というものを、癒してくれるのが宗教。要するに、宗教というのは「つながり」やから、人と人とのつながり、結びつきが、人の無意味さや孤独を癒してくれるわけです。
  だから、「イエス・キリストの名のもとに」つなげられた者どうしが集まると、キリスト教になるわけです。
  マルクス主義や組合運動で集まれば、共産主義になります。
  そして、大和魂とか愛国心とかそういうもので集まると、ナショナリズムになるわけです。
  それぞれの集まりの内部では、いろいろ自分たちのことを説明する神学や、教義や、思想体系などがあったりしますけど、たいていはその集まりの外部のものには通じない理屈です。
  で、客観的に見てみると、「つながりあう」「群れる」ことによって、孤独を癒し、自分が毎日生きているのは何のためかという意味を見出している、という現象。それが宗教現象だということになるわけです。
  さめた言い方をしているようですが、この宗教の役割はたいへん重要なものです。人が無意味と孤独の中では生きられないのです。科学的な知識やお金や娯楽では、この無意味と孤独は埋められません。“religio”=「つながり」、すなわち宗教的なものだけが、人の心を救うのです。

イエスの宗教

  今日読んだ聖書の個所で、イエスは見事に「宗教とはなにか」ということを言い当ててくれていると思います。
  
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節:新共同訳)
  「二人または三人」です。人が「独り(ひとり)」でいるところには宗教は生まれないのです。
  
「二人」とは、孤独ではない最低の人数です。この二人から宗教、つまり“religio”が生まれます。そして、この人びとをつなぐものがイエスの名によるものであるならば、それを「キリスト教」と呼びます。
  洗礼を受けたかどうかということが一番重要なわけではありません。イエス・キリストの名を使って集まっていることが重要です。ですから、ここにいるみんながキリスト教の洗礼を受けていなくたって、これはキリスト教学校のクラブの合宿で、イエス・キリストの名によって礼拝をしているのだから、これはキリスト教の集まりです。
  さて「二人または三人」と言われています。二人は孤独ではない最低の人数と言いました。三人とはどんな人数でしょうか。
  
「三人」とは、差別がはじまる最初の人数なのです。いやもちろん二人でも不公平や力関係という意味での差別やイジメがあったりはします。しかし、ここで私が言っているのは「少数者排除」あるいは「少数者に対する攻撃」、「スケープゴート」という意味での差別・イジメなのです。
  ある人が別のある人と仲良くしようとすると、その一番手っ取り早い方法は、共通の知人の悪口を言い合うことだといわれます。三人の人がいると、二人が仲良くなるために、残りの一人を仲間はずれにするということが、すぐに起こります。
  何かを分け合おうとするときでも、二人なら単純に半分分けにすれば良い。四人でも2回半分分けにすれば良い。割り切れる数字というのは簡単なのです。しかし、三人というのはそう簡単に「割り切れない」。不公平な仲間割れが起こるリスクが高まる最初の人数、それが「三人」です。
  しかし、それでもイエスの名のもとに、神の愛の名のもとに、集まろう。この「つながり」を崩さないように生きていこう。それが「キリスト教」という癒しの方法なんですね。

「つながり」の落とし穴

  人は「つながる」ことによって、自らを救い、癒す。それが宗教現象。しかし、たった三人からでも、人は「つながり」の「内」と「外」に人間の集団を切り分けて、仲間はずれを作り出します。そしてその暴力性は、「内」に入る人数が多くなればなるほどひどくなり、また狂気をおびてゆきます。
  たとえば、さっきキリスト教も、共産主義も、ファシズムも「宗教」だと言いました。
  キリスト教がどんなひどい暴力を働いてきたかは歴史の授業を聞くだけでも相当なことがわかりますよね。魔女狩り、異端審問、十字軍。日本は実戦で核爆弾を投下された唯一の国で、この原爆のせいで30万人以上の人が命を奪われている。まさに大虐殺ですが、この原爆投下の飛行機が飛び立つ時だって、ちゃんと従軍牧師が作戦の成功をキリスト教の神さまにお祈りしている。
  共産主義ってのは、建前上はなかなかいい考えのようです。みんなで働き、みんなで収益を分配し……。でもそれを実践できない。じっさいにはものすごい独裁者やカリスマを崇拝したり、異端者や反対者をコンセントレーション・キャンプに送ったり、大粛清を行ったり、ロシアも中国も他の国も、めちゃくちゃ血生臭いことをやってきました。マルクス主義ってのは宗教を否定するけど、やってることはマルクス崇拝と、党への狂信です。
  そうしてヨーロッパ、アメリカも、ロシアも中国もコワイなと思っていたら、日本人もコワイのです。「進め一億火の玉だ」とか、「天皇陛下万歳」とか言いながら敵艦に突っ込んで死ね、とか。あれは自爆テロです。追い詰められた小国の民族が、お国のために殉死したら、魂は靖国の神となると教え込まれて、敵に爆弾持って突っ込むわけでしょう。どんなに「違う」と右翼の人が言ったって、あれは狂信的自爆テロです。そんなことを言ったら信じて突っ込んだ人の魂が浮かばれない、というのは話がおかしい。そういうことを国民に信じ込ませた国の責任だと言っているのです。
  そうやって、どんな「宗教」でも、たしかにその中にいる人には、孤独を癒し、生きている意味と、不思議な心のたかぶりや喜びまで与えてしまうけれども、その反面、いったん内向きになって自分たちの群れの外にいる人が見えなくなったときには、それに伴って神も自分も見えなくなって、凶器と暴力に走ってゆく、グループに同化できない者の排除やグループの外にいる者への攻撃をとめることができない、という危うさがあるのです。人間は「こわれもの」なのです。
  また「宗教」的な集まりのリーダーたちはそういう人間の「こわれもの」性を意図的に利用してきたという面もあります。特に他の宗教、他の国や民族と戦うときには、そういう「内」で盛り上がり、「外」を排除する集団心理が戦闘意欲をかき立てるのに役立つからです。
  これは国や民族のような大きな単位でなくても、もっと小さな単位。たとえば、学校という小さな社会でも同じです。特にチームプレイで勝敗を決める運動部などで、自分の学校の歴史も建学の精神もなにも理解してないくせに、妙に自分の学校の名前だけ連呼して、「○○魂」とか「△△スピリット」とか言っているのも、あれも一種の宗教現象なのです。

あえて「ひとり」へ

  たとえ「二人または三人」という少人数であったとしても、そのグループが内向きになってしまえば、もう新しい「つながり」を発見できません。
  同志社香里でかたまってしまうと香里しか見えなくなる。同志社国際でかたまってしまうと国際しか見えなくなる。あるいは同年輩の高校生で固まってしまうと、元患者の人が見えなくなってしまう。そうなってしまうと、せっかく何時間もかけて列車に乗ってきてハンセン病の療養所にやって来ても、教室の中で騒いでいるのと同じだし、どこに行っても同じことで、何の変化も起こらない。そんな合宿など何の意味もない。
  だから、ぼくはあえて、みんなに
「独り(ひとり)」になることを求めたいと思うのです。
  人間をいちばん痛めつけるのは孤独だ、宗教“religio”は人間を孤独から救う大切なものだ、とさっき言ったばかりなのに、「孤独になれ」と言うのは矛盾しているように聞こえるかもしれません。
  しかし、「ひとり」の状態を作らないと、新しい出会いはありません。この合宿でも、今日までに何人かの人が、たとえそれが短時間であったり、一瞬であったりしても、この療養所の中に住んでいる人との思いがけない出会い、ふれあいを経験しましたが、それはいずれも、ふと「ひとり」になった瞬間だったはずです。反対に、ひとりにならずに同類で集まって遊んでいた者はそういう経験をするチャンスをゲットできませんでした。つまり、「出会い」、「つながり」を経験するためには、「ひとり」の状態になる必要があるのです。
  孤独を恐れない人こそが、新しい出会いを発見できます。
  「ひとり」になることが怖い人は、自分という個人が確立できてないので、どこまでも外側の定義に埋もれて、個人としての人間性で人と向き合う勇気がありません。「おまえは何者だ」と問われたら、「ぼくは香里です」、「ぼくは理系です」、「ぼくは大阪人です」……そうではなく、「ぼくは、ぼくです」という自分の個性が出てこないと、本当に人と出会って、「つながる」ということはできないのです。

橋をかけよう

「瀬溝」……長島と対岸の虫明との間は30メートルほどしか離れていない。しかし長年の間、この溝のような海峡に橋はなく、小さな渡し舟で行き来していた。 「邑久長島大橋」……1988年5月9日開通。長島を隔離された世界から解放する役割を担う反面、外部の人間による悪意ある侵入も容易になった。

  この合宿は「もう」あと一日しかありません。あるいは「まだ」一日あります。(→じっさいには台風の影響で一日帰還を延期し、あと二日滞在することになった)
  
残りの時間で、自分たちで群れてしまうのではなく、「ひとり」の人間として、新しい出会いを発見してほしい。そしてできれば「つながり」を作ってほしい。
  この長島という島には、1988年以来、物理的な橋はかかってはいるけれども、心に橋がかからなかったら何の意味もない。
  だから、よく知っている仲間内と固まるのではなく、「ひとり」になって、人と遭って、話をする、ということをやってほしいと思います。

いつも新しい「レリギオ」を

  “religio”、それは必ず、人の心を癒し、和ませ、救ってくれるものです。
  しかし、いったん作った“religio”にこだわって内向き指向になってしまうと、今度はその“religio”は人を排除し傷つける道具になってしまいます。
  人間にとって、“religio”は大切なものだけれど、いつでも既成の“religio”を出て、次の“religio”を求めてゆくことのできる姿勢も大事なのです。そうでないと人を救い続けることはできません。“religio”は常に新しく作られて、初めて人は救われ続けるのです。
  みんなには、明日、そしてこれからも、いつも新しい“religio”を、すなわち人とのつながりを作っていってほしいなと思います。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  明日こそは、私たちを新しい出会い、新しいつながりに導いてください。
  また、既に知っていると思っている仲間の間でも、新しい出会いなおしができますように。
  そして、あなたの名において、愛を分かち合い、喜びを分かち合うことができますように。
  その喜びを、まだ分け合っていない未知の人とも、新しく分かち合うことができるような、そのような人間に、わたしたちを変えてください。
  この願いを、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

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